ロンサール マリーへのソネット Pierre de Ronsard « Je vous envoie un bouquet » 時は移りゆく、だからこそ今・・・

ピエール・ド・ロンサール(Pierre de Ronsard)の生きたフランスの16世紀は、ルネサンスの時代。
神中心の世界観に支配された中世が終わり、人間の価値が認められようとしていた。

ルネサンスとは、古代ギリシア・ローマの文化の復活を指す言葉だが、ル・ネッサンス=再び生まれるとは、神の世界だけに価値が置かれるのではなく、人間という存在にも目が向けられることを意味していた。

イタリア・ルネサンスの画家ミケランジェロの「アダムの創造」は、その価値観の転換をはっきりと示している。
システィーナ礼拝堂の天井に描かれたそのフレスコ画では、神とアダムが上下に描かれるのではなく、並行に位置し、互いに腕を伸ばし、指が触れようとしている。
このアダムの姿は、人間に対する眼差しが、神に並ぶところまで高められたことをはっきりと示している。

そのことは同時に、時間の概念が変化したことも示している。
神の時間は「永遠」。
それに対し、人間の時間意識では、一度過ぎ去った時間は戻ってこない。時間は前に進み、近代になれば、その流れは「進歩」として意識される。
ルネサンスの人々は、それまでの「円環」的に回帰する時間意識を離れ、「直線」的に前に進む時間の流れを強く意識するようになった最初の世代だった。

そうした世界観の大転換の中に、ロンサールはいた。
そして人間という存在に対する価値の向上に基づいて、神への愛ではなく、一人の美しい女性に向けた恋愛詩を書いたのだった。

その詩は大変に美しいものだが、16世紀のフランス語は現代のフランス語とは違う部分があり、現代人がそのまま読むことは難しい。単語の綴りが異なっていたり、主語を示す人称代名詞が使用されなかったりする。
その一方で、詩の言葉は音楽でもあり、現代フランス語に訳してしまったら、音楽を壊してしまうことにもなる。
ここでは、ロンサールが書いたままの言葉で、マリーに捧げられた« Je vous envoie un bouquet »を読み、16世紀のフランス語で詩を読める幸せを感じてみよう。

Je vous envoie un bouquet que ma main
Vient de trier de ces fleurs épanies ;
Qui ne les eût à ce vêpre cueillies
Chutes à terre elles fussent demain.

あなたにブーケを送ります。ぼくの手で
この満開の花々の中から、選んだばかりです。
今夜、それらを摘まなかったら、
明日には、地面に落ちてしまうことでしょう。

フランス語の韻には、一般的に最後が « e »で終わる女性韻と、それ以外の男性韻がある。
この第1詩節では、main-demainが男性韻、épaniesとcueilliesが女性韻。
main – épanies – cuillies – demainの順番では、男性韻が女性韻を囲み、「抱擁」する並び方になっている。

ちなみに、épaniは古いフランス語で、現代では、épanoui(花開く)と綴られる。

次に、最初の行を見ると、envoie / un と母音が並び、「衝突」していることがわかる。
フランス語では母音衝突(hiatus)を避ける傾向があるが、ここであえてそれが行われているのはなぜだろう?

Je vous envoie / un bouquet / que ma main
Vient de trier
/ de ces fleurs épanies ;

Je vous envoie という4音節でいったん切れ目(césure)が入れられ、次にun bouquet (3) が続く。そのことで、ブーケ(花束)にスポットライトが当たる。
こうすることで、「ぼく(je)」と「あたな(vous)」という言葉によって恋人たちの存在がはっきりと示され、その上で、「ブーケ」にスポットライトが当たることになる。

さらに、ma main(ぼくの手)は、次の行の詩句の構文を形作る言葉なのにもかかわらず、前の行に入れられている。そうした言葉の配置は、コントル・ルジェ(contre-rejet)と呼ばれる。
美しく花開いた(épanies)花々(fleurs)を選んだ(trier)のは、「ぼくの手(ma main)」なのだ。
そして、その「手」は「ぼく」の意志によって動くものであり、美しい女性たちの中から「あなた」を選んだのは、「ぼく」なのです、というメッセージが伝えられる。
この詩節では、そんな風にして、「愛の告白」が、を比喩にして美しく語られる。

3−4行の詩句は、時がすぐに過ぎ去ってしまうというテーマに基づいている。
ce vêpre (今夜)とdemain(明日)の間に、今美しく咲き誇っている花はどうなってしまうのだろう?

Qui ne les eût (…) cueillies は16世紀のフランス語で、現代フランス語であれば、Si on ne les eût pas cueillies(もし花を摘まなかったとしたら)。
接続法半過去形(eût cueillies)が使われ、仮定や推測が示されている。

その仮定に基づく推定も、接続法半過去(elles fussent chutes)で示される。
chutesはchoir(落ちる)の過去分詞。現代フランス語ではchuesと綴られる。(最後がesで終わるのは、直接目的語のles(les fleurs)が女性複数であるため。)

咲き誇る花は、その美しさの頂点にある。(あなたは今、咲き誇る花の中で、どの花よりも美しい。)
しかし、頂点にあるということは、次に来るのは衰え。
今夜が頂点かもしれず、明日になったら、花は地面に(à terre)に落ちてしまう(fussent chutes)かもしれない。
Chutes à terre (4) // elles fussent demain (6)
時はそれほど早く進んでしまう。
4行目の詩句は、そうした思いを、密かにささやくように告げている。

言葉の音に耳を傾けると、そのささやきが、ch, f, sの音で伝えられているのが感じられる。
Chutes à terre elles fussent demain
とりわけchutの音には、「シー、静かに!」という意味がある。
ロンサールは、愛するマリーに、時が素早く過ぎ去り、マリーの美しさも明日には衰え始めるかもしれないと、そっと密かにささやいているのだ。
しかも、男性韻が女性韻を抱擁しながら。


第2四行詩では、最初に出てくる接続法現在によって、全体の内容が教訓を含んだ願いであるかのように語られる。
というのも、接続法は本来、原型(英語の不定詞)と同じ使い方をする動詞の用法であり、日本語の体言、つまり、「・・・のこと」を意味にする時制だからである。

この詩節の最初の詩句で、その例を確認してみよう。

Cela vous soit un exemple certain
Que vos beautés, bien qu’elles soient fleuries
En peu de temps cherront toutes flétries
Et, comme fleurs, périront tout soudain.

次のことが、あなたにとっての、確かな例になってくれますように。
あなたの美しさは、花開いていますが、
わずかな間に、すっかり萎れて、落ちてしまうでしょう。
そして、花々のように、本当にすぐに、消え去ってしまうでしょう。

Cela(それ)は、次の行のque以下の内容を指す。

cela soit un exempleのsoitはêtreの接続法現在。
上に記したように、「・・・のこと」という意味になる。つまり、「それが例(教訓)となること」。
そこから、教訓になって欲しいという願望も伝わってくる。
しかも、certainが付けられ、「確かな」教訓であって欲しいと詩人は願う。

教訓の中身は、あなたの美しさは、花の美しさと同じように、逃げ足が速いこと。
ここでもロンサールは、言葉の音の効果を十分に引き出している。

まず、fleuries(花開く)とflétries(萎れる)。
fl, riと音が類似し、韻を踏んでもいるのだが、しかし意味は反対。
fleuriesがすぐにflétrisになってしまうことが、音を通してマリーの耳に届いたことだろう。(そして私たち読者の耳にも届く。)

次に、cherront(落ちる、choirの単純未来)とpérirons(消え去る、死ぬ、périrの単純未来)。
[ ron ]の音が響き合い、美しさが衰え、なくなってしまうと、思わず考えてしまう。

時間の流れの早さと美が消え去る早さは、un peu de temps(わずかな時間)と、soudain(すぐに)と二度繰り返される。
しかし、それだけではなく、toutが、音によって、時間の流れと衰えの早さを連動させる。
toutes flétries, tout soudain.

第1詩節で見てきたように、こうした言葉はすべて、そっと耳元でささやかれる。
動詞のchoirがchuteからcherronsと引き続き用いられているところにも、これらがchut(シー、静かに)といった調子で語られていることがわかる。


続く2つの三行詩は、詩人はより直接的に ma Dame=マリーに語り掛ける。
その際、nous(私たち)という言葉が使われ、二人の運命がすでに結びついているかのように、愛するマダムに感じさせる効果を発揮する。

Le temps s’en va, le temps s’en va, ma Dame,
Las ! le temps, non, mais nous nous en allons,
Et tôt serons étendus sous la lame ;

時が去っていきます。時が去っていきます。愛する人よ。
ああ! 時が。いやそうではありません。私たちが去っていくのです。
そして、すぐに、墓石の下に横たわることになるのです。

Marie Dupinは貴族の娘ではなく、庶民の娘と言われているが、ロンサールはマリーにma Dameという呼びかけを行う。
恋愛において、愛の対象となる女性は、実際の身分にかかわらず、見上げる存在になる。それこそが、12世紀に成立した恋愛観に由来する恋愛の本質なのだ。

そして、ma Dameと呼びかけることで、今度はささやき声ではなく、二人で会話をしている調子になる。
その結果、話の内容も、より現実的になる。

詩人が最初に強調するのは、le temps(時間)。
その言葉がスタッカートのように性急に3度繰り返され、そのリズムのために、過ぎ去って行く(s’en va)時間に追いたてられるように感じられる。

それに続けて、詩人は、le temps s’en va(時間が去って行く)という一般論から、nous nous en allons(私たちは去って行く)と、同じ動詞(s’en aller)を使いながら、主語を時間(le temps)から私たち(nous)へと移行させる。
そのことで、時間があっという間にすぎてしまうという一般論から、私たち二人の時間があっという間に過ぎてしまうという具体的な感覚を伴ったものになる。
nousという言葉が使われることで、時間の流れがより強く実感される。

ロンサールは、ここでも音の効果を利用する。
流音 [ l ]によって、過ぎ去る流れを、マリーに、そして、私たち読者に感じさせる。
まず、[ l ]の効果を強調するために、2行目の最初に、「Las !(ああ)」という感嘆詞を置き、流音をはっきりと意識させる。
その後、le, allonsと続き、次の行の la lame(墓石)に至る。

この [ l ]の子音反復(allitération)によって、この4行詩の先頭に置かれた Le tempsから、最後の la lamemまで、時間はあっという間に流れ去ってしまう。
そして、時間が過ぎ去り、時の流れに押し流されて行き着く先は、墓石の下。
若さが失われ歳を取ってしまうというスピード感よりももっと早く、あっという間に死まで行き着いてしまうのだ。

さらに、これまで、chutes, cherront, flétries, périrons, s’en vas, nous en allonsと何度も繰り返されてきた墜落や消失のイメージが、ここで「墓石(la lame)」という具体的なイメージで示される。
しかも、そこに横たわるのは、「私たち(nous)」。
あなた(vous)だけでもなく、私(je)だけでもなく、私たち(nous)とすることで、二人は同じ時間を生きる運命にあることを、相手に強く伝えている。

ちなみに、serons étendusの主語が書かれていないのは、16世紀のフランス語のため。その時代、人称代名詞で主語を示すことは、まだ規則として決められていなかった。
ラテン語と同じように、seronsという活用を見ればnousが主語であることがわかるので、代名詞の主語を明記しなくても問題はない。
主語となる代名詞を明記することが義務化されたのは、17世紀になってからだった。


Et des amours desquelles nous parlons,
Quand serons morts, n’en sera plus nouvelle ;
Pour ce aimez-moi, cependant qu’êtes belle.

私たちが話している愛は、
二人が死んだ後になれば、もう愛の知らせもなくなることでしょう。
だからこそ、私を愛してください。あなたが美しい間に。

amoursという単語は、現代のフランス語では男性名詞だが、16世紀には女性名詞として使われることもあった。
そのために、desquellesと女性形の関係代名詞が使われている。

nouvelleに冠詞が使われていないが、ここではニュースや知らせを意味する言葉で、現代であればla nouvelleと記される。
中世代名詞のenはdes amoursを指し、n’en sera plus nouvelleは、「愛のニュースもなくなるだろう」といった意味。
現代のフランス語であれば、il n’y en aura plus de nouvelle.

« quand serons morts »や« qu’êtes belles »は、代名詞の主語が明記されていない例。
現在であれば、« quand nous serons morts »、« que vous êtes belle »。

cependantは、現在では「しかし」の意味で理解されることが多いが、ここでは ce/pendantと言葉通りの意味で、「その(ce)間(pendant)」。

« pour ce »は現代のフランス語ではce ではなくcelaが用いられ、「そのために」「だから(c’est pourquoi)」といった意味になる。
発音では、ceとaimezが母音衝突するために、それを避けるために二つが一体化し、ç’aimezと2音節になる。
pour ç’aimez-moi (4) // cependant qu’êtes belle (6).

この最後の一行では、動詞が命令形(aimez)であり、時間がすぐに過ぎ去ってしまうからこそ、今すぐに愛して欲しいという願いが、直接的にマリーに伝えられる。
そして、その願いは、Carpe diem(今を生きる)という16世紀の中心的な思想に基づいているために、同じ時代を生きるマリーにも伝わるに違いない。

もちろん、その際には、マリーの美しさに心を奪われていることを彼女に直接伝えることは、不可欠。
だからこそ、詩の最後にbelleという言葉が置かれ、マリーの美しさを讃える詩としても読めるように工夫されている。
「あなたは美しい。」それが最後のメッセージなのだ。


ロンサールの恋愛詩は、ほとんどが、逃げ去る時間(la fuite du temps)の早さと、その中で現在の時間を享受する(Carme diem)という、二つのテーマに基づいて語られている。
そこで、大まかに読んでしまうと、どれも同じようになってしまうのだが、しかし、それぞれの詩に異なる側面がある。だからこそ、ロンサールは数多くの恋愛詩を、マリーだけではなく、カッサンドルやエレーヌを対象に書いたのだった。

フランスの学校教育の中でロンサールの詩を読む際、例えば« je vous donne un bouquet »と« Mignonne, allons voir si la rose »を比較して、同じ要素と異なる表現を取り出すといった講読が行われている。

実際に、自分で二つの詩を比較しながら読んでみると、詩をより楽しめるに違いない。
ロンサール 「愛しい人よ、さあ、バラを見に行こう」Ronsard « Mignonne, allons voir si la rose » 今をつかめ Carpe Diem

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