
膨らめた「思い出」の最後、獲物のニンフは逃げ去ってしまう。そこで牧神は、それまでの思いを断ち切るかのように「仕方がない(Tant pis)!」と口に出し、意識を他所の向けようとする。
Tant pis ! vers le bonheur d’autres m’entraîneront (93)
Par leur tresse nouée aux cornes de mon front :
Tu sais, ma passion, que, pourpre et déjà mûre,
Chaque grenade éclate et d’abeilles murmure ;
Et notre sang, épris de qui le va saisir,
Coule pour tout l’essaim éternel du désir.
仕方がない! 幸福に向かって、別の女たちが、おれを連れていってくれるだろう、(93行目)
彼女たちの髪を、おれの額の角に結んで。
お前は知っている、おれの情念よ、真っ赤に色づき、すでに熟した、
一つ一つのザクロが破裂し、蜜蜂でざわめいているのを。
おれたちの血は、それを捉えようとする者に夢中になり、
流れていく、欲望の永遠の群全体のために。
牧神は人間と山羊を融合させた外見を持ち、しばしば頭に角の生えた姿で描かれる。
ここで牧神は、夢のニンフとは違う女たち(d’autres)が、彼の角(les cornes)に髪(la tresse)を結び付け(nouée)、いつか彼を幸福(le bonheur)へと導いていくだろう(m’entraîneront)と口にする。
しかし、その幸福は、決して夢のニンフを通して得られる幸福と同じではない。
そのことは、対立する2つの芸術観と関係する。
すでに21-22行の詩句で、インスピレーションの人工の息吹(le souffle artificiel de l’inspiration)という言葉が用いられ、技術(アート)とインスピレーションが問題にされた。
一方には、神から与えられるインスピレーションを中心にした芸術観があり、そこでは、芸術家はインスピレーションに導かれて創作を行うと見なされる。
他方、技術(アート)を中心にした芸術観においては、作品は創造者によって意識的に構成される必要がある。その場合、主体となるのは芸術家であり、インスピレーションは補足的な役割を果たすだけにすぎない。
エドガー・ポーやボードレールに続き、マラルメも「構成」中心の芸術観を支持していた。従って、角を引かれて導かれるタイプの創作、つまり、芸術家、詩人が主体とならない芸術創造が幸福をもたらすとは考えなかったはずである。
だからこそ、牧神は次に、自らの情熱(ma passion)に語り掛ける。

そこに出てくるchaque grenade(一つ一つの石榴)のchaqueは、「思い出」の最初で牧神が視線によって射貫いたchaque encolure(一つ一つの首筋)を思い出させる。
不定形容詞chaqueにより一つであることが強調されたニンフが、次に二人に分割されるように、ザクロも真っ赤に熟す(pourpre, mûre)と、破裂し(éclate)、たくさんの蜜蜂(abeilles)がよってきて、ぶんぶんと音をたてる(murmure)。
角を女たちの髪で引かれるのと同じように、「一」が「多」へと分裂するザクロも、牧神の思いを満たすものではない。
次に、牧神の望みが分裂ではなく、全体性であることが再確認される。
牧神と牧神の血(notre sang)が流れていく(coule)のは、蜂の群全体(tout l’essaim)の方向。
essaimは、本来、蜂の群を意味するが、toutという言葉によって、多数の蜂が一体化している様子が強調される。
さらに、その群全体が永遠(éternel)であるとされ、時間の流れから逃れている。つまり、熟して破裂するザクロとは反対の性質を持つ。
私たちの血(notre sang)が、その血を得ようとする者(qui le va saisir)に夢中(épris de)という表現は、主体と客体が逆転し不自然に感じられるが、要するに、夢中になってその血を捉えようとする者という意味と理解していい。
その者とは牧神に他ならず、牧神の血が欲望(le désir)の群(l’essaim)の方に(pour)、流れているということになる。
従って、牧神は「仕方がない(Tant pis)!」と一旦は夢のニンフを捉えることを諦めたように見えるのだが、しかし、彼の血は欲望に向かい常に流れ続けているのだ。
その血の流れる状態が、99-103行の詩句を通し、シチリア島にあるエトナ山の噴火として描き出される。
À l’heure où ce bois d’or et de cendres se teinte (99)
Une fête s’exalte en la feuillée éteinte :
Etna ! c’est parmi toi visité de Vénus
Sur ta lave posant ses talons ingénus,
Quand tonne un somme triste ou s’épuise la flamme.
この森が、金と灰に染まる時、(99行目)
一つの祭りが高揚する、火の消えた葉叢の中で。
エトナ山よ! それはお前の中だった、ヴィーナスが訪れ、
お前の溶岩の上に、彼女の無邪気な踵を置いたのだ。
その時、悲しい眠りが鳴り響き、炎が尽きる。

森(ce bois)が金(or)と灰(cendres)に染められ(se teinte)、火の消えた葉陰では(en la feuillée éteinte)、ある祭り(une fête)が行われる。
それは、真っ暗な夜を背景として、真っ赤に燃える溶岩と灰が吹き出される噴火ではないか。
ここで注目したいのは、祭りが二つの対立する要素を合わせ持つこと。
つまり、色彩は炎の金色と灰の色で構成され、祭りは高揚する(s’exalte)のだが、それは消えた(éteinte)葉叢の中でのこと。
美と死という要素が、隣合わせで感じられる。

エトナ山への呼びかけの後、その山をヴィーナスが訪れると言われるのは、女神の夫であり鍛冶の神ヘーパイストスの仕事場が、その山にあるとされることから来ているかもしれない。
しかし、それ以上に、ヴィーナスが、美の女神として、エトナ山の噴火口から吹き出した溶岩を踏みしめることに焦点が置かれていると考えたい。
23行目の詩句で、シチリア島の岸辺(bords siciliens)に向かい「物語ってくれ(CONTEZ)」と命じたのは、泉の上に緑の葉が映り、黄緑色になった水の上で、白い生き物(une blancheur animale)がゆらゆらと揺れ動くことだった。葦笛の音楽が聞こえ、白鳥かと思われるニンフたちが、空に舞い上がったり、水に潜ったりする。
エトナ山を訪れるヴィーナスの踵が無邪気(ses talons ingénus)なのは、かつての白い生き物を連想させるためだろうか。
いずれにしても、それは牧神が追い求める美の姿だといえる。
しかし、その一方で、エトナ山での眠り(un somme)は悲しく(triste)、炎(la flamme)は燃え尽きていく(s’épuise)。
牧神の中を流れる血液は火山のように沸き立ち、ヴィーナスを捉えようとする欲望の一群に向けて流れ続ける。そんな風に、美を求める情念は永遠に燃え立つのだが、しかし、美は、葦笛から流れ出る音楽のように、捉えたと思った瞬間、消え去ってしまう。
捉えたと思った美が消滅する瞬間は、104行目の詩句によって映像化される。そして、「牧神の午後」という曲のコーダとも言える詩句が続く。
Je tiens la reine !
Ô sûr châtiment…
Non, mais l’âme (104)
De paroles vacante et ce corps alourdi
Tard succombent au fier silence de midi :
Sans plus il faut dormir en l’oubli du blasphème,
Sur le sable altéré gisant et comme j’aime
Ouvrir ma bouche à l’astre efficace des vins !
Couple, adieu ; je vais voir l’ombre que tu devins. (110)
おれは女王を捉えている!
おお、確かな懲罰・・・
いや、しかし、魂は(104行目)
言葉をなくし、体は重く、
後に、屈する、正午の誇り高い沈黙に。
それ以上はなにもせず、眠らなければならない、冒瀆を忘れ、
乾いた砂の上に横たわり。でも、おれが好きなのは、
口を開くこと、ワインの効果をすぐにもたらす星に向かって!
一組のニンフよ、さらば。おれは今から影を見に行くことにする、お前がなった影だ。(110行目)
104行目の詩句には、視覚的にも、聴覚的にも、特別の仕組みが施されている。
Je tiens la reine (4) ! / Ô sûr // châtiment… (5) / Non, mais l’âme (3)
この一行の詩句が、4/5/3の音節で区切られた上で、3行に分割して配置される。
その素早く変化するリズムにあわせて行が変わる様子は、捕らえたかと思うその瞬間にはすでに逃げ去っているニンフを思わせる。
意味も形態と対応し、次々に変化する。
女王(la reine)を捉えている!と叫ぶと、その瞬間に、確実に罰せられる(sûr chatîment)という気持ちがわき上がってくる。
理想を目指すことはクリエーションの原動力ではあるが、理想に到達しえたと思うとしたら、それは幻でしかなく、すぐに失望に変わる。それが懲罰なのだ。
その畏れを抱きながらしばし戸惑う様子が、三点リーダ(…)で示される。
しかし、次には、罰ではない(Non)と思い直し、 魂(l’âme)へと意識が転じていく。
このように、104行目の詩句は、形態とリズムと意味が対応し、牧神の思いを見事に具現化している。
。。。。。
「理想に達した。そうした思いは幻にすぎず、理想は逃げ去るという罰を受ける。いや、そんなことはない。」そう自問したの後、牧神の意識はこの詩の冒頭へと戻っていく。
つまり、眠りから覚めつつあり、夢と現実の狭間の状態から始まった独白が、最後に至り、再び眠りへと向かう。
直前でもエトナ山の眠り(un somme)に言及され、眠りの予告はなされていた。
それを受けたかのように、魂(l’âme)と肉体(le corps)は、正午の沈黙(le silence de midi)に屈する(succombent à)。そして、砂の上で(sur le sable)眠らなければならない(il faut dormir)。

その時には、魂から言葉が抜けて空になり(vacante de paroles)、肉体は眠気で重くなっている(alourdi)。
そして、ニンフのいた泉が干上がった跡だと考えられる乾いた砂(le sable altéré)の上に横たわり(gisant)、天空の星(l’astre)に向けて口(ma bouche)を広げ(ouvrir)、眠る。
その眠りの中で牧神が望むことは、ワインが彼を効果的に(efficace)酔わせること。
その望みは、空のブドウの房(la grappe vide)に息を吹き込みながら熱望した酔い(avide d’ivresse)を思い出させる。
たとえニンフが最終的には逃れ去るとしても、たとえ理想に達することができないとしても、ニンフが姿を変えた葦の笛から発する一筋(une ligne)のメロデイーが、美を暗示する一つの詩句が、酔いをもたらす。
。。。。。
余白を挟み、最後に置かれた110行目の詩句は、詩の全体を凝縮しながら、冒頭の詩句へとつながる。
Ces nymphes, je les veux perpétuer. (…) (1)
Couple, adieu ; je vais voir l’ombre que tu devins. (110)

couple(カップル)とは、冒頭で呼びかけられたニンフたち。
最初は、そのニンフたちを永遠のものにしたい(perpétuer)と望んだ。
最後は、ニンフたちに「さらば(adieu)!」と別れを告げ、影(l’ombre)を見に行くのだと言う。
カップルが影となったのは、devinsという動詞の単純過去が示すように、現在とは断絶した歴史や物語の次元。
現実の次元にいる牧神に見えるのは、ニンフそのものではなく、ニンフの影。その影を見ようと務めることが、ニンフたちを永遠にすることにつながる。
理想そのものに触れることはできないが、理想を求めることが、理想を永続させる。
そこで鍵となるのは、「一」と「多」の戯れ。理想は「一」だが、それを具現化する際には多様な姿を取る。
牧神の最後の詩句は、その戯れを暗示する。
coupleという形態は単数だが、意味は複数。さらに、実際にはニンフは二人であるにもかかわらず、tu(お前)と呼ばれる。
単数であることで、ニンフたち(ces nymphes)が、実は、唯一の美が異なる形で具現化された姿であることが暗に示される。
だからこそ、影を見ようとすることが、美の化身であるニンフたちを永遠のものとすることになる。
こうした牧神の独白は、言うまでもなく、詩人マラルメの独白でもある。
マラルメの詩の目的は美を喚起することであり、そのために美の影を詩句として定着させようとした。
その詩句が読者に酔いをもたらし、恍惚とした中で一人一人の読者が各自の美の印象を感じ取ることになる。
「牧神の午後 田園詩(L’après-midi d’un faune Eglogue)」を6回に分けて読んできたが、どの詩句をとっても意味を理解するのが難しい。
その難しさはフランス語を母語にする読者にとっても同じことであり、詩の価値が認められるまでには時間がかかった。
マラルメが「牧神の午後」を書き始めたのは、1865年のこと。その時期に書いていた「エロディアード」に行き詰まり、古代の神話を題材にした英雄的な幕間劇(intermède héroïque)を構想したのだった。
そして、牧神を主人公にした韻文の芝居を書き上げ、コメディー・フランセーズに持ち込んだ。だが、マラルメ自身が朗読した審査会の結論は思わしくなく、不採用となる。
1875年になり、幕間劇から独白の部分だけを取り上げ、上演のためではなく読むための詩として書き直し、第3次『現代高踏派詩集』に投稿した。
しかし、編集を担当したアナトール・フランスは、意味不明の詩を掲載したら自分たちが馬鹿にされると強く反対し、ここでも不採用になった。
この二つの拒否は、「牧神の午後」が最初から高い評価を受けていたのではなく、むしろ理解されがたいものだったことを示している。
1876年、エドガー・ドガの挿絵入りの豪華本が限定出版されたのは、従って、幸福な出版というよりも、無理解の結果だった。
しかし、詩の理解は困難だったにもかかわらず、詩句の音楽性の美しさが徐々に評価されるようになり、それがマラルメの詩人としての評価を高めていったのだった。

Mélanie Traversierの素晴らしい朗読を耳を傾けてみよう。
現在では、「牧神の午後 田園詩」はマラルメの作品の中でもっとも優れた詩の一つと見なされ、その評価は定着している。
その理由は、牧神がニンフを追い求めることで表現された詩のコンセプトが、時代の経過とともに理解されるようになり、「牧神の午後 田園詩」の詩的な美を感じ取ることができる読者が育ったからだと考えていいだろう。
。。。。。
翻訳で読む場合には、フランス語の音楽が失われてしまうことは当然のことながら、翻訳者の言葉の選択や解釈の問題も入ってくる。
例えば、冒頭の詩句。訳者によって、perpétuerの理解の仕方はかなり違っている。
Ces nymphes, Je les veux perpétuer.
あのナンフたち、永遠に続けていたい。(渡辺守章訳)
あの娘(ナンフ)たちを、抱き留(とど)めようとおれは望む。(原大地訳)
あのニンフたちを、永遠のものとしたい。(柏倉康夫訳)
永遠なものとするか、抱き留めるでは、まったく違う意味になるし、詩全体の印象も異なったものになる。
構文も含めた解釈の違いもいたるところで見られるが、118行目の詩句を取り上げると、sableの後ろのaltéré gisantに関して、訳者によって見解が違うことがわかる。
Sur le sable altéré // gisant (…)
水を求める 乾いた砂に 身を横たえて (渡辺守章訳)
砂の上、のども渇いて横になり、(原大地訳)
乾いた砂に打ち伏して (柏倉康夫訳)
渡辺訳、橿原訳では、altéréはsableの性質だと解釈されているが、原訳では、横たわる人の状況を描く言葉と理解されている。
このように、翻訳を読むことは、それぞれの翻訳者の解釈を知り、彼らの言語表現をたどることに他ならない。

それに対して、フランス語でマラルメの詩句を読むことは、理解がどんなに難しくても、翻訳では決して得られない喜びを与えてくれる。
マラルメが選択したフランス語に触れ、フランス語の音の連なりをたどり、概念的な表現に自分なりの肉付けを与える。その作業を通して、私たち一人一人の読者は、マラルメが夢見た美の影を見に行くことができる。
マラルメこそは、どうしてもフランス語で読みたい詩人なのだ。