井筒俊彦 東洋と西洋 対比から調和へ

西洋と東洋は、歴史や文化、価値観、世界観など、さまざまな分野で、必ずしも対立しているわけではないにせよ、しばしば対比的に語られる。
西洋は古代ギリシアを起点とするヨーロッパと、その流れをくむアメリカ合衆国を中心にまとまりを作っており、一つの文化圏として捉えても大きな違和感はない。これに対して東洋は、どこからどこまでを指すのかがはっきりせず、一つのまとまりとして考えるのが難しい。

たとえば、中国とインドは仏教を通じて歴史的なつながりを持っているが、では現在の中近東と東アジアが同じ「東洋」に入るのかというと、疑問が残る。仏教文化圏とイスラム文化圏では、むしろ違いのほうが目につくかもしれない。
そうなると、イスラム教徒が多い東南アジアの国々はどう位置づければよいのか。さらにイスラム教は、ユダヤ教やキリスト教と同じ一神教であり、その意味では「西洋」に近いと考えることもできる。しかし、イランを中心としたペルシャ文化圏や、アラビア半島を中心とするアラブ文化圏を、西欧文化の中に含めるのは無理がある。
こう考えていくと、西洋と東洋をきっぱり分ける二分法そのものに問題があるように思える。

確かに、世界を西洋と東洋の二つのブロックに分けてしまうのは、大まかすぎる見方である。しかし、人間の根本的なあり方や、考え方・感じ方の特徴を探るうえでは、この二分法が意味を持つこともある。

ここでは、井筒俊彦がさまざまな分野の専門家と行った対談をたどり、「西洋」と「東洋」という言葉で何が語られているのか、そしてそれぞれがどのように対比されるのかを見ていく。
そのうえで、これは単なる地理的な区分の話ではなく、人は誰でも、どこに暮らしていても、自分の中に「東洋」と「西洋」の両面を持ち、それらを調和させながら生きていくという視点を提示したい。

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井筒俊彦 「気づく」から哲学と詩へ 

井筒俊彦は、「『気づく』―詩と哲学の起点」と題されたエッセイを通して、「気づく」というごく当たり前の行為から、「理解すること」=哲学と、「心で感じ取ること」=詩的感動という二つの営みが導き出されることを、私たちに教えてくれる。

その際、「気づく」という同一の行為を出発点として、一方には古代ギリシアの思考法とアリストテレスを、他方には和歌や俳句の表現を置き、哲学と詩がどのように発生し、それらがどのように異なるのかを、簡潔な文章で記述している。

ここでは、このエッセイの内容をできるかぎりわかりやすく解読し、最後に全文をPDFとして掲載することにする。

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井筒俊彦を知る NHK BSスペシャル「イスラムに愛された日本人 知の巨人・井筒俊彦」

井筒俊彦は、日本が誇る最高の知性の一人に確実に数えられる学者。30カ国語を自在に操ったことで「天才」と称されることが多いが、それは単なる語学の才能にとどまらない。イスラム研究の第一人者であるだけでなく、古代中国、インド、ペルシア、古代ギリシアといった諸文明の哲学・宗教・文化に通底する基盤を探究した、真の意味での思想家だった。

幸いなことに、彼を特集したNHK BSスペシャル「イスラムに愛された日本人 知の巨人・井筒俊彦」は、ネット上で視聴することができる。

歴史を振り返り 世界の今を知る 3/3

(歴史を振り返り 世界の今を知る 2/3 から続く)

D. 18世紀後半から19世紀前半:ロシアとアメリカ合衆国

18世紀後半になると、新たに二つの国が台頭し、19世紀にはイギリスやフランスに並ぶ大国として国際政治の中で重要な役割を担うようになった。それがロシアとアメリカ合衆国である。

この二国は、歴史的な背景こそまったく異なるが、18世紀後半から19世紀前半にかけて急速に領土を拡大した点では共通している。また、その拡大の方法にも類似性がある。西欧諸国が遠隔地を植民地化するのに対し、ロシアとアメリカは自国に隣接する地域を次々と自国領に編入していったのである。

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歴史を振り返り 世界の今を知る 2/3

欧米諸国が「国際社会」のルールを形成してきたのに対し、近年では「グローバル・サウス」という言葉が用いられ、欧米の価値観や世界観とは異なる主張が一定の支持を得るようになってきた。
こうした変化に対する評価は、立場や視点の違いによって分かれるのが当然であり、一方が自由や人権を訴えても、他方は搾取やダブルスタンダードを指摘し、双方が納得する結論に達することは容易ではない。

ここで問題にしたいのは、こうした二つの世界観の対立が、16世紀以来の世界の歴史に起源を持つという点である。歴史を振り返ることで、二つの世界の根底に植民地主義の構造が存在していることが見えてくる。
植民を行った側とされた側を大まかに分けるなら、前者は現在のG7を中心とする国々、後者はグローバル・サウスの地域ということになる。

ただし、そこには例外もある。たとえばアメリカ合衆国は、もともと植民された側であったにもかかわらず、現在ではその立場が逆転している。また、ロシアや中国の歴史的背景や現在の位置づけも、それぞれに特異なものがある。こうした点も、歴史をたどることで理解が深まる。

歴史を振り返ることで、私たちは現在を理解するための手がかりを得ることができる。言い換えれば、私たちは今、歴史の連続性の中にある「現在」という時間を生きているのだ。

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歴史を振り返り 世界の今を知る 1/3

どこの国でも同じことだが、一つの環境に身を置いていると、限られた視点からの情報にしか触れることができず、そのことにすら気づかないことが多い。
「情報過多の時代」と言われるものの、実際には視野の狭さは、以前とそれほど変わっていないのかもしれない。

日本にいると、「国際社会」という言葉がいまだに頻繁に使われ、欧米中心の世界観が現在でも国際的に認められていると思い込みがちである。
その結果、少なくとも国の数の上では、そうした状況が変化しつつある、あるいはすでに変化していることに気づかないままでいることが多い。
さらに、たとえ「国際社会」のダブルスタンダードに気づいたとしても、それをやり過ごしてしまう。欧米の価値観を基準に物事を判断する習慣から抜け出せず、抜け出そうともしない。

こうした中で、日本の価値観や世界観は、欧米の側に位置づけられている。そのため、「G7唯一のアジアの国」という表現が一種の誇りのように語られ、民主主義や自由といった価値がことさら重視される。
一方で、日本独自の価値観にも言及されることがあり、「欧米出身者が日本のここを評価した」「あそこに驚いた」といった内容が、マスコミやSNSを通じて盛んに発信される。こうした情報の発信元や評価の主語は、たいてい欧米出身者であり、それ以外の地域の人々が取り上げられることはほとんどない。
そのような二重基準の背景には、欧米諸国の人々に対する劣等コンプレックスと、それ以外の地域の人々に対する根拠のない優越コンプレックスがあるにもかかわらず、そこに無自覚なままでいることが多い。

こうした世界的な状況は、象徴的に言えば、「1492年のコロンブスによる新大陸の発見」に端を発する、西欧諸国による世界戦略に由来していると考えられる。
それ以来、ヨーロッパの国々はアフリカ大陸、アメリカ大陸、アジア各地を次々と植民地化し、支配してきた。その構造は、経済的には現在に至るまで形を変えて持続している。

ここでは、そうした歴史の流れを大まかに振り返りながら、現在の世界がどのような状態にあるのかを、先入観にとらわれずに理解することを目指したい。

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日本の歴史 超私的概観 (10) 幕末から明治へ

幕末から明治へと移行する中で、政治体制が大きく変化しただけでなく、一般の人々の生活様式を含む文化全体も大きく様変わりした。
この変化を広い視野で捉えると、飛鳥時代以来約1300年間続いてきた中国文化の影響から離れ、西洋の文化圏へと移行したことに他ならない。
別の視点から見れば、東アジアの端にある島国の日本が、もはや欧米列強の世界戦略とは無関係でいられなくなったことを意味している。

19世紀に入り、外国船が日本に頻繁に来航するようになり、とりわけ1853年に浦賀沖に現れたペリーの黒船に象徴される開国の要求以降、江戸幕府は鎖国政策の転換を迫られるようになっていった。
同じ頃、薩摩藩や長州藩などいくつかの藩では、有能な下級武士を登用して藩政改革に成功し、幕府に対抗し得る実力を備えつつあった。
そうした状況の中で、徳川時代を通じて政治の表舞台に立つことのなかった朝廷の存在感が次第に増し、明治維新後には、天皇が政治の中心に位置する国家体制が形成されていくことになる。

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日本の歴史 超私的概観 (9) 幕末から明治へ  植民地化の危機を前にして 

江戸幕府は初期に開始した鎖国政策を継続していたが、19世紀に入ると、西欧諸国によるアジアへの植民地政策に対応を迫られるようになった。

一方では、圧倒的な軍事力を持つ欧米列強に対して断固たる拒否を貫き、攘夷、すなわち夷人(いじん)を攘(はら)い、外国勢力を排除しようとする主張があった。
もう一方では、妥協的な態度を取り、何らかの条約を結ぶという現実主義的な立場があった。
こうした対立が、最終的に江戸幕府を倒し、明治維新をもたらした一つの要因になる。

国内に目を向ければ、幕府および諸藩の財政は恒常的に逼迫しており、農民に対しては年貢を、商人に対しては上納金を過重に課すことで財源の確保を図った。
しかし、その結果として農民一揆が頻発し、都市部においても打ちこわし等の破壊的な民衆運動が勃発するなど、社会的混乱が継続的に生じていた。

このような情勢下において、薩摩藩や長州藩などの一部有力藩では、有能な下級武士を登用し、内部改革に着手することで藩政の再建を図った。
これにより、これらの藩は次第に政治的・軍事的な実力を蓄積し、幕府に対抗し得る勢力として台頭していくこととなる。

明治維新後、国家形成の主導的役割を担ったのは、こうした改革過程において頭角を現した若年層の下級武士たちであり、彼らは新政府の中枢を構成することとなった。

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日本の歴史 超私的概観 (8) 江戸時代 後半 幕藩体制の揺らぎ 外国文化の足音

江戸時代の後半、幕藩体制の土台が揺らぎ始めると同時に、鎖国を続けていた日本にも、少しずつ外国文化の影響が入り込んでくるようになった。

幕藩体制について言えば、商業活動の活発化は、幕府や藩の経済だけでなく、武士たちの社会的な立場をも危うくすることとなった。
江戸時代前半には幕府が藩を支配する封建体制が確立し、武士の兵士としての役割は終わりを迎えていたが、彼らの主な収入源は農民から取り立てる年貢に限られ、自ら商売などをして収入を得る道は閉ざされていた。
その一方で、町人の経済力は増大し、武士階級が町人階級に依存するような状況さえ生まれ、幕藩体制は次第に弱体化していった。

外国文化の影響について見ると、当時の人々の暮らしの中に直接入り込むことはほとんどなかったものの、学問や芸術の世界ではその影響がはっきりと現れていた。
特に絵画の分野では、古くから続く日本独自の表現方法に新しい風が吹き込み、大きな変化が生まれたことは注目に値する。

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日本の歴史 超私的概観 (7) 江戸時代 前期 美意識の形成

江戸時代前期には幕藩体制が確立し、儒教精神が武士だけではなく平民にまで浸透した。16世紀の戦国時代が終わり、社会全体が安定期に入る中で、人々の生活様式も変化し、それにともない文化的な表現も前の時代とは異なったものになっていく。

武士階級においては、幕府の圧倒的な支配の下で戦闘要員という本来の役割を果たす場がなくなり、藩主から俸禄を受領することで生計を立てる非生産者となる。
農民は幕府や藩からの様々な統制にもかかわらず、新田開発や治水・感慨事業、そして農業技術の向上により生産性を増し、農産物を商品として流通させることも可能になる状況が生まれた。
そうした動きに連動し、商業活動も活発化し、街道の整備や貨幣経済の発展にともない、大規模な商売で富を獲得するなどして、町人が経済の実験を握る状況なども生まれ始めた。

このように人々の生活が安定するに従い、京都の宮廷や武士階級だけではなく、都市の住民も、絵画や演劇、読み物などといった文化活動に参加するようになっていく。
江戸時代前期において、その中心は上方、つまり京都と大阪にあり、江戸は徳川幕府と関係するものに限られていたといってもいいだろう。

江戸時代というとどうしても江戸中心に考えてしまがちだが、大和朝廷以来の伝統を考えると、上方から江戸への移行が一気に行われたわけではないことは、むしろ自然なことだと言える。

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