エジプトのピラミッドは縄文時代の技術で作られた?  

「日本の縄文時代は戦いがなく、技術的にも優れていて、” 実は ” エジプトのピラミッドの精巧な作りにも、縄文時代の技術が使われている。」

その説を耳にしたとき、ふと縄文時代の土偶が巨大なピラミッドの前に置かれている姿が目に浮かび、思わず笑ってしまった。
ピラミッドが建造されたのは、おおよそ紀元前3千年紀の半ばで、日本の縄文時代でいえば後期から晩期にかけての頃である。

その頃の住居は、地面を掘り下げて床を作り、柱を立てて屋根を支えた半地下式のものだった。

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「無」の思想 日本最初の荘子の受容

日本の文化の中で「無」が重要な役割を果たすことはよく知られているが、「無」とは何なのか、そしてなぜ日本人が「無」にこれほど惹かれるのか、説明しようとしてもなかなかできない。
そうした中で、荘子の思想は重要なヒントを与えてくれる。

大変興味深いことに、8世紀末期に成立した日本最古の和歌集『万葉集』には、荘子受容の最初の例としてよく知られる歌がある。

心をし 無何有(むかう)の郷に 置きてあらば 藐孤射(はこや)の山を 見まく近けむ                     (巻16・3851番)

もし心を「無何有の郷」、つまり「何もなく、無為(むい)で作為(さくい)のない状態」に置くならば、「藐孤射の山」、つまり「仙人が住むとされる山」を見ることも近いだろう、とこの作者未詳の歌は詠っている。

現代の私たちも、無の状態になることが何かを成し遂げるときに最もよい方法だと言うことがあるが、それと同じことを、今から1300年以上も前の無名の歌人も詠っていたことになる。
そして、「無何有の郷」と「藐孤射の山」が、『荘子』の「逍遥遊(しょうようゆう)」篇で語られる挿話に出てくる固有名詞だということを知ると、日本人の心のあり方と荘子との関係に深さがはっきりと見えてくる。

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現代の病 誤った正義感が生む攻撃性

SNS上では攻撃性が増し、発信者が、自分とは全く関係がなく、ネット上で流れてくるごくわずかな情報しか知らないにもかかわらず、そこから偽りの情報を作り出し、特定の人物に向かって激しい言葉を浴びせる状況が続いている。

例えば、妻を殺害された夫が、現場となったアパートを26年間借り続け、犯人逮捕につながった「名古屋主婦殺害事件」が報道された後、ネット空間では、この被害者遺族である夫が誹謗中傷され、新たな傷を負っているという。

名古屋市西区のアパートで1999年に住人の主婦、高羽奈美子さん=当時(32)=が刺殺された事件は、容疑者が逮捕されてから間もなく1カ月がたつ。この間、インターネット上では高羽さんの夫・悟さん(69)への「身内を売った商売」「闇がありそうな人物」といった誹謗(ひぼう)中傷が相次いでいる。虚偽内容の書き込みもあり、悟さんは愛知県警に被害届を出すことを検討している。
(中日新聞、2025年11月29日) 
https://www.chunichi.co.jp/article/1171289

なぜ、このような攻撃性がこれほど頻繁に起きてしまうのだろうか。

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La nature dans les films d’animation du Studio Ghibli

Il est bien connu que la nature joue un rôle majeur dans les films d’animation du Studio Ghibli. C’est pourquoi, en lien avec la conception japonaise de la nature, nous allons réfléchir à la représentation de la nature chez Hayao Miyazaki à travers Nausicaa de la Vallée du VentMon voisin TotoroPrincesse MononokéLe Voyage de Chihiro et Le Château ambulant.

Dans une interview intitulée « Quarante-quatre questions posées à Hayao Miyazaki par des journalistes étrangers au sujet de Princesse Mononoké », Miyazaki répond ainsi à propos de la nature dans ses films d’animation.

 Il ne s’agit pas de reproduire fidèlement une forêt réelle, mais de représenter la forêt qui existe dans le cœur des Japonais, celle qui était déjà là au commencement du pays. (Le Livre de cours Ghibli 10 : Princesse Mononoké)

La forêt qui existe dans le cœur des Japonais est également liée à leur spiritualité.

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John Lennon & Zhuangzi : Imagine Nowhere

While reading the ancient Chinese thinker Zhuangzi, the lyrics of John Lennon’s Imagine suddenly came to mind. The first verse goes roughly like this: “Imagine there’s no heaven or hell, above us only sky. Imagine all the people living for today.”
This resonates with Zhuangzi’s idea of a world where all things are equal and no boundaries exist.

Noticing such a similarity—or even a kind of convergence—also brings to mind Nowhere Man, released by the Beatles in 1965. The song begins with the line “He’s a real Nowhere Man”, and continues with a series of negative expressions. Yet this negativity is not merely denial; it can be interpreted as an attitude that tries to erase the divisions and distinctions created by a fixed point of view. Here too, one can sense a spirit that corresponds to Zhuangzi’s theory of the Equalization of Things.

Whether John Lennon actually read the Zhuangzi is unknown. However, it is said that he took an interest in Zen thought introduced by figures such as D. T. Suzuki, read spiritual texts such as The Tibetan Book of the Dead, and had been an avid reader of Lewis Carroll’s Alice’s Adventures in Wonderland and Through the Looking-Glass since his youth.
Considering this background, it is reasonable to assume that he was drawn to something different from the Western mode of thinking that attempts to understand the world by dividing things into opposing categories—good and evil, left and right, front and back, above and below, beauty and ugliness.

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ジョン・レノンと荘子 Imagine Nowhere

古代中国の思想家・荘子を読んでいて、ふとジョン・レノンの「イマジン(Imagine)」の歌詞が頭に浮かんだ。
「天国も地獄もなく、頭の上には空があるだけ。そして、みんなが今日だけを生きる。そんな世界を想像してみよう。」という一番の歌詞はおおよそそんな内容だが、それは荘子が説く「万物が斉(ひと)しく、境目のない世界観」と響き合っている。

こうした類似、あるいは一致に気づくと、ビートルズが1965年に発表した「Nowhere Man」も思い出される。(「ひとりぼっちのあいつ」という日本語題が付けられているが、内容を的確に表していないため、ここではその題名は用いないことにする。)
「彼は本当にNowhere Man(どこにもない場所の男)だ。」という一節から始まり、否定形の表現が続いていく。しかしそれは単なる否定ではなく、一つの固定した視点がつくり出す区切りや差異を消し去ろうとする態度だとも解釈できる。ここにも荘子の「斉物(さいぶつ)論」と通じる精神が感じられる。

そんなことを意識しつつ、まず Imagine と Nowhere Man を聴いてみよう。

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小泉八雲の語る荘子「胡蝶の夢」  Lafcadio Hearn speaks of Zhuangzi’s ‘Butterfly Dream’

小泉八雲(Lafcadio Hearn:1850-1904)は、日本文化に触れた際の印象を記した『知られぬ日本の面影』(Glimpses of Unfamiliar Japan)、そして日本各地に伝わる伝説や怪異譚を独自の語り口で紹介した『怪談』(Kwaidan)などの著作によって、明治期の日本文化を海外に広く紹介するうえで大きな役割を果たした。

彼は1850年、当時イギリスの保護領であったギリシアのレフカダ島に生まれた。父はアイルランド生まれのイギリス軍の軍医、母はペロポネソス半島南端に位置するキティラ島出身のギリシア人であった。
一家は1852年に父の故郷であるアイルランドに移り住むが、父が別の女性と生活を始めたことなどから、母はギリシアへ帰国し、ハーンは大伯母に育てられることになる。
その後、1869年に単身でアメリカ合衆国へ渡り、ジャーナリストや作家としての活動を開始した。

1890年に来日したラフカディオ・ハーンは、島根県で出会った小泉セツと結婚し、1896年には日本国籍を取得した。彼が日本を深く愛していたことは疑いようがない。
それでは彼は、どのようにして日本文化を理解しようとしたのか。この問いはきわめて興味深い問題である。

ここでは、その答えの一端を『怪談』の末尾に置かれた、昆虫に関する随筆「蝶」に求めたい。そこには、荘子の寓話「胡蝶の夢」への言及が見られる。ハーンは、荘子と蝶との関係について、次のように述べている。

Again, I should like to know more about the experience of that Chinese scholar, celebrated in Japan under the name of Sōshū, who dreamed that he was a butterfly, and had all the sensations of a butterfly in that dream. For his spirit had really been wandering about in the shape of a butterfly; and, when he awoke, the memories and the feelings of butterfly existence remained so vivid in his mind that he could not act like a human being.

私がさらに知りたいと思うのは、日本で荘周(そうしゅう)の名で知られるあの中国の学者の経験だ。彼は自分が蝶である夢を見、その夢の中で蝶としてのあらゆる感覚を味わった。というのも、彼の精神は実際に蝶の姿をとってさまよっていたからだ。そして、目覚めたときにも、蝶として存在していたときの記憶や感情があまりにも鮮明に心に残っていたため、人間として振る舞うことができなかったのである。

(Lafcadio Hearn, Kwaidan: Stories and Studies of Strange Things, “Butterflies,” 1904)

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自分の無知を知る  — 「日本国」の成立 台湾(中華民国)について

フランス文学を知ることに人生の大半を捧げてきたせいで、自分の国である日本のことを、実はほとんど知らずに生きてきた。数年前になってようやく、日本について少しずつ学び始めたのだが、学んでも学んでも、自分の無知ばかりが浮かび上がってくる日々が続いている。

たとえば、『「日本」とは何か』の中で、網野善彦は「現代日本人のほとんどが、自分たちの国の名前が、いつ、どのような意味で定まったのかを知らない」と嘆いている。私自身、日本という国家がいつ成立したのか、また、なぜ「日本」と呼ばれるようになったのか、これまで一度も考えたことがなかった。それどころか、知らないという事実に気づくことすらなかった。

一つの無知を自覚すると、これまで当然のこととして受け流してきた様々な事柄についても、実は曖昧で心もとない理解しか持っていなかったのだと分かってくる。知っているつもりでいたことが、手に取れば崩れてしまうほど頼りない認識にすぎなかったのだ。

(1)「日本」について

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