NATSUME Soseki, Dix nuits de rêves, « La sixième nuit »

NATSUME Soseki, Dix nuits de rêves,
« La sixième nuit »

On disait que le célèbre sculpteur Unkei était en train de tailler les divinités gardiennes, les Nio, à la porte du temple Gokoku-ji. Attiré par la rumeur, je m’y rendis en flânant. Une foule s’y pressait déjà ; chacun allait de son commentaire sur l’œuvre en cours.

À dix ou douze mètres devant le portail se dresse un grand pin rouge. Son tronc, incliné en biais, masque en partie le faîte de la porte et s’élance vers le ciel bleu, lointain. Le vert du pin et le vermillon de la porte se répondent l’un l’autre, en un contraste saisissant. Et que dire de son emplacement ! Le tronc, penché en oblique, ne gêne en rien la vue sur l’extrémité gauche du portail ; les branches, peu à peu, s’élargissent vers le sommet, dépassant même le toit — tout dans cette disposition dégage un air ancien. Cela évoque, peut-être, l’époque de Kamakura.

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夏目漱石 夢十夜 第六夜 運慶と文明開化

夏目漱石の『夢十夜』(1908年)は、題名の通り、10の夢から構成される短編小説集である。そのうちの4編は「こんな夢を見た」という言葉で始まり、「夢」で見た出来事が語られているという印象を読者に強く刻みつける。

ここで注意したいのは、夢はしばしば、荒唐無稽な出来事が現実の秩序とは無関係に展開する非現実的なものと考えられがちだが、しかし、実際には極めて直接的で生々しい体験だとということだ。現実であれば、見たくないものは目をつぶれば見えず、耳を塞げば声も音も聞こえない。しかし夢の中では、私たちの意志では何ひとつコントロールできず、そこから逃れるには目を覚ますしかない。「夢」とは、私たちの内的な体験そのものなのである。

一方で、目が覚めた後に語られる夢には、「見た」という表現が示すように、生の体験とのあいだに距離があることが前提となっている。「見る」ためには、何らかの距離が必要だからだ。したがって、夢を語るという行為は、現実感覚を取り戻した意識が、夢の非現実性に戸惑いながら、内的な世界を再構成しようとする試みであると言える。

第六夜の夢では、鎌倉時代の仏師・運慶が明治時代に姿を現し、鑿(のみ)をふるって仁王像を刻む。にもかかわらず、周囲の誰もその異常さに驚こうとはしない。その驚きのなさが、「夢」の世界であることを示している。
語り手である「自分」は、その世界の中で、運慶に倣い、木材に仁王像を彫ろうとする。しかし、うまくいかず、「明治の木には仁王が埋まっていない」と悟り、そのことで「運慶が生きている」理由を理解する。
その内的な体験は、何を語るのだろう。

短い夢なので、朗読を聞きながら全文を読んでみよう。

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ステイシー・ケント Stacey Kent 和らぎの声のジャズ・シンガー

ステイシー・ケント(Stacey Kent)は、ジャズ・ファン以外にはあまり知られていない歌手かもしれない。ニュージャージー州に生まれ、ロンドンで本格的に活動を始めてからは、英語、フランス語、ポルトガル語を駆使して歌い、ジャズのみならず、ポップスやボサノヴァなどジャンルを超えた活動を展開している。日本出身のノーベル賞作家カズオ・イシグロのお気に入りの歌手としても知られ、彼が作詞を手がけた楽曲もある。

幸いなことに、YouTubeにはステイシー・ケント自身の公式チャンネルがあり、彼女の楽曲を自由に楽しむことができる。
ここではまず、フランス語のアルバムRaconte-moiから« Le Jardin d’hiver »を聴きながら、彼女の歌声に耳を傾けてみよう。画面にはフランス語の字幕も表示される。

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 AKUTAGAWA Ryūnosuke Le Sourire des dieux 

« Le Sourire des dieux » d’AKUTAGAWA Ryûnosuke est une nouvelle, publiée en 1922, dans le numéro de janvier de la revue littéraire ‘Shin Shosetsu (Nouveau Roman)’, puis reprise dans le recueil intitulé Les Vêtements de printemps en 1923.

Le Sourire des dieux

Un soir de printemps, Padre Organtino marchait tout seul, en trainant derrière lui le bout de son vêtement sacerdotal, dans le jardin du temple NanBan.
Le jardin était abondant en plantes occidentales telles que des roses, des oliviers ou des lauriers, parmi les pins et les cyprès. En particulier, les rosiers, commençant à fleurir, exhalaient leur doux parfum sous une faible lumière du crépuscule qui obscurcissait les arbres, ce qui semblait ajouter à la tranquillité du jardin un charme mystérieux, quelque chose de peu japonais.
Organtino, à l’air triste et marchant dans un sentier de sables rouges, était plongé vaguement dans ses souvenirs. La sainte siège de Rome, le port de Lisbonne, le son du violon portugais appelé Rabeca, le goût des amandes, la chanson « Seigneur, tu es le Miroir de mon Âme » — tous ces souvenirs amenaient, dans le cœur de ce prêtre aux cheveux rouges, une tristesse nostalgique . Dans l’espoir de la dissiper, il se dit doucement le nom de Deus (Dieu). Mais, bien loin de disparaître, la tristesse s’étendait encore davantage, pesant lourdement sur sa poitrine.

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Des dieux japonais

Des dieux japonais

Qu’est-ce qu’un dieu (kami) pour les Japonais ? 
Voilà la question que je me pose afin d’expliciter les caractéristiques de l’esprit japonais et de suggérer ce que la pensée japonaise pourrait apporter aux Occidentaux.

On observe fréquemment que les Japonais ne font pas de distinction nette entre les dieux (kami) et les bouddhas : que ce soit dans un temple bouddhiste ou dans un sanctuaire shintô, ils joignent instinctivement les mains en prière. Même dans une église chrétienne ou une mosquée musulmane, ils s’adaptent spontanément aux coutumes et à l’atmosphère du lieu. Dans ces moments-là, ils ne s’interrogent guère sur l’objet de leur prière, n’ayant pas nécessairement une foi particulière dans les divinités ou entités religieuses présentes dans ces temples, sanctuaires, églises ou mosquées.

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日本人の神(カミ)とは 3/3

日本人の神とはどのような存在なのか、ここでは、複数性、姿形、霊力という3つの点を通して、検討していくことにする。

(1)八百万の神々

日本の神々は、無限に存在するといっていいほど数が多い。しかも、それらの神々には明確な序列があるわけではなく、神々全体を統一し支配するような超越神も存在しない。

古代だけでなく現代においても、私たちはどこかで、自然そのものが神であるかのように感じているのではないだろうか。
「雷神」や「風神」といった表現にも違和感はなく、少し前までであれば、「道の神(道祖神)」や「竈(かまど)の神」も身近な存在だった。

さらに今でも、私たちはどこにでも、何にでも神の気配を感じ、思わず手を合わせることがある。
山中の岩の窪みに供え物をし、古い巨木には注連縄(しめなわ)を張り、海中で並び合う二つの岩を「夫婦岩」と名づけ、漠然とではあるが信仰の対象としている。
三輪山、沖ノ島、那智の滝のように、特定の山や島、滝そのものが「ご神体」として崇められることもある。

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日本人の神(カミ)とは 2/3

(2)神と人との交わり

神は、目で見ることも、声を聞くことも、触れることもできない。物理的に存在しないため、科学的な実験によってその存在を確かめることはできない。しかし、信仰を持たず、神を信じていないと思っていても、私たちはどこかで神に向かって何らかの行為をし、何かを期待していることがある。

このような神とのやり取りは、私たちにとってあまりにも当たり前になっていて気づきにくい。だが、キリスト教と比較してみると、一般的な日本人が神という存在とどのように接しているかが、よりはっきりと見えてくる。

i. キリスト教:契約

キリスト教においては、神と人間の間に結ばれる「契約(covenant)」が重要な意味を持っている。
すでに見てきたように、キリスト教において神は唯一の創造主であり、人間の上に立つ絶対的な存在である。そして、その神が人間との間に「契約」を結ぶ。

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日本人の神(カミ)とは 1/3

日本人にとって神(カミ)とは、どのような存在なのだろうか。

現代の私たちは、神と仏をほとんど区別せず、お寺でも神社でも手を合わせるし、キリスト教の教会やイスラム教のモスクに行っても、それぞれの場のしきたりや雰囲気に合わせて行動する。そうしたとき、何に対して祈っているのかを明確に意識することはあまりなく、お寺や神社、教会、モスクの神々を本当に信仰しているわけでもないだろう。

キリスト教やイスラム教では、神は唯一の絶対的存在であり、他の神の存在を認めることはない。それに対して、私たちはどのような神様も否定せず、特定の信仰対象とすることもなく、ただ「何となく拝む」ことに抵抗がない。

こうしたことは、善悪の問題ではなく、日本という土地で生まれ育った人間が、ごく自然に取ってきた行動にすぎない。そして、その行動の根底には、日本人が「神」という存在に対して抱いてきた、独特の感覚や意識があるのではないだろうか。

日本人にとって神とは、どのような存在なのか。それを知りたいと思うのは、そうした日本人の心のあり方を探ろうとする思いから生まれてくるのだ。

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東洋的なるもの 鈴木大拙の教え

鈴木大拙(1870-1966)は、世界に禅を普及させた最大の功労者であり、Zenという言葉が世界中で通用するようになったのが大拙の功績であることを疑う余地はない。

ここでは、鈴木大拙が1963(昭和38)年に行った約50分間の講演を出発点として、「東洋的」な考え方、感じ方、言葉の使い方などについて考えてみよう。

この講演の中で、大拙は、「東洋的」と「西洋的」を対比しながら、以下のテーマについて説明を重ねていく。
1)英語と日本語の違いが明らかにする思考方法の違い:主語と目的語
2)概念的理解 vs 感情的感知
3)自然:nature vs 「自(おの)ずから然(しか)る」
4)自由:束縛からの解放 vs 「自(おの)ずに由(よ)る」

最初に注意しておきたいことがある。それは、「西洋」と「東洋」の違いを強調することで、お互いが理解不可能だというのではなく、違いを認識した上で、よりよい相互理解や調和を目指そうと呼びかけていることである。

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芥川龍之介 「蜜柑」 「沼地」  ある芸術家の肖像

一見うまくやっているように見えながらも、どこか周囲の雰囲気になじめない。はっきりとした理由や特別な原因があるわけではないのに、漠然とした居心地の悪さを感じる。自分自身であることさえ、時に違和感を覚える。── そうした人々が、社会の中には一定数存在する。

彼らは、表面的には決して社会から排除されているわけではない。けれども心の奥では、自分の価値観と社会一般の価値観とのズレを常に感じている。そして、社会からの圧力に押しつぶされそうになる中で、周囲との温度差に擦り切れ、苛立ち、言葉にならない悪態をつき、時には自らの無力さに疲れ果てて、爆発しそうになることさえある。

「蜜柑」と「沼地」は、そうした人間を代表する「私」(わたくし)が、偶然に遭遇した出来事を語るという形式を取った短編作品である。
どちらの作品でも、起承転結のある物語が展開されるわけではない。「蜜柑」では、汽車の中で出会った少女の振る舞いを目撃した出来事が語られるのみであり、「沼地」では、展覧会で出会った美術記者とのやり取りが記されるにすぎない。

しかしそこからは、社会の一般的な価値観と葛藤する「私の肖像」が描き出され、その肖像を通して、「私にとって価値あるもの」が浮かび上がってくる。
「蜜柑」と「沼地」に共感を寄せる読者は、その「価値あるもの」を、芥川龍之介と共有することになる。

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