日本の歴史 超私的概観 (1) 古代から飛鳥時代まで

日本のことを少しだけでも勉強しようと思った時、自分がほとんど何も知らないことに気付かされた。

知っていることといったら、学校で習った何人かの人物の名前やいくつかの出来事くらい。例えば、「1192(いい国) つくろう 鎌倉幕府」といった感じ。
最近の学説によれば、源頼朝が全国に守護・地頭を置き、実質的な支配を開始したのは1185年なので、「1185(いい箱)つくろう 鎌倉幕府」と言われるようになったらしい。
しかし、鎌倉時代が日本の文化においてどのような意味を持ったのかといったことに関しては、あいかわらずわからないままだ。

歴史に関するもう一つの傾向は、小説や芝居などで取り上げられたヒーローの個人的な物語を通して、自分たちの生き方の参考にするといったもの。
例えば、ある時期、坂本龍馬に脚光があたり、「死ぬ時はたとえどぶの中でも前向きにたおれて死ぬ」といった言葉だけが一人歩きしたことがある。
その時、幕末について少し語られることはあったとしても、明治維新が現代の日本のあり方にどのような役割を果たしたのか、私はまったく知らないままでいた。

そのような状況の中で自分の無知を自覚するにつれ、過去の日本が現在の日本にどのような痕跡を留めているのか知りたくなり、少しずつ調べてみることにした。

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愛するものが死んだ時には

昨日の夕方アカが車に轢かれて死んだ。そんな知らせが届いた。
アカは近所に住む地域ネコで、毎日通りかかる度に挨拶をする関係。ただの野良猫だし、特別に価値があるわけではないが、とにかくカワイイ存在だった。

アカの横たわる姿を見て、ふと中原中也の「春日狂想(しゅんじつきょうそう)」の詩句が頭に浮かんだ。中也は、最愛の息子文也の死後、精神的にかなりの混乱をきたした。その時期に書かれたと想定され、耐えきれない悲しみに心を塞ごうとする気持ちが痛いほど感じられる。

愛するものが死んだ時には、
自殺しなきゃあなりません。
(中略)
愛するものは、死んだのですから、
たしかにそれは、死んだのですから、

もはやどうにも、ならぬのですから、

自殺という言葉は読者をびっくりさせるかもしれないが、感情を殺すしか悲しみをこらえる方法がないという意味だと理解したい。
そんな悲しみを前にして、こんな風に思ってみたところでどうしようもない。

      《まことに人生、一瞬の夢、
      ゴム風船の、美しさかな。》

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自分の顔はどんな顔?

「最近、自分の顔が自分だと思えない時があるけれど、なぜ?」という質問を受けた。確かに、鏡に映った顔を見ながら、自分がこんな顔をしていたのかなあ、などと思うことがある。
そこで、自分で自分を認識するとはどういうことか、少しだけ考えてみた。

私たちは五感を使って外の世界を感じている。それらの感覚の中で、触覚、味覚、臭覚では、自分を感じ取ることはできない。
手で自分を触った時、触られていることは感じる。自分で自分を触っていることは分かる。しかし、手の感触だけで、自分自身を触っているのか、他の人を触っているのかは分からない。
自分を舐めたときの味も、自分の匂いも、他の人とはっきりと区別はつかない。

ということは、自分を自分だと感じ取る感覚は、聴覚と視覚ということになる。
そして、この二つで感じ方に差があることに、私たちは気付いている。
自分の声の録音を聞く時、なんとく違和感を感じる。自分の声ではないような感じがする。
鏡に映った自分や、写真の中の自分を見る時、多くの場合、それが自分だと分かる。声と同じような違和感を感じることは少ない。
その違いはどこから来るのだろう?

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人種(race)という言葉に潜む意識

「人種(race)」という言葉は一見すると価値判断を含まず、「皮膚の色や頭の骨など目に見える身体の特徴を基本にして人間を分類」するという意味を持つ、ニュートラル言葉だと思える。

「人種」は、元々は一族の先祖から子孫までを含むメンバー全体を意味していたと考えられている。そこから、17ー19世紀を通して、身体の外見的な特徴に基づき一定の人間の集団を指すようになった。
そして、その時期が、ヨーロッパの国々が植民地政策を強めていったと重なることを知ると、ある価値判断が入っていることに納得がいく。

当時のヨーロッパ諸国の植民地主義は、大まかに言えば、ヨーロッパとアフリカ大陸とアメリカ大陸を結ぶ「三角貿易」をベースにしていた。
ヨーロッパからアフリカに工業製品を運び、アフリカから黒人奴隷を積み込んで西インド諸島や北アメリカに運ぶ。そこからタバコ、綿花、砂糖といった農産物をヨーロッパに運ぶ。こうした交易のもたらす富みが、産業革命を推進した。
この地理的三角形において、底辺にはアフリカ大陸とアメリカ大陸があり、頂点に置かれるのがヨーロッパであることは言うまでもない。

植民地化や奴隷貿易といった非人道的な政策が行われたこの時代、他方では、デカルトを始めとした哲学者や思想家が数多く出現し、人間における理性の価値を強調し、フランス革命のスローガン「自由、平等、友愛」へとつながる啓蒙思想が育まれていた。

この二つの現象のズレの出所を探ることで、21世紀まで続く世界のあり方が見えてくる。

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世論の「からくり」 「みんな」を作る仕組み

2002年に出版された高橋秀実の『からくり民主主義』は、1995年から2002年までの間に日本各地で話題になった出来事を扱ったジャーナリスム的な内容を持った本。
時事的な話題を扱うジャーナリスムの宿命もあり、例えば、横山ノックのセクハラ事件やオウム真理教の問題などは、2024年にアクチュアルなテーマとはいえなくなっているために、当時のことを知らない読者にはそれほど興味がない読み物になっているかもしれない。

他方、出版後20年以上を経た時事的な本であっても参考になると思えることがある。それは一つ一つの事件に対する一貫した姿勢。それを一言で言ってしまうと、「結論がない」ということ。白黒を付けるのではなく、どのように白黒が付けられるのかという「からくり」=仕組みを明らかにしようとする姿勢だ。

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マルクス・ガブリエル 「新実存主義」 われわれはある人格になりたいと望み、またそう望むことでその人格へと変わっていく 

1980年生まれの哲学者マルクス・ガブリエルの『新実存主義』(廣瀬覚訳、岩波新書)は、サルトルの実存主義と同様に、「意識」を人間の中心に置き、人間とはどのような存在であるかを解き明かそうとする試みとして読むことができる。

マルクス・ガブリエルは、日本の出版界やマスメディアで、” 哲学のロックスター”とか “天才哲学者 “というレッテルで紹介され、世界的なベストセラーといわれる『なぜ世界は存在しないのか』は日本でもかなり売れたらしい。

ただし、哲学書を読むと常に感じることだが、専門用語が多く使われ、一般の読者にはあまり分かりやすいものではない。これまでの哲学の歴史を踏まえ、マルクス・ガブリエルの場合であれば、唯物論的な科学主義を仮想敵として前提にした上で、自説を展開する。そのために、なかなか要旨を掴むことができない。

 新実存主義が掲げる根本の主張は次のようなものである。(中略)われわれは、物理的法則が支配する無生物と、生物的パラメーター によって突き動かされる動物であふれた世界にただ溶け込んで生きているのではない。人間のそうした特異なあり方をさまざまなかたちで説明できるのが心的語彙であり、その説明能力をもつかぎりで心的語彙はひとつのグループとしてとらえることができる。
       (マルクス・ガブリエル『新実存主義』、p. 16-17.)

この文章を読んでも、新実存主義の主張は分かりずらい。
「生物的パラメーター 」や「心的語彙」といった用語が何を意味するのかよく分からないし、「動物であふれた世界にただ溶け込んで生きているのではない」という表現も、何を意味しているのかはっきりしない。

ここでは、新実存主義(Neo-existentialism)という用語に注目し、人間という「存在(実存:existence)」についてマルクス・ガブリエルがどのように捉えているのか、そして彼の人間観が私たちに何をもたらしうるのか、具体的な例にそって考えてみたい。

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What a wonderful world 「この素晴らしき世界」とその背景

ルイ・アームストロングが歌うWhat a wonderful worldは、「この素晴らしき世界」という曲名で日本でもよく知られている。
歌詞を辿ると、穏やかで美しい世界の様子が描かれ、« I see friends / shaking hands / saying,”How do you do ?” / They’re really saying / “I love you”と、愛を歌っている。

ほぼ同じ題名の曲( What a ) Wonderful world が、サイモンとガーファンクル、そしてジェームズ・テーラーによって歌われたことがある。
学校で勉強する色々な教科のことはよくわからない(Don’t know much about … )し、自分は成績がいい生徒(’A’ student)ではないけれど、でも、1+1が2ってことは知っているし、ぼくが君を愛していることも知っている、だから、その1が君と一緒で、君がその1である僕を愛してくれたらいいなと、こちらの歌も愛を歌っている。

どちらの場合も、youが大好きな君であるのが最初の意味だが、その背景にはもっと大きなyouがある。二つの曲の背景にあったのが、差別や偏見に満ち、戦争が起こり、人間と人間が対立する社会情勢だったことが分かると、歌の意味がもっとはっきりと伝わってくる。

最初に、ルイ・アームストロングとアート・ガーファンクルたちの歌を聴いてみよう。

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プロパガンダ 受け取った情報を他の人に伝えたいと思わせる方法

NHKのドキュメンタリー「映像の世紀 ゲッベルス 狂気と熱狂の扇動者」を見た。
ゲッベルスは、アドルフ・ヒットラーの下で、国民社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が国民の熱狂的な支持を獲得するために大きな役割を果たした宣伝大臣。
NHKの番組紹介には、次のように書かれている。

ベッベルスのプロパガンダの方法は、SNSが通常のコミュニケーション手段となった現在において、そのまま通用する。

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漢字の書き順 事実に基づく思考法

漢字に関するサイトを見ていると、「書き順が変わった!」とか、「正しい書き順は存在しないという衝撃的事実!」とか、興味を掻き立てる情報に数多く出会う。そして、さっと読み、素直にうなずいてしまうことがある。
とりわけ、「小学校に通う子供が自分とは違う書き順を学校で習ってきて驚いた」といった体験談が語られると、書き順が変わったという情報を確信してしまう。そして、驚きを共有すればするほど、その情報の真偽を確かめようとはしない。

では、真偽を確認するためには、どのようにしたらいいのだろか?

最初に考えることは、「書き順の変更」とか「正しい書き順」という言葉の前提には、「書き順の基準」があるはずであり、その基準はどこにあるのかという疑問を持つこと。
情報をそのまま信じるのではなく、根拠を問うことが大切になる。

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インターネット上での誹謗中傷 3/3 自由と責任

(4)自由と責任

インターネット上である書き込みが問題になると、一方では規制をすべきだという主張がなされ、他方では「表現の自由」を守るべきだという主張がなされる。
そして、その二つの主張は常に平行線をたどり、時間の経過とともにいつの間にか問題自体が忘れられてしまう。

また、その議論の中で比較的忘れられているのは、書き込みによって生じた事態に対する、書き込んだ人間の責任に関する問題。
匿名の書き込みの場合は行為の主体が明確でないために、責任がその主体に降りかかることはない。
実名が記され、書き込みの主が明確な場合でも、その状況はほとんど変わらない。内容に根拠がなく、事実とは異なっていたり、ただの思い込みが攻撃性を持ったものだったとしても、責任が問われることはまれである。
炎上することがあったとしても、「数」を増やすことにつながり、その時には批判されることがあるとしても、時間が経てば何事もなかったかのように同じ行為が繰り返される。

発信する「自由」は保障されているが、その内容に対する「責任」が明確に問われることはないというのが現状なのだ。

ここではまず、なぜそうした状況になっているのか考えてみよう。

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