マラルメ 「シャルル・ボードレールの墓」 Sthépane Mallarmé « Le Tombeau de Charles Baudelaire » 3/3 

「シャルル・ボードレールの墓」の後半を構成する2つの三行詩に関しては、フランスの文学研究者たちの間でも解釈が大きく分かれる。

日常的なコミュニケーション言語を拒否し、フランス語の構文から逸脱したマラルメの詩句が、音楽的な美しさを持ちながら、理解を拒む傾向にあることはよく知られているが、それでも、ある程度まで共通の解釈がなされることが多い。

しかし、以下の6行については、代名詞、形容詞、動詞の目的語といった文法的なレベルでさえ意見が異なり、ここで提示する読解も多様な読みの一つにすぎない。

Quel feuillage séché dans les cités sans soir
Votif pourra bénir comme elle se rasseoir
Contre le marbre vainement de Baudelaire

Au voile qui la ceint absente avec frissons
Celle son Ombre même un poison tutélaire
Toujours à respirer si nous en périssons

(朗読は33秒から)

どんな葉むらが 乾燥し 夜のない都市の中
奉納として 祝福することができるのだろうか それが再び座ることができるように
ボードレールの大理石の墓石に 空しく もたれかかり

そこにかかる幕は 不在のそれを覆っている 震えながら
それを まさに彼の「影」を 守護の毒を
常に吸い込まなければならない毒 たとえ我々がそのために死ぬとしても

フランス語を日本語に置き換える試みをしても、何か書いてあるのかほとんど理解できない。。。
現行の岩波文庫から出ている『マラルメ詩集』に収められた渡辺守章の訳を読んでも、はっきりと意味が分かるとはいえないのではないか。

いかなる枯葉が 夜なき 都会に 祈願を
籠めて 祝福できようか かの女に倣い 腰をおろす
空しくも 大理石の ボードレールに 寄り添うが如く

戦(おのの)きつつも 不在なる 女人(にょにん)の額 飾るヴェールは
彼女 まさしき 彼の影こそ 守護の毒薬にして
たとい我ら 破滅となるも つねに 吸っているべきもの

最初に、文法的な問題を考えながら詩句の解釈を進めてみよう。

(1)文法的な解釈と読解

A. 構文

この6行の詩句で中心となるのは、Quel feuillage pourra bénir celle(どのような葉むらがそれを祝福することができるだろうか)という主語・動詞・目的語の構文。

ただし、bénirは他動詞だが、目的語のない用法だと見なし、celleは目的語ではないとする研究者もいる。その場合、”何を”祝福するのかは問われず、葉むらが”祝福する”という行為だけに焦点が当たるという解釈になる。渡辺守章の訳はその一例。

さらに、マラルメの詩句の非文法性に基づき、bénirの意味上の目的語としてle marbreを提示する研究者もいる。その場合、葉むらが祝福するのは、ボードレールの大理石の墓石。
文法的にはありえない解釈だが、墓に花が供えられている状況を考えると、意味的には整合性があるともいえる。

B. 現在/未来

i. quelle feuillage pourra bénir

pourraはpouvoirの単純未来形。従って、祝福は、現在ではなく、未来についての問いかけであることがわかる。

その点をあえて確認しておきたいのは、feuillageを形容するséché(乾燥した)が、現在のことではない可能性があるから。今は生き生きとしている葉が将来乾燥し涸れた時という「仮定」である可能性があることは頭に入れておきたい。

現行の翻訳では、feuillage séchéが、枯葉、干からびている、ドライフラワーなどと訳されることが多い。そうした訳だと、葉が枯れるのは未来のことであり、現在の墓に飾られている葉(花)は生き生きしているという可能性が消し去られてしまう。

ii. comme elle se rasseoir

se rasseoirと動詞が原形のままで置かれているが、その前にpourra bénirがあるので、ここでは、elle pourra se rasseoir(それは再び座ることができるだろう)のpourraが省略されていると考えられる。それが再び座る可能性も、祝福と同じように未来のことになる。

iii. au voile qui la ceint absente avec frissons

ceintはceindreの直説法現在形。従って、幕(voile)がそれ(la)を取り囲んでいるのは現在の状態。

そして、laはabsente(不在)であり、囲むさいに震えを伴っている(avec frissons)。
不在に関しては、laが何かを特定しないとその意味を考えることはできないので、次の項目で考えることにする。

震えに関しては、マラルメが『悪の華』を読みながら思い浮かべる風景の中で、胸を引き裂くようなうめき声を聞き取り、その声が木々の枝の端まで達する時、音楽的な葉のように震える(frisonne en feuiles musicales)という印象を、「文学的シンフォニー」(1865年)の中で記している。
「震え」という言葉には、ボードレールの墓に掛けられた幕が風に揺られて震える様子と、詩のもたらす印象を重ね合わされていると考えることができるだろう。

C. 女性単数の代名詞 elle, la, celle

代名詞は、すでに出てきた名詞の代用となる言葉。既知のものがあって始めて代名詞が使われるのだが、elle (se rasseoir)も、(voile qui) la (ceint)も、celleも、何を指しているのか明確でない。
そして、このことが、6行の詩句の読解を最も混乱させる要素になっている。

i. 先行する名詞がなくても、何を指すかがわかると考える場合

代名詞が先行する名詞の代用とならなくても、文章全体でそれが何を意味するかがわかれば、代名詞が使われることがある。そうして例はギュスターヴ・フロベールの『ボヴァリー夫人』にも見られる。

ここでも、前の4行詩で浮かび上がってきた売春婦のイメージが残像として続いていると考え、elleは売春婦を指すと考える研究者が数多くいる。
街灯に立っていた売春婦が、いつかボードレールの墓にもたれかかり(contre)、再び腰を下ろすことがあるのかもしれない。

laも同様に売春婦を指すと考えると、le voile qui la ceint は、売春婦の被るヴェールという解釈もなされる。
ただし、ceintの後ろに absenteという形容詞が置かれ、そのヴェールは不在の売春婦を覆っていることになり、現実的ではない状況が生み出される。

ii. celleと同格のson Ombreを指すと考える場合

bénirの目的語であるcelleと同格に置かれたOmbre(影)は女性単数形の名詞。そこで、celleだけではなく、elle, laも含め、Ombre(影)を指すと解釈することもできる。

そのように考えた場合、son Ombreのsonがcelleの所有形容詞ということにはなりえない。そこでsonが指すものの可能性を探ると、 Baudelaireだと推定できる。つまり、son Ombreはボードレールの「影」ということになる。

今、墓には花束(葉むら)が飾られ、幕も掛けられている。その墓に眠るのはボードレール。しかし、ボードレールその人は不在(absent)であり、あるのは亡骸=影(ombre)にすぎない。
そして、いつか花が枯れ(séché)、ボードレールの詩句が忘れられる時が来るかもしれない。そんな時、たとえ空しくても(vainement)、ボードレールの影が墓石にもたれかかり座ることがあるかもしれない。それと同じように、涸れた葉むらであったとしても、その影を祝福してほしい。
こんな風に解釈すると、6行の詩句はボードレールの詩句が永遠に読まれることを願うマラルメからのオマージュということになる。

D. 形容詞 votifの関係する名詞 soirかfeuillageか

« Quel feuillage séché dans les cités sans soir / Votif (…) » 
この詩句で、votifは、文法的にはsoirにかかる。つまり、「奉納の夜」。
しかし、奉納の夜のない都市の数々(les cités sans soir votif)という表現は意味をなさない。葉むらが枯れるのは、ガス灯の光が一晩中街を照らし、夜がなくなってしまったような都市の中なのだ。

他方、votifをfeuillageと関連付けると、意味的な整合性が見えてくる。
いかにもマラルメ的な文法を無視した構文だが、韻文の詩句の先頭にQuel feuillage / Votifと並列に置かれることで、二つの言葉が結び付けられる。
そして、ボードレールの影を将来にわたり祝福し続けて欲しいという祈りの葉むらが、神に供えられる奉納の品だという解釈が成立する。

(2)ボードレールの毒

後半の6行だけではなく、「シャルル・ボードレールの墓」の14行の詩句全体がボードレールの魂に向けられた奉納の句と解釈することができる。そこには、将来にわたりボードレールの詩句が読み継がれ、後に続く詩人たちを導いて欲しいというマラルメの願いが込められている。

その願いがはっりと示されるのが、un poison tutélaire(守護の毒)という言葉。tutélaireは後見人となり保護や監督をしてくれるという意味であり、un ange tutéaire(守護天使)といった表現がよく使われる。
マラルメは、その単語とBaudelaireという名前とで韻を踏ませ、ボードレールが後輩の詩人たちを守護してくれる詩人であることを、豊かな韻の響きによって読者に伝える。Baude/laireはtuté/laireなのだ。

では、un poison(毒)が何を表すのか?

ボードレールには「毒(Le Poison)」という詩があるが、それ以上に重要なのは、『悪の華』を締めくくる「旅(Le Voyage)」の最後の2つの詩節。
ここでボードレールは、死をもたらす毒が新しい詩へと向かう劇薬であることを高らかに歌い上げる。

Ô Mort, vieux capitaine, il est temps ! levons l’ancre !
Ce pays nous ennuie, ô Mort ! Appareillons !
Si le ciel et la mer sont noirs comme de l’encre, 
Nos cœurs que tu connais sont remplis de rayons !

Verse-nous ton poison pour qu’il nous réconforte !
Nous voulons, tant ce feu nous brûle le cerveau,
Plonger au fond du gouffre, Enfer ou Ciel, qu’importe ?
Au fond de l’Inconnu pour trouver du nouveau !

おお、死よ、年老いた船長よ、時が来た! 錨を上げよう!
この国は退屈だ、おお死よ! 出港しよう!
空も海も真っ黒い、墨のように。
しかし、お前の知る私たちの心は、光に満たされている!

私たちに毒を注げ、私たちを力づけるために!
私たちが望むのは、この炎が私たちの脳髄を燃やす限り、
深淵の底に潜ること、それが地獄であろうと、天国であろうとも?
「未知なるもの」の底で、”新たなもの”を見出すのだ!

(参照:ボードレール 「旅」 Baudelaire « Le Voyage » 新しい詩への旅立ち 7/7

詩人は死に向かって、「私たちにお前の毒(ton poison)を注げ」を叫ぶ。その毒によって詩人は深淵の底へと運ばれ、「未知なるものの底で、新たなものを見出す」。

マラルメは、そのボードレールの毒が私たちに死をもたらすとしても(si nous en périssons)、常に吸い込み続ける(Toujours à respirer)べきものだとする。
そして、その毒が後輩詩人たちを導き守護(tutélaire)してくれるとしたら、たとえ今花に捧げられている葉むらがいつか枯れる時がくるとしても、いつまでも奉納の品であって欲しいと願うことは当然だろう。

そのように考える時、マラルメの「守護の毒を 常に吸い込まなければならない」という詩句は、「旅」の「私たちに毒を注げ、私たちを力づけるために!」という詩句を受けていることがわかる。「毒」とは後に続く詩人たちや読者を詩的航海へと導いてくれる秘薬なのだ。

bénirの目的語として、最初にcelle(それ)と謎をかけ、次にボードレールの「影」(l’Ombre de Baudelaire)だと説明を加え、最後にそれがいつまでも吸い続けるべき毒(un poison toujours à respirer)だと具体的に示していく詩句は、死んでもいいからその毒を吸い込みたいという望みを掻き立てるといえるだろう。


「シャルル・ボードレールの墓」は、マラルメの弟子であるポール・ヴァレリーたちからの評価があまり高くなかったこともあり、ボードレールを讃えながらも、その詩はすでに過去のものだという批判的な意味も込められているといった解釈がなされることもある。脱ボードレール化の意図をマラルメが密かえに籠められていると言われたりもする。

しかし、feuiilageにかかるséchéという言葉が、現在のことではなく、未来のことだと考えれば、その詩句に批判的な含意がないことが理解できる。葉むらが涸れる時が将来訪れるかもしれないが、しかし、その時になったとしても、その葉むらがボードレールの影を、そして「毒」を祝福するものであって欲しい。

マラルメが建立した「ボードレールの墓」は、奉納(votif)の詩なのだ。

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