日本の歴史 超私的概観 (2) 奈良時代から平安時代へ (その1) 

奈良時代と平安時代は、現在の日本の政治的、文化的、思想的な基礎が形作られた時代だといえる。

710年に始まり793年に終わる奈良時代は約80年。それに対して、794年から1180年代まで続いた平安時代は約400年。その二つの時代が継続した約500年の間に、ヤマト政権は天皇を中心とした政治体制を整え、仏教を大幅に取り入れながら、私たちが「日本的」と感じる事物や精神性を作り上げていった。

奈良時代は、飛鳥時代の聖徳太子たちによって積極的に取り入れられた大陸の政治制度や仏教による国家運営を押し進め、国家としての体制を整えた時代だといえる。
その最も明確な印として、現存する日本最古の書籍である『古事記』と『日本書紀』を挙げることができる。
東大寺大仏殿は、その時代を視覚的に最も見事に表現する。

平安時代になると、奈良時代に受容した大陸の政治や文化の成果をしっかりと受け止めた上で、微妙でありながら重要な変化を加え、「もののあはれ」に美を見るといった感受性を醸成していった。
『古今和歌集』や『源氏物語』はその文学的な表現であり、平等院鳳凰堂はその美学を視覚的に表現している。

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日本の歴史 超私的概観 (1) 古代から飛鳥時代まで

日本のことを少しだけでも勉強しようと思った時、自分がほとんど何も知らないことに気付かされた。

知っていることといったら、学校で習った何人かの人物の名前やいくつかの出来事くらい。例えば、「1192(いい国) つくろう 鎌倉幕府」といった感じ。
最近の学説によれば、源頼朝が全国に守護・地頭を置き、実質的な支配を開始したのは1185年なので、「1185(いい箱)つくろう 鎌倉幕府」と言われるようになったらしい。
しかし、鎌倉時代が日本の文化においてどのような意味を持ったのかといったことに関しては、あいかわらずわからないままだ。

歴史に関するもう一つの傾向は、小説や芝居などで取り上げられたヒーローの個人的な物語を通して、自分たちの生き方の参考にするといったもの。
例えば、ある時期、坂本龍馬に脚光があたり、「死ぬ時はたとえどぶの中でも前向きにたおれて死ぬ」といった言葉だけが一人歩きしたことがある。
その時、幕末について少し語られることはあったとしても、明治維新が現代の日本のあり方にどのような役割を果たしたのか、私はまったく知らないままでいた。

そのような状況の中で自分の無知を自覚するにつれ、過去の日本が現在の日本にどのような痕跡を留めているのか知りたくなり、少しずつ調べてみることにした。

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愛するものが死んだ時には

昨日の夕方アカが車に轢かれて死んだ。そんな知らせが届いた。
アカは近所に住む地域ネコで、毎日通りかかる度に挨拶をする関係。ただの野良猫だし、特別に価値があるわけではないが、とにかくカワイイ存在だった。

アカの横たわる姿を見て、ふと中原中也の「春日狂想(しゅんじつきょうそう)」の詩句が頭に浮かんだ。中也は、最愛の息子文也の死後、精神的にかなりの混乱をきたした。その時期に書かれたと想定され、耐えきれない悲しみに心を塞ごうとする気持ちが痛いほど感じられる。

愛するものが死んだ時には、
自殺しなきゃあなりません。
(中略)
愛するものは、死んだのですから、
たしかにそれは、死んだのですから、

もはやどうにも、ならぬのですから、

自殺という言葉は読者をびっくりさせるかもしれないが、感情を殺すしか悲しみをこらえる方法がないという意味だと理解したい。
そんな悲しみを前にして、こんな風に思ってみたところでどうしようもない。

      《まことに人生、一瞬の夢、
      ゴム風船の、美しさかな。》

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ショパン自筆のワルツの発見

ショパンのこれまで知られていなかったワルツが、ニューヨークのモルガン図書館・博物館の保管庫から発見されたという記事が、2024年10月27日The New York Timesに掲載されている。

曲はイ短調のワルツだが、48小節で、長さにして80秒しかない。また、冒頭近くにショパンには珍しいfff(フォルティッシシモ:極めて強く)という記号が置かれている。
しかし、未完成作品ではなく、完成作であり、ショパンが20代前半だった1830年から1835年にかけて書かれたのではないかと、専門家によって推定されている。

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ジャズの楽しさ 上原ひとみ Hitomi

ジャズはインプロヴィゼーション(即興)の音楽で、楽譜があったとしても、その時その場の雰囲気の中でインスピレーションが湧きだし、自由な演奏が繰り出される。

ジャズ・ピアニスト上原ひとみが、そんなジャズの本質を見せている場面がyoutubeにアップされている。
すでに1度紹介したことがあるのだが、少し別の映像を付け加えて、もう1度紹介したい。(ジャズの楽しさ インプロヴィゼーションとリズム感

彼女は最初の演奏にあまり満足できなかったらしく、同じ曲をもう1度弾き直す。そんな時、彼女の身体の中から音楽が流れ出している、といった感じがする。
その後、今まで一度も弾いたことがない曲「マイ・ウエイ」をたどたどしく弾き始めるのだが、途中から見事なインスピレーションへと進んでいく。

それからもう一つ。上原ひとみがピアノを弾く時はいつでも楽しそうだ。本当に心の底から演奏を楽しんでいる様子が感じられる。
ジャズの楽しさはこれだ! 彼女の演奏を聴いて思わずそう言いたくなる。

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アンヌ・シラ 今フランスで一番歌声が美しい歌手 Anne Sila  La plus belle voix de la France d’aujourd’hui

個人的に今のフランスで一番歌声が美しいと思える歌手はアンヌ・シラ(Anne Sila)。
フランスではよく知られているが、日本ではまったくといっていいほど無名なので、彼女の歌を少し紹介してみたい。

 S’il suffisait d’aimer

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他人に厳しく自分に甘い ラフォンテーヌの寓話 振り分け頭陀袋  La Fontaine La Besace

La Besaceとは、肩の前後に振り分けてかつぐ頭陀袋のこと。そのLa Besaceという題名を持つラ・フォンテーヌの寓話は、イソップの「ジュピターの二つの袋」の原典としている。そのおおまかな内容は以下のようなもの。

ジュピターが人間を造った時、二つの袋を担がせた。肩の前に掛かった袋には隣人の欠点が、後ろに掛かった袋には自分の欠点が入っている。そのために、他人の欠点はすぐに目に入るが、自分の欠点はなかなか見えない。

「他人に厳しく自分に甘い」といった意味の諺は日本にもある。例えば、「灯台下暗し」、「人の一寸(すん) 我が一尺(しゃく)」、「目はその睫(まつげ)を見る能(あた)わず」、など。

では、そうした教訓を核とする小話を、ラ・フォンテーヌはどのような寓話として語ったのだろうか。

Jupiter dit un jour : “Que tout ce qui respire
S’en vienne comparaître aux pieds de ma grandeur :
Si dans son composé quelqu’un trouve à redire,
Il peut le déclarer sans peur ;
Je mettrai remède à la chose.

ジュピターがある日こう言った。「息するもの全ては
偉大なわしの足下に出頭すること。
誰か自分の身体の作りに不平があるのであれば、
    恐れることなく申告するがよい。
    わしがそれを直してやろう。」

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高畑勲 「火垂るの墓」 とてもいい映画だけれど、見返すのが辛い

映画をはじめとする芸術を紹介している雑誌Téléramaの2024年10月24日の項目に、«Dix (très) bons films qu’on n’a pas du tout envie de revoir» という記事があり、その最初に高畑勲監督の「火垂るの墓」が紹介されている。
https://www.telerama.fr/cinema/dix-tres-bons-films-qu-on-n-a-pas-du-tout-envie-de-revoir-7022732.php

「火垂るの墓」を見たことがあれば、思わずうなずくことだろう。(Si vous avez déjà vu Le Tombeau des lucioles, vous ne pourrez qu’acquiescer.)


Dix (très) bons films qu’on n’a pas du tout envie de revoir

Ils ont beau être d’une grande qualité, impossible de les regarder de nouveau. Trop de larmes, trop d’angoisse, trop de violence… Voici nos (bonnes) raisons de résister à une seconde séance.

“Le Tombeau des lucioles”, d’Isao Takahata (1988)

Un dessin animé tragique, c’est surprenant. En inaugurant le genre, Le Tombeau des lucioles devrait faire date », écrivait Bernard Génin à la sortie du film en France, en 1996. L’ex-spécialiste du cinéma d’animation à Télérama avait vu juste : le chef-d’œuvre d’Isao Takahata a tellement « fait date » qu’on n’a rien oublié de son réalisme quasi documentaire sur le Japon en ruine de 1945, ni de sa poésie déchirante. Et qu’on n’a jamais pu le revoir depuis, tant les malheurs de Sato, l’adolescent orphelin, et de sa petite sœur, Setsuko, nous ont laissés inconsolables. — S.D.(Samuel Douhaire)

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二種類の自己愛 ルソー 『エミール』 Jean-Jacques Rousseau Émile Livre IV “amour de soi” et “amour-propre”

人間は一人で生きることはできない。よほど例外的なことがなければ、必ずなんらかの集団の中で生きる。
そして、人とのかかわりの中で、自分らしい生き方をしたいという気持ちと同時に、自分のしたいことだけしていたら人からどのように見られているのだろうといったことも気にかかる。
自己認識は決して他者と無関係でいられない。

自己愛に関する考察も、他人とのかかわりの中で自分がどのように振る舞うべきか、という問題につながる。
17世紀のフランスでは、人間の本質は理性にあると考えられた時代であり、複雑な人間関係が織りなされた社会の中で、理性によって感情をコントロールすることが求められた。その際、自己愛は感情の基底をなすものであるからこそ、最も用心すべきものとして考察の対象となった。

それに対して、18世紀後半になると、人間の本質は理性から感情へと位置を移動させられる。考えることよりも感じることが、人間の根底にあると見なされるようになったのだった。
その移行を最も明確に言葉にしたのが、ジャン・ジャック・ルソー。
ルソーは、自己愛に関して、amour de soiとamour propreという二つの言葉の言葉を使い、それらを対照的なものとして定義した。

例えば、『人間不平等起源論』では、二つの自己愛を明確に対立させている。

Il ne faut pas confondre l’amour-propre et l’amour de soi-même, deux passions très différentes par leur nature et par leurs effets.
L’amour de soi-même est un sentiment naturel qui porte tout animal à veiller à sa propre conservation, et qui, dirigé dans l’homme par la raison et modifié par la pitié, produit l’humanité et la vertu.
L’amour-propre n’est qu’un sentiment relatif, factice, et né dans la société, qui porte chaque individu à faire plus de cas de soi que de tout autre, qui inspire aux hommes tous les maux qu’ils se font mutuellement, et qui est la véritable source de l’honneur.

Jean-Jacques Rousseau, Discours sur l’origine et les fondements de l’inégalité parmi les hommes

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自己愛 ラ・ロシュフコー 箴言 La Rochefoucauld  Maxime 2/2

(5)自己愛の捉えがたさ

Il est tous les contraires : il est impérieux et obéissant, sincère et dissimulé, miséricordieux et cruel, timide et audacieux. Il a de différentes inclinations selon la diversité des tempéraments qui le tournent, et le dévouent tantôt à la gloire, tantôt aux richesses, et tantôt aux plaisirs ; il en change selon le changement de nos âges, de nos fortunes et de nos expériences, mais il lui est indifférent d’en avoir plusieurs ou de n’en avoir qu’une, parce qu’il se partage en plusieurs et se ramasse en une quand il le faut, et comme il lui plaît. 

自己愛は、対立するもの全てである。高圧的であり、従順。誠実であり、感情を偽る。慈悲深く、残酷。内気であり、大胆。自己愛は、多様な気質に従って、異なる傾向を持つ。それらの気質が自己愛を方向付け、自己愛をある時には栄光に、別の時には財産に、さらに別の時には快楽に捧げる。自己愛は、私たちの年齢、富、経験に応じて、向かう先を変化させる。しかし、複数の傾向を持とうと、一つだけの傾向だろうと、そうしたことには無関心だ。なぜなら、必要な時に、好きなように、複数に分かれたり、一つに集まったりするからだ。

もし自己愛が明確な形をしていれば、私たちはすぐにそれとわかる。しかし、自己愛は変幻自在に姿を変え、しかも、正反対の感情を通して現れることがある。
それが、tous les contraires(全ての対立するもの)の意味することだ。

différentes(異なる)、diversité(多様性)という言葉も、自己愛の変幻自在さを示す。
人々の多様なtempéraments(気質)に応じて、自己愛のinclinations(傾向)も様々に変化する。そのために、ある時の自己愛はla gloire(栄光)に向かい、別の時はles richesses(財産)やles plaisirs(快楽)に向かったりする。

nos âges(私たちの年齢)、nos fortunes(富み)、nos expériences(人生経験)の違いによっても、自己愛の向かう先は変化する。
しかし、それらが複数だろうと、一つだろうと、自己愛にとってはどうでもいい。なぜなら、全ては自己愛の思いのままなのだから。

要するに、私たちが何を望み、どんなことを行うにしても、どこかに自己愛が潜んでいる。例えば、相手に対してimpérieux(高圧的)な態度を取る場合も、相手にobéissant(従順)な時も、どちらにしても、相手を通して自分を愛するという自己愛に源を発していると、ラ・ロシュフコーは考える。

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