現在の日本人にとって、天皇が即位すると新しい元号になること、つまり「一世一元制」が当たり前になっている。そのために、日本では昔から「一世一元制」が定着していたような錯覚に陥ることがある。
そこで、元号使用の始まりから現在までの変遷を簡単に振り返ってみよう。
(1)元号の使用開始

日本で元号が始めて使われたのは、西暦645年、「大化の改新」の時だった。
その年、中大兄皇子と中臣鎌足は皇極天皇を退位させ、皇極天皇の弟を孝徳天皇として即位させ、豪族を中心とした政治から天皇中心の政治へと体制を変革した。
その際に、「日本」という国名と「天皇」という名称、そして「大化」という元号が定められた。
元号は、唐の制度を取り入れたもので、暦の日、月、年に特定の区切りを与え、「時の支配者」の存在を人々に意識づけるために役立ったに違いない。
(2)飛鳥時代から江戸時代まで
wikipediaに掲載されている日本の元号一覧を一瞥すると、改元の理由が天皇の即位と関係していない場合が数多くあることがわかる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%8F%B7%E4%B8%80%E8%A6%A7_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
元号が日本に定着した701年に定められた「大宝」という年号は、天武天皇の即位とは関係なく、対馬国から金が献上されたことを契機としている。
飛鳥時代から江戸時代までを見ていくと、元号を変更する理由は次のようなものだった。
1 | 地震や大火事が起きた際に人心を一新するために行う「災異改元」 |
2 | 干支(えと)が辛酉(かのととり=西暦年を60で割って1が余る年)や甲子(かっし=60年に一度の甲子(きのえね)の年)にあたる年には大変革が起こるという思想があり、改元してその難を避けるという習慣に従った「革年改元」 |
3 | 天皇の交代に合わせた改元 |
4 | 徳川将軍の代替わりに合わせた改元(江戸時代) |
平安時代は貴族の時代であり、天皇の践祚(せんそ=天子の位を受け継ぐこと)による改元が多く見られるが、鎌倉時代を境にして武士政治の時代になると、天変地異などの「災異改元」や「革年改元」の回数が増加した。
江戸時代に政治を支配していたのは徳川幕府であり、幕府と京都の朝廷がある程度やりとりした上で、元号が決められた。
また、識字率がある程度高かったために、新しく元号が定められると、幕府からそれぞれの藩を通じて各地に伝えられ、地方の農村にも浸透したと考えられている。
(3)明治時代以降
慶応4年9月8日(1868年10月23日)、慶応4年を改めて「明治元年」とし、その際に、天皇一代に元号一つという「一世一元制」が定められた。
645年の「大化の改新」の際に唐の元号制を参考にしたように、「一世一元制」も清の制度を取り入れたものだった。
明治政府は、国家の近代化を進めるためにアメリカ、イギリス、フランス、ドイツ等をモデルとしたが、心理的な次元では、6世紀の仏教伝来以来19世紀後半まで約1300年続いてきた中国大陸からの影響が色濃く残っていたことの証だと考えていいのかもしれない。
その後、明治22(1889)年2月11日に公布された大日本帝国憲法に含まれる皇室典範で、「一世一元制」が正式に規定された。
明治42(1909)年には、改元の方法が明記され、新天皇の即位直後に元号が改められることが明記された。
第二次世界大戦後、昭和21(1946)年11月3日に日本国憲法が公布されたのに伴い新しい皇室典範も定められたが、そこに元号に関する規定はなかった。
その後、天皇制に対する反対もあり、元号廃止論が日本学術会議や社会党などから唱えられることがあったが、昭和54(1979)年になり、「1. 元号は政令で定める。2. 元号は皇位の継承があった場合に限り改める」という簡潔な元号法が定められ、現在に至っている。