歴史を振り返り 世界の今を知る 2/3

欧米諸国が「国際社会」のルールを形成してきたのに対し、近年では「グローバル・サウス」という言葉が用いられ、欧米の価値観や世界観とは異なる主張が一定の支持を得るようになってきた。
こうした変化に対する評価は、立場や視点の違いによって分かれるのが当然であり、一方が自由や人権を訴えても、他方は搾取やダブルスタンダードを指摘し、双方が納得する結論に達することは容易ではない。

ここで問題にしたいのは、こうした二つの世界観の対立が、16世紀以来の世界の歴史に起源を持つという点である。歴史を振り返ることで、二つの世界の根底に植民地主義の構造が存在していることが見えてくる。
植民を行った側とされた側を大まかに分けるなら、前者は現在のG7を中心とする国々、後者はグローバル・サウスの地域ということになる。

ただし、そこには例外もある。たとえばアメリカ合衆国は、もともと植民された側であったにもかかわらず、現在ではその立場が逆転している。また、ロシアや中国の歴史的背景や現在の位置づけも、それぞれに特異なものがある。こうした点も、歴史をたどることで理解が深まる。

歴史を振り返ることで、私たちは現在を理解するための手がかりを得ることができる。言い換えれば、私たちは今、歴史の連続性の中にある「現在」という時間を生きているのだ。

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歴史を振り返り 世界の今を知る 1/3

どこの国でも同じことだが、一つの環境に身を置いていると、限られた視点からの情報にしか触れることができず、そのことにすら気づかないことが多い。
「情報過多の時代」と言われるものの、実際には視野の狭さは、以前とそれほど変わっていないのかもしれない。

日本にいると、「国際社会」という言葉がいまだに頻繁に使われ、欧米中心の世界観が現在でも国際的に認められていると思い込みがちである。
その結果、少なくとも国の数の上では、そうした状況が変化しつつある、あるいはすでに変化していることに気づかないままでいることが多い。
さらに、たとえ「国際社会」のダブルスタンダードに気づいたとしても、それをやり過ごしてしまう。欧米の価値観を基準に物事を判断する習慣から抜け出せず、抜け出そうともしない。

こうした中で、日本の価値観や世界観は、欧米の側に位置づけられている。そのため、「G7唯一のアジアの国」という表現が一種の誇りのように語られ、民主主義や自由といった価値がことさら重視される。
一方で、日本独自の価値観にも言及されることがあり、「欧米出身者が日本のここを評価した」「あそこに驚いた」といった内容が、マスコミやSNSを通じて盛んに発信される。こうした情報の発信元や評価の主語は、たいてい欧米出身者であり、それ以外の地域の人々が取り上げられることはほとんどない。
そのような二重基準の背景には、欧米諸国の人々に対する劣等コンプレックスと、それ以外の地域の人々に対する根拠のない優越コンプレックスがあるにもかかわらず、そこに無自覚なままでいることが多い。

こうした世界的な状況は、象徴的に言えば、「1492年のコロンブスによる新大陸の発見」に端を発する、西欧諸国による世界戦略に由来していると考えられる。
それ以来、ヨーロッパの国々はアフリカ大陸、アメリカ大陸、アジア各地を次々と植民地化し、支配してきた。その構造は、経済的には現在に至るまで形を変えて持続している。

ここでは、そうした歴史の流れを大まかに振り返りながら、現在の世界がどのような状態にあるのかを、先入観にとらわれずに理解することを目指したい。

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社会的人間関係の相対性と党派性 — 福沢諭吉『文明論の概略』の一節から

明治維新直後、福沢諭吉は、混乱する日本が欧米の侵略に抗して独立を保つため、欧米から何を学ぶべきかを考究したのだが、その中で、日本及び日本人のあり方についても鋭い洞察を行った。

ここでは、上下関係に基づく社会的な人間関係についての考察を取り上げ、現在の私たちにも関係する人間関係について考えてみよう。

『文明論の概略』第9章「日本文明の由来」では、社会的な上下関係によって態度を変える人間の様子が描かれている。

政府の吏人(りじん)が平民に対して威を振るふ趣(おもむき)を見ればこそ権あるに似たれども、此の吏人が政府中に在りて上級の者に対するときは、其の抑圧を受ること平民が吏人に対するよりも尚(なお)甚(はなはだ)しきものあり。(中略) 甲は乙に圧せられ乙は丙に制せられ、強圧抑制の循環、窮極(きゅうきょく)あることなし。

福沢諭吉の時代には、官vs民の上下関係は揺るがしようがなく、役人が一般の庶民に対して権力を振るうのが当たり前だった。
また、役人たちの中にも上下があり、庶民に威張り散らしていた人間が、上司からは威張り散らされる。
そんな風に、社会的な人間関係はその場その場の上下関係によって循環するのだと福沢は言う。

2025年には「財務省解体デモ」があり、Xの投稿に導かれた人々が中央官庁の官僚に対して抗議するメンタリティーも醸成されているが、こうした動きがエリートvs庶民という構図に基づいていることは、明治維新直後と変わりがない。
もしかすると、デモ参加する群衆の中には、自分たちよりも弱い立場にいる人間、例えば外国人労働者に対しては、排斥を訴えている人がいるかもしれない。

もしも福沢がそうした様相を目にすることがあれば、「強圧抑制の循環、窮極あることなし」と言うに違いない。

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短期的な視点の罠 — ドル円と物価高

2025年3月7日の日経新聞に”円高”という記事が見られる。

1ドル147-148円で円高という認識。実際、2024年6月には1ドル160円以上になった時期があり、2024年の平均でも152円程度だったので、それと比較すれば円高という表現は間違いではない。

しかし、視野を拡げると、1ドル147円が円高と言えるだろうか?という疑問が湧いてくる。 2015年から10年間という期間に視野を広げると、全く違う事実が見えてくる。

2015年には1ドル121円、2019年では107円平均だった。そこから見たら、147円はとてつもない円安だ。

この一覧表を見ると、2022年から円が急激に、しかも極端に安くなったことがわかる。2021年から見ると、147円は考えられない円安なのだ。

こうしたドル円の変化が物価高に直結していることを、アップル社のmacbook airを例に取って示してみよう。

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「疑う」ことの難しさ

昭和15(1940)年8月、小林秀雄は、日本が日支事変、つまり日中戦争に突入していく中で、「事変の新しさ」という記事を書き、次のように記している。

前に、事変の本当の新しさを知るのは難しいと申しました。何か在り合わせ、持ち合わせの理論なり方法なりえ、易しく事変はこういうものと解釈して安心したい、そういう心理傾向から逃れることは容易ではないと申しました。つまり疑うという事は、本当に考えてみますと、非常に難しい仕事なのであります。
      (小林秀雄「事変の新しさ」『小林秀雄全集 13』新潮社、p. 117.)

実際、自分がごく当たり前だと思うことを一端カッコに入れ、疑ってみることは、思っている以上に難しい作業だといえる。
その理由は、視野がある一点に向かうと、それだけを見て納得してしまうということがしばしばあるからだと思われる。

その例として、最近の国際情勢を見ていきたい。

アメリカがウクライナに対する軍事支援を中止する動きがトランプ大統領によって示されて以来、少なくともヨーロッパ・アメリカを中心とする世界において、平和に関する議論が変化しつつある。
そうした中で、核兵器に関する話題も取り上げられているのだが、日本とフランスで全く違った議論がなされている。

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判断力を養うために — 先入観と早呑込みの危険性を意識する

SNSで流れてくる情報に容易に動かされる現代社会において、最も必要とされるのは、「判断力」の育成だといえる。たとえAIで精巧に作られた情報に接したとしても、正しく判断すれば、真偽はそれなりに推測できるはずである。

16世紀フランスの思想家ミッシェル・ド・モンテーニュは、「子どもの教育について」というエセーの中で、様々な知識に触れる必要性を説きながら、その目的は知識を通して「判断力を形成すること」だと言った。

教師は、生徒に、全てのものを濾し布に通すようにさせ、単なる権威や信用だけを頼りにしたものは、頭の中に何も残っていないようにさせてください。(中略)生徒には多様性のある判断を提示してください。生徒は、選択できるのであれば、選択するでしょう。できなければ、疑いの状態に留まるでしょう。愚か者だけが、確信し、決めてかかるのです。  (モンテーニュ『エセー』)

この言葉は、21世紀の情報社会にそのまま当てはまる。フェイクの情報や陰謀論が大量に流通し、一部の人々はそれを容易に信じ、拡散する。彼らは受け取った情報をそのまま「確信し、決めてかかる。」

では、「確信し、決めてかかる」ことなく、判断力を養うためにはどうしたらいいのだろう?

そのヒントを丸山真男の『「文明論之概略」を読む』(岩波新書)から得ることができる。
丸山は古典を読む際の注意事項として二つの項目を挙げるのだが、それこそが、判断力を養う際の基礎になる。
その二つとは、 「先入観の排除」と「早呑込みの危険性」。

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違う角度から見た世界地図

コロナが終わり、久しぶりに日本からフランスに向かった。飛行時間は14時間以上! その理由は戦争でロシア上空を飛行できないため。
座席のテレビに映る世界地図の上の飛行機の航路を見て、それを実感することになった。

私たちがしばしば目にする世界地図は日本が真ん中にあるものか、あるいはヨーロッパ中心のもの。それに対して、KIXからParisに向かう航路が描かれたこの世界地図は、全く異なる角度から世界を見せてくれる。

そして、そのことは、ロシアとウクライナの戦争だけではなく、それを巡る考え方にも異なった視点をサジェストしてくれる。

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人種(race)という言葉に潜む意識

「人種(race)」という言葉は一見すると価値判断を含まず、「皮膚の色や頭の骨など目に見える身体の特徴を基本にして人間を分類」するという意味を持つ、ニュートラル言葉だと思える。

「人種」は、元々は一族の先祖から子孫までを含むメンバー全体を意味していたと考えられている。そこから、17ー19世紀を通して、身体の外見的な特徴に基づき一定の人間の集団を指すようになった。
そして、その時期が、ヨーロッパの国々が植民地政策を強めていったと重なることを知ると、ある価値判断が入っていることに納得がいく。

当時のヨーロッパ諸国の植民地主義は、大まかに言えば、ヨーロッパとアフリカ大陸とアメリカ大陸を結ぶ「三角貿易」をベースにしていた。
ヨーロッパからアフリカに工業製品を運び、アフリカから黒人奴隷を積み込んで西インド諸島や北アメリカに運ぶ。そこからタバコ、綿花、砂糖といった農産物をヨーロッパに運ぶ。こうした交易のもたらす富みが、産業革命を推進した。
この地理的三角形において、底辺にはアフリカ大陸とアメリカ大陸があり、頂点に置かれるのがヨーロッパであることは言うまでもない。

植民地化や奴隷貿易といった非人道的な政策が行われたこの時代、他方では、デカルトを始めとした哲学者や思想家が数多く出現し、人間における理性の価値を強調し、フランス革命のスローガン「自由、平等、友愛」へとつながる啓蒙思想が育まれていた。

この二つの現象のズレの出所を探ることで、21世紀まで続く世界のあり方が見えてくる。

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「数」が見えなくするもの  ベルクソン『時間と自由』 Henri Bergson Essai sur les données immédiates de la conscience

「数を数える」ことは誰もがいつもしている。しかし、そのことで、「見えているもの」が見えなくなることに気付くことは少ない。

家の近くには、アカとシロという地域ネコがいる。アカはキジシロだし、シロは白いネコ。性格も行動パターンも違うし、考え方もたぶん違っている。二匹にははっきりとした個性の違いがある。
そのネコたちについて誰かに話すとき、「家の近くに二匹のネコがいて」と言うのはごく普通のことだ。

その際、ネコがいることと同じ程度に、「2」という「数」に、言葉の焦点が当たる。そして、その時点では、アカとシロの違いは問題になっていない。
つまり、違うものを足し算する時、それぞれのもの自体の存在は「数」の後ろに追いやられていることになる。

アンリ・ベルクソンの『意識に直接与えられたものについての試論』(英語訳の題名『時間と自由』)を読んでいて、そうした「数」の不思議について気付かされる一節があった。

 Il ne suffit pas de dire que le nombre est une collection d’unités ; il faut ajouter que ces unités sont identiques entre elles, ou du moins qu’on les suppose identiques dès qu’on les compte. Sans doute on comptera les moutons d’un troupeau et l’on dira qu’il y en a cinquante, bien qu’ils se distinguent les uns des autres et que le berger les reconnaisse sans peine ; mais c’est que l’on convient alors de négliger leurs différences individuelles pour ne tenir compte que de leur fonction commune.
   ( Henri Bergson, Essai sur les données immédiates de la conscience, chapitre II. )

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世論の「からくり」 「みんな」を作る仕組み

2002年に出版された高橋秀実の『からくり民主主義』は、1995年から2002年までの間に日本各地で話題になった出来事を扱ったジャーナリスム的な内容を持った本。
時事的な話題を扱うジャーナリスムの宿命もあり、例えば、横山ノックのセクハラ事件やオウム真理教の問題などは、2024年にアクチュアルなテーマとはいえなくなっているために、当時のことを知らない読者にはそれほど興味がない読み物になっているかもしれない。

他方、出版後20年以上を経た時事的な本であっても参考になると思えることがある。それは一つ一つの事件に対する一貫した姿勢。それを一言で言ってしまうと、「結論がない」ということ。白黒を付けるのではなく、どのように白黒が付けられるのかという「からくり」=仕組みを明らかにしようとする姿勢だ。

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