フランス語の詩の音楽性 その1 リズム

歌を聞くとき、私たちはメロディーと歌詞の両方に注意を向けている。歌詞が好きでなかったら聞く気がしないし、メロディーが好みでなければ、歌詞は好きでも好んでその歌を聞こうとは思わない。

詩も歌と同じで、言葉が伝える「意味」と同様に、言葉の作り出す「音楽」も重要な要素。とりわけ、フランス語の詩では音楽性が重視される。

ところが、日本ではせっかくフランス語で詩を読みながら、詩句のリズムや音色に注意を払わず、意味にばかり注目する傾向にある。
意味が不明な詩を選び、あれこれとひねくり回して意味を考えたりもする人たちさえいる。
素晴らしい詩を読みながら、詩句の美しさには無関心ということもさえある。

歌詞とメロディーの両方を好きでなければ歌を好んで聞こうとは思わないように、意味と音楽の両方を好きでなければ詩を好きにはなれないし、意味の理解もままならない。

せっかくフランス語で詩を読むのであれば、詩句の奏でる音楽も楽しみたい。
そんな思いで、ここでは、フランス語の詩句のリズムと音色について、考えてみたい。

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アポリネール 「月曜日、クリスティーヌ通り」 Guillaume Apollinaire « Lundi rue Christine » 2/2

「月曜日、クリスティーヌ通り」の25−33行の詩節では、会話が完全に断片化され、誰が何を話しているのかよくわからない言葉がバラバラに並んでいる。

例えば、フランス語の所有形容詞 son は、彼なのか彼女なのか区別できない。そのために、コンテクストなしで ses ongles(爪)と言われても、「彼の爪」なのか「彼女の爪」なのかわからない。

また、誰が誰に話しているのかわからないために、一つ一つの言葉がどのような調子で話されているのかも分からない。

日本語で、語尾が「ます」であれば丁寧、「だ」であれば乱暴などといったように、会話をする人間の関係により表現が変化する。
例えば、「本当です。」と「本当。」は、相手によって変える必要がある。
他方、フランス語では、誰に対しても、« C’est vrai. »と言える。

フランス語で相手に対して丁寧に話す場合、一つのやり方として、« Voici monsieur. »(はい、ここにあります。どうぞ。)のように敬称を付け加えることがある。
もし親しい相手であれば、« Voici, Jacques. »とファーストネームを言い足し、親しみを込めることもある。
しかし、« Voici. »だけの場合、「どうぞ。」(丁寧)なのか、「ほら。」(普通)なのか、日本語のようには区別がつかない。

このように、フランス語では、言葉が状況から自立し、話者たちの関係によって表現が変化することは少ない。
そのために、状況なしで言葉だけ見た場合、意味が限定できないことも多々ある。
アポリネールはそうした言葉の不明確さ、あるいは多義性を利用し、読者が様々に解釈できる可能性を提示していく。

Ces crêpes étaient exquises
La fontaine coule
Robe noire comme ses ongles
C’est complètement impossible
Voici monsieur
La bague en malachite
Le sol est semé de sciure
Alors c’est vrai
La serveuse rousse a été enlevée par un libraire

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アポリネール 「月曜日、クリスティーヌ通り」 Guillaume Apollinaire « Lundi rue Christine »  1/2 

Picasso, Le Portrait de Guillaume Apollinaire

ギヨーム・アポリネールは、20世紀初頭、パブロ・ピカソを中心にした画家たちが新しい絵画表現を模索するのと同じ時代に、文学の世界で新しい美の追究を行った。

その成果の一つは「ミラボー橋(Le Pont Mirabeau)」を通してよく知られている。しかし別の方向にも進み、さらに革新的といえる詩を手がけた。
「月曜日 クリスティーヌ通り(Lundi rue Christine)」は、そうした試みの中で、最もよく知られた作品。
キュビスムの絵画と同じ発想に基づき、様々な言葉の断片が「同時」に「並列」して配置されている。

その手法によって、アポリネールは、「ミラボー橋」の抒情性とは違う抒情性、彼自身の言葉によれば、「場の雰囲気から生じる抒情性(lyrisma ambiant)」を生み出そうとした。

「会話詩(Poème-conversation)」とアポリネールが名付けたジャンルに属するこの詩は、会話の断片から成り立っている。
その会話は、題名の「月曜日(Lundi)、クリスティーヌ通り(rue Christine)」によって曜日と場所が示され、パリの6区にあった酒場で交わされたのではないかと推測される。

アポリネールは、あたかもその場に居合わせたかのように、そこで飛び交う言葉を次々に書き留め、何の脈絡もないかのように繋げていく。
その際、句読点が一切用いられていないために、全ての言葉が、酒場に立ち篭める煙のように漂っているといった印象を与える。

porte cochère

そして、その雰囲気から抒情性が立ち上ってくるのが、アポリネールの狙いだった。

La mère de la concierge et la concierge laisseront tout passer
Si tu es un homme tu m’accompagneras ce soir
Il suffirait qu’un type maintînt la porte cochère
Pendant que l’autre monterait

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ロンサール マリーへのソネット Pierre de Ronsard « Je vous envoie un bouquet » 時は移りゆく、だからこそ今・・・

ピエール・ド・ロンサール(Pierre de Ronsard)の生きたフランスの16世紀は、ルネサンスの時代。
神中心の世界観に支配された中世が終わり、人間の価値が認められようとしていた。

ルネサンスとは、古代ギリシア・ローマの文化の復活を指す言葉だが、ル・ネッサンス=再び生まれるとは、神の世界だけに価値が置かれるのではなく、人間という存在にも目が向けられることを意味していた。

イタリア・ルネサンスの画家ミケランジェロの「アダムの創造」は、その価値観の転換をはっきりと示している。
システィーナ礼拝堂の天井に描かれたそのフレスコ画では、神とアダムが上下に描かれるのではなく、並行に位置し、互いに腕を伸ばし、指が触れようとしている。
このアダムの姿は、人間に対する眼差しが、神に並ぶところまで高められたことをはっきりと示している。

そのことは同時に、時間の概念が変化したことも示している。
神の時間は「永遠」。
それに対し、人間の時間意識では、一度過ぎ去った時間は戻ってこない。時間は前に進み、近代になれば、その流れは「進歩」として意識される。
ルネサンスの人々は、それまでの「円環」的に回帰する時間意識を離れ、「直線」的に前に進む時間の流れを強く意識するようになった最初の世代だった。

そうした世界観の大転換の中に、ロンサールはいた。
そして人間という存在に対する価値の向上に基づいて、神への愛ではなく、一人の美しい女性に向けた恋愛詩を書いたのだった。

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