天照大御神はどのようにして主神となったのか 3/4

(4)天の岩戸(あめのいわと)

天岩戸(あめのいわと)の挿話は、天照大御神(あまてらすおおみかみ)が日の神であり、高天原(たかまがはら)を太陽の光で照らす主神であることを、国内外に宣言する役割を果たしている。

天照大御神は、素戔嗚尊(すさのおのみこと)が数々の乱暴を働いたことに怒り、岩でできた洞窟、すなわち天岩戸の中に身を隠してしまう。その結果、世界全体は闇に包まれ、永遠の暗闇が続くことになる。
そこで、多くの神々が工夫を凝らし、後の時代の宗教儀礼の起源を思わせるような行為を行うことで、天照大御神を天岩戸の外へと誘い出し、世界は再び光を取り戻す。

この大まかな挿話の流れは『古事記』と『日本書紀』に共通しており、天照大御神の存在と不在を対照的に描き分けることで、日の神が世界において果たす役割を明確に伝えている。

他方で、両書の間には明確な違いも認められる。一方が神々の世界の物語として語られるのに対し、他方では、天皇および豪族の祭祀を連想させる語り方がなされているのである。

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天照大御神はどのようにして主神となったのか 2/4

(3)『古事記』と『日本書記』における
日の神・天照大御神の主神化の過程

『日本書記』には、壬申の乱の過程において、大海人皇子の一行が「天照大神を仰ぎ見て拝した」とされる一節があり、その祈りが聞き入れられて勝利がもたらされた、という意図を読み取ることができる。
この記述は、神武天皇以来の天皇の権力基盤が固まり、政権が安定するにつれて、天照大御神を国家の主神として祭り上げていく一つの流れを形成したと考えられる。

A. 『日本書記』本文 天下を治める日の神

『日本書記』の本文において、天照大御神の誕生を語る部分では、イザナギとイザナミが国生みを終えた後、自然界のさまざまな事物を生み、その創造の最後に「日の神」を生んだとされる。その神の名前の一つが天照大御神である。

まず海が生まれ、次に川が生まれ、さらに山が生まれた。その後、木の祖神である句句廼馳(くくのち=樹木の根源神)が生まれ、草の祖神である草野姫が生まれる。草野姫は、野槌(のづち)とも呼ばれている。
こうして伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)は相談し、言った。
「私たちはすでに大八洲国をはじめ、山や川、草や木まで生み出した。ならば、天下を治める主を生まないわけにはいかない。」
そこで二柱の神は日の神を生み、大日孁貴と名づけた。「大日孁貴」は「おおひるめのむち」と読み、「孁」は“ひるめ”と読む。ある書には天照大御神と記され、また別の書には天照大日孁尊(あまてらす おおひるめのみこと)とも記されている。
この神は光り輝く霊妙な神で、その光は天と地、さらに東西南北の四方すべてに行き渡り、世界の隅々を照らしていた。そのため二柱の神は喜び、言った。
「私たちの子は多いが、これほど霊しく不思議な子はかつてなかった。この国に留めておくべきではない。早く天へ送り、天上の政を司らせるべきである。」
当時は天と地の隔たりがまだ大きくなかったため、天の柱を立て、それを押し上げて天上へ送ったという。
(『日本書記』神代上、本文)

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天照大御神はどのようにして主神となったのか 1/4

天照大御神(あまてらすおおみかみ)について、一般の日本人はどのようなことを知り、どのようなイメージを抱いているのだろうか。

岩戸隠れのエピソードで知られる太陽の女神であり、伊勢神宮に祀られ、皇室の祖先神で、日本神話の中で最も尊い神である。多くの人は、おおよそこのような、やや漠然とした理解を抱いているのではないだろうか。

もしそうだとすれば、その背景には、日本神話が語られている『古事記』(712年)や『日本書紀』(720年)を、私たちが実際にはほとんど読むことがないという事情がある。その点において、日本の状況は、ヨーロッパでギリシア・ローマ神話が比較的広く読まれている状況とは、かなり異なっていると言えるだろう。

さらに、日本の神話を体系的に語った最初の書物である『古事記』や『日本書紀』についても、それらが誰によって、いかなる意図のもとに編纂されたのかは、十分に知られているとは言いがたい。『古事記』が日本語を漢字によって書き写した書物であるのに対し、『日本書紀』は漢文によって記された歴史書であるという基本的な違いでさえ、必ずしも広く共有されているわけではない。

その結果、日本神話の中心的存在とも言える天照大御神についても、どのような経緯で主神と見なされるようになったのか、また神話の中でどのような役割を担っているのかといった点が、深く考えられることのないまま、半ば自明のものとして受け入れられているように思われる。

もちろん、そのような理解の仕方であっても、知らないままで差し支えが生じるわけではない。しかし、知らないということに気づいてしまうと、つい知りたくなるのも人情である。そうした思いに導かれて、ここでは少しだけ、天照大御神について掘り下げて考えてみたい。

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「倭」から「日本」へ  『古事記』『日本書紀』『万葉集』を貫く「大君は神にしませば」の心 2/3 

(3)大泊瀬稚武天皇と雄略天皇

「籠もよ み籠持ち」の長歌には、「雜歌/泊瀬朝倉宮 御宇 天皇代〔大泊瀬稚武天皇〕/天皇御製歌」という題詞が付けられている。

御宇(ぎょう)の「御(ご)」は尊敬を表す接頭語であり、「宇(う)」は本来「覆うもの」を意味する語で、そこから転じて「天下を覆い治める」、すなわち「統治する」という意味を持つようになった。したがって、御宇(ぎょう)とはここでは、天皇が天下を治めることを意味し、この長歌が大泊瀬稚武天皇の御代の歌として位置づけられていることを示している。

その天皇名「大泊瀬稚武(おおはつせわかたけ)」のうち、「泊瀬」は、現在の奈良県桜井市周辺に比定される地名であると考えられている。これを前提とすれば、「大泊瀬稚武」という名は、「大泊瀬」と「稚武(わかたける)」という二つの要素に分けて理解することも可能であろう。その場合、この名称は、泊瀬を拠点とする稚武(わかたける)という人物像を示すものと解釈することができる。

ただし、「大」という語が具体的に何を意味するのかについては明確ではなく、宮殿の規模を直接示すものと断定することはできない。地名的修飾、尊称、あるいは他の王との区別を意図した表現である可能性も考慮する必要がある。

そして、「稚武(わかたける)」という名称は、その音形が「ワカタケル」であること、また「武」という漢字が用いられていることの両面において、五世紀に活動した人物との関係を強く想起させる。この点は、金石文資料に見える「ワカタケル大王」との比定が有力視されていることとも関わっており、記紀における大泊瀬稚武天皇像を考えるうえで重要な手がかりとなっている。

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「倭」から「日本」へ  『古事記』『日本書紀』『万葉集』を貫く「大君は神にしませば」の心 1/3

日本の歴史を振り返る際、8世紀初頭に成立した『古事記』と『日本書紀』を欠かすことはできない。というのも、これらは現存する日本最古の文字史料だからである。さらに、同じ世紀の後半に成立した『万葉集』を含め、これらの文献は、「日本」という国家意識を最も直接的に反映した、きわめて貴重な資料であるといえる。

ちなみに、古代において日本列島の有力な部族集団を統合していた政治的主体は、中国王朝を頂点とする東アジア交流圏の中で、「倭」という名称で認識されていた。
その国号が「倭」から「日本」へと転換していくのは、7世紀後半、天武天皇が編纂を開始し、持統天皇が689年に施行したとされる「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)」を含む、天武・持統政権期の国家制度整備の過程においてであると考えられている。
また、国外においては、702年(大宝2年)の遣唐使が、唐側で用いられていた「大倭国」という国号を退け、「日本国」を称したことが、現存史料に確認できる最古の「日本」という国名の使用例であるとされている。

この国号の変更は、天武天皇が先代の天智天皇から平穏に皇位を継承したのではなく、天智天皇の第一皇子である大友皇子との間で、672年に「壬申の乱(じんしんのらん)」と呼ばれる内乱を戦い、激しい争いの末に皇位を獲得したという事情と、無関係ではない。

中国の史書が、それぞれの王朝の正当性を確立するという視点から編纂されるのと同様に、天武天皇が「国史」の編纂を命じたことを出発点として成立した『古事記』や『日本書紀』は、天武天皇に始まる王統を揺るぎないものとして位置づけることを、重要な目的としていたことは確かである。『万葉集』もまた、その思想的文脈の中に位置づけることができ、その精神が最も直接的に表現されている文献であるといっても過言ではない。

その精神は、『万葉集』に多く見られる「大君(おほきみ)は神にしませば(皇者神)」という表現によって、端的に示されている。すなわち、天皇は神としてこの世に現前する存在であり、いわゆる現人神(あらひとがみ)として捉えられているのである。

天武天皇や持統天皇たちは、自らの王統が神に連なる一族であることを、史書や和歌という形で記録させることによって、皇位継承の正当性と安定性を確保しようとしたのだと考えられる。

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釜山にて 古代の東アジア交流圏 3/4 倭国の朝鮮半島進出

(4)「七支刀」と「好太王碑」 

3世紀の卑弥呼の時代以後、倭国に関する中国の史書の記述は長く途切れがちとなり、4世紀から6世紀にかけての日本列島の状況は、史料的に「空白」の多い時代とされている。しかし、日本と韓国には、それぞれ日本列島と朝鮮半島とのかかわりを考えるうえで重要な資料が残されている。

その一つが、奈良県の石上神宮に伝わる「七支刀(しちしとう)」に刻まれた銘文である。この銘文からは、4世紀には倭と百済のあいだに、何らかの政治的・外交的な関係が存在していたことがうかがえる。

もう一つは、414年に建てられた高句麗(こうくり)第19代王・好太王(広開土王)の業績を称えた「好太王碑(こうたいおうひ)」である。その碑文は、4世紀後半から5世紀初頭にかけての朝鮮半島諸国の勢力争いと、その中で倭国がどのように関与していたのかを知るための、数少ない同時代史料の一つとなっている。

こうした資料は、日本列島の倭人と朝鮮半島に住む人々が密接な関係にあったことを示す痕跡であり、古代の「東アジア交流圏」において、現代の国境意識や、海が国を隔てるといった先入観から離れて見ることで、たとえ戦闘に関わる出来事であっても、列島と半島の間に存在した相互的な交流の実態を、現代の私たちに伝えてくれるものである。

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釜山にて 古代の東アジア交流圏 2/4  卑弥呼の朝貢 

(3)邪馬台国 卑弥呼の朝貢

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3世紀末に成立した『三国志』の「魏書東夷伝(とういでん)」に含まれる「倭人条」は、一般に『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』と呼ばれ、3世紀頃の倭諸国、とりわけ邪馬台国(やまたいこく)について記した史料である。

そこでは、邪馬台国の女王とされる卑弥呼が魏(ぎ)に使者を送り、「親魏倭王(しんぎわおう)」の称号と印綬を授けられたことが記されている。

ここで中国の歴史を振り返っておきたい。前202年に西漢(前漢)が成立し、紀元25年には東漢(後漢)へと移行しつつ、400年以上続いた漢帝国は、紀元220年に滅亡した。
これにより、中国は魏・蜀・呉が覇権を競う「三国時代」へと入っていく。

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卑弥呼が使者を送った相手は、豊かな黄河流域(華北)を押さえ、三国の中で最も強大な国家であった魏である。

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釜山にて 古代の東アジア交流圏 1/4 海中にある倭人

たまたま釜山に行く機会があり、市場や海に面した海東龍宮寺(ヘドンヨングンサ)を訪れながら、日本と韓国がまだ国家として成立していない時代のことが、ふと頭に浮かんだ。というのも、釜山は対馬から約50km、博多との距離も約200km程度で、距離的に本当に近く、弥生時代から文化的にも「お隣さん」の関係だったからだ。

紀元前10世紀頃に北部九州に稲作が伝わり、狩猟採集中心の縄文文化から食料生産中心の弥生文化へと転換するきっかけになったが、そのルートの一つは朝鮮半島南部を通過するものだった。
また、6世紀半ばに仏教が伝来したのも、百済の聖明王が欽明天皇に仏像や経典を献上したことが始まりとされている。

このように、稲作や仏教という日本文化の根底を成すものが、朝鮮半島南部から北部九州へというルートを通ってもたらされたこともあり、「日本列島と朝鮮半島は一衣帯水(いちいたいすい)」と表現されることがある。ひとすじの帯のように幅の狭い川や海を隔てて隣り合い、密接な関係にあるという意味だが、ある時期まで、この地域は一つの文化圏を形成していたといっても間違いではない。

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「無」の思想 日本最初の荘子の受容

日本の文化の中で「無」が重要な役割を果たすことはよく知られているが、「無」とは何なのか、そしてなぜ日本人が「無」にこれほど惹かれるのか、説明しようとしてもなかなかできない。
そうした中で、荘子の思想は重要なヒントを与えてくれる。

大変興味深いことに、8世紀末期に成立した日本最古の和歌集『万葉集』には、荘子受容の最初の例としてよく知られる歌がある。

心をし 無何有(むかう)の郷に 置きてあらば 藐孤射(はこや)の山を 見まく近けむ                     (巻16・3851番)

もし心を「無何有の郷」、つまり「何もなく、無為(むい)で作為(さくい)のない状態」に置くならば、「藐孤射の山」、つまり「仙人が住むとされる山」を見ることも近いだろう、とこの作者未詳の歌は詠っている。

現代の私たちも、無の状態になることが何かを成し遂げるときに最もよい方法だと言うことがあるが、それと同じことを、今から1300年以上も前の無名の歌人も詠っていたことになる。
そして、「無何有の郷」と「藐孤射の山」が、『荘子』の「逍遥遊(しょうようゆう)」篇で語られる挿話に出てくる固有名詞だということを知ると、日本人の心のあり方と荘子との関係に深さがはっきりと見えてくる。

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ジョン・レノンと荘子 Imagine Nowhere

古代中国の思想家・荘子を読んでいて、ふとジョン・レノンの「イマジン(Imagine)」の歌詞が頭に浮かんだ。
「天国も地獄もなく、頭の上には空があるだけ。そして、みんなが今日だけを生きる。そんな世界を想像してみよう。」という一番の歌詞はおおよそそんな内容だが、それは荘子が説く「万物が斉(ひと)しく、境目のない世界観」と響き合っている。

こうした類似、あるいは一致に気づくと、ビートルズが1965年に発表した「Nowhere Man」も思い出される。(「ひとりぼっちのあいつ」という日本語題が付けられているが、内容を的確に表していないため、ここではその題名は用いないことにする。)
「彼は本当にNowhere Man(どこにもない場所の男)だ。」という一節から始まり、否定形の表現が続いていく。しかしそれは単なる否定ではなく、一つの固定した視点がつくり出す区切りや差異を消し去ろうとする態度だとも解釈できる。ここにも荘子の「斉物(さいぶつ)論」と通じる精神が感じられる。

そんなことを意識しつつ、まず Imagine と Nowhere Man を聴いてみよう。

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