短期的な視点の罠 — ドル円と物価高

2025年3月7日の日経新聞に”円高”という記事が見られる。

1ドル147-148円で円高という認識。実際、2024年6月には1ドル160円以上になった時期があり、2024年の平均でも152円程度だったので、それと比較すれば円高という表現は間違いではない。

しかし、視野を拡げると、1ドル147円が円高と言えるだろうか?という疑問が湧いてくる。 2015年から10年間という期間に視野を広げると、全く違う事実が見えてくる。

2015年には1ドル121円、2019年では107円平均だった。そこから見たら、147円はとてつもない円安だ。

この一覧表を見ると、2022年から円が急激に、しかも極端に安くなったことがわかる。2021年から見ると、147円は考えられない円安なのだ。

こうしたドル円の変化が物価高に直結していることを、アップル社のmacbook airを例に取って示してみよう。

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「疑う」ことの難しさ

昭和15(1940)年8月、小林秀雄は、日本が日支事変、つまり日中戦争に突入していく中で、「事変の新しさ」という記事を書き、次のように記している。

前に、事変の本当の新しさを知るのは難しいと申しました。何か在り合わせ、持ち合わせの理論なり方法なりえ、易しく事変はこういうものと解釈して安心したい、そういう心理傾向から逃れることは容易ではないと申しました。つまり疑うという事は、本当に考えてみますと、非常に難しい仕事なのであります。
      (小林秀雄「事変の新しさ」『小林秀雄全集 13』新潮社、p. 117.)

実際、自分がごく当たり前だと思うことを一端カッコに入れ、疑ってみることは、思っている以上に難しい作業だといえる。
その理由は、視野がある一点に向かうと、それだけを見て納得してしまうということがしばしばあるからだと思われる。

その例として、最近の国際情勢を見ていきたい。

アメリカがウクライナに対する軍事支援を中止する動きがトランプ大統領によって示されて以来、少なくともヨーロッパ・アメリカを中心とする世界において、平和に関する議論が変化しつつある。
そうした中で、核兵器に関する話題も取り上げられているのだが、日本とフランスで全く違った議論がなされている。

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雪合戦 Bataille de boules de neige

フランスのニュースで、日本の雪合戦が紹介されている。

Bataille de boules de neige : c’est du sport !

Cette activité va tous nous ramener en enfance. Que diriez-vous d’une bataille de boules de neige ?

Au Japon, c’est une discipline, on ne peut plus sérieuse, réservée aux adultes munis d’un casque. On l’appelle le “Yukigassen”.
Le but est de toucher les concurrents adverses ou de voler le drapeau de leur équipe avant la fin du temps imparti.

C’est dans les montagnes d’Hokkaido, à l’extrême du Japon que cette compétition a été inventée.

判断力を養うために — 先入観と早呑込みの危険性を意識する

SNSで流れてくる情報に容易に動かされる現代社会において、最も必要とされるのは、「判断力」の育成だといえる。たとえAIで精巧に作られた情報に接したとしても、正しく判断すれば、真偽はそれなりに推測できるはずである。

16世紀フランスの思想家ミッシェル・ド・モンテーニュは、「子どもの教育について」というエセーの中で、様々な知識に触れる必要性を説きながら、その目的は知識を通して「判断力を形成すること」だと言った。

教師は、生徒に、全てのものを濾し布に通すようにさせ、単なる権威や信用だけを頼りにしたものは、頭の中に何も残っていないようにさせてください。(中略)生徒には多様性のある判断を提示してください。生徒は、選択できるのであれば、選択するでしょう。できなければ、疑いの状態に留まるでしょう。愚か者だけが、確信し、決めてかかるのです。  (モンテーニュ『エセー』)

この言葉は、21世紀の情報社会にそのまま当てはまる。フェイクの情報や陰謀論が大量に流通し、一部の人々はそれを容易に信じ、拡散する。彼らは受け取った情報をそのまま「確信し、決めてかかる。」

では、「確信し、決めてかかる」ことなく、判断力を養うためにはどうしたらいいのだろう?

そのヒントを丸山真男の『「文明論之概略」を読む』(岩波新書)から得ることができる。
丸山は古典を読む際の注意事項として二つの項目を挙げるのだが、それこそが、判断力を養う際の基礎になる。
その二つとは、 「先入観の排除」と「早呑込みの危険性」。

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違う角度から見た世界地図

コロナが終わり、久しぶりに日本からフランスに向かった。飛行時間は14時間以上! その理由は戦争でロシア上空を飛行できないため。
座席のテレビに映る世界地図の上の飛行機の航路を見て、それを実感することになった。

私たちがしばしば目にする世界地図は日本が真ん中にあるものか、あるいはヨーロッパ中心のもの。それに対して、KIXからParisに向かう航路が描かれたこの世界地図は、全く異なる角度から世界を見せてくれる。

そして、そのことは、ロシアとウクライナの戦争だけではなく、それを巡る考え方にも異なった視点をサジェストしてくれる。

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大和心と相対主義 本居宣長 vs 上田秋成 日の神論争

同じ出発点に立っても、正反対の考えに進むことがある。
それが世界における日本のあり方という問題に関わると、国論を二分するような議論が生まれることもある。

江戸時代の後半にさしかかった18世紀の末頃、古代から続いてきた大陸文化の影響の他に、ポルトガルやオランダといった西欧文化との接触を通して、日本古来の土着的世界観、つまり、仏教や儒教の影響を受けない日本独自の世界観を解明しようとする動きが出てきた。

その中心となったのは、本居宣長(もとおり のりなが:1730-1801)。
宣長は、『古事記』や『源氏物語』などの語学的研究を通して、日本固有の世界観は日常的な感覚に密着したもの、つまり「人の情(こころ)のありのまま」であり、「大和心」は、外来の「漢意(からごころ)」とは異なるものであると考えた。

『雨月物語』の作者である上田秋成(うえだ あきなり:1734-1809)も、日本は他の国とは違うという認識を本居宣長と共有していた。

その二人が、1786年頃に論争することになる。「日の神論争」と呼ばれるその議論の争点は、「違いに対してどのような姿勢を取るのか?」ということだった。
本居宣長は日本の特異性を優越性につなげ、上田秋成は相対主義的な思考へと進む。

私たちは、二人のうちのどちらが正しいのかという視点ではなく、どちらに賛同するかという視点を取ることで、自分自身の感受性、思考の型、世界観を知ることになる。

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アルベール・カミュ 愛と中庸の作家 3/3 「反抗」をめぐって 『ペスト』 『正義の人々』 『反抗的人間』

(3)「反抗」と「中庸」

「不条理」はあくまでも個人の問題だったが、「反抗」では集団内での連帯へと問題が移行する。

『ペスト』は、パンデミックに襲われた町の中で、医師のリユーを中心に、様々な人々がペストと戦う。その姿は、社会から孤立した異邦人ムルソーとは違っている。

『正義の人々』は、帝政ロシアにおけるテロリズムをテーマとした戯曲だが、暗殺を実行するカリャーエフを含むテロリスト・グループに焦点が当てられている。
『カリギュラ』の主役は暗殺されるローマ皇帝カリギュラであり、暗殺する家臣たちの連帯に光が当てられてはいない。
その対比は、「不条理」が個人の問題あり、「反抗」が連帯を問題にしていることを、はっきりと示している。

『反抗的人間』の中で、カミュは、デカルトの「我思う、故に我在り」をもじり、こんな表現を使う。

我反抗す、故に我ら在り

反抗するのは「我」、つまり個人なのだが、反抗することで存在するのは「我ら」、つまり複数の人間になる。

では、「反抗」がなぜ連帯につながるのか? そして、「反抗」とは何に対する反抗なのか? 

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アルベール・カミュ 愛と中庸の作家 2/3 「不条理」をめぐって  『異邦人』 『カリギュラ』 『シーシュポスの神話』

(2)不条理な生

アルベール・カミュの作品にはしばしば「不条理」というレッテルが貼られる。そこで、不条理とは何かを調べてみるのだが、説明が抽象的で、ピンとこないことが多い。

ある辞書の定義では、「事柄の道筋が立たないこと」と簡潔に記され、「人生の不条理」という例が挙げられている。

哲学の用語としては、「世界に意味を見いだそうとする人間の努力は最終的に失敗せざるをえない。そのような意味は少なくとも人間にとっては存在しないからである。この意味での不条理は、論理的に不可能というよりも人間にとって不可能」といった言葉で説明される。

カミュが不条理について哲学的に考察した『シーシュポスの神話』でも、「この世界自体は合理的なものではない。不条理というのは、不合理なことと明晰さを求める激しい欲望との対立である。その欲望の訴えかける声が、人間の最も深い部分で鳴り響いている。不合理であることと明晰を求める欲望の間のズレが大きくなるほど、不条理は大きくなる。」といった説明がなされている。

これらの説明では「不条理」という言葉が何を意味しているのかはっきりしないし、私たちにとってどのような意味があるのかもわからない。

そこで、もう少し具体的に考えてみよう。
例えば、理性や人間性の不合理を追求したカミュの代表作とされる『異邦人』において、主人公ムルソーは、母の死に無関心なように見え、明確な動機もなく殺人を犯し、裁判で死刑を宣告されながら幸福であると感じる。
では、ムルソーの行為や感情が「馬鹿げたこと」=「不条理」なのだろうか? もしそうではないとすると、何が「不条理」なのだろう?

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アルベール・カミュ 愛と中庸の作家 1/3

アルベール・カミュは日本で最もよく知られるフランスの作家の一人。
代表作である『異邦人』は、主人公ムルソーが母の死の知らせを受けても際だった反応を示さず、殺人を犯してもその理由を「太陽のせいだ」としか言わないといったことから、「不条理」を強く印象付ける。

コロナウイルスが蔓延した際には、疫病との戦いをテーマにした『ペスト』が話題になった。そこでは、ほとんど抵抗できないような圧倒的な力に対して、個人個人が連帯して「反抗」する姿が、ルポルタージュ風のタッチで描かれている。

「不条理」と「反抗」というテーマについては、『シーシュポスの神話』と『反抗的人間』という哲学的エセーの中でカミュの思索が幅広く展開されている。

こうしたカミュの作品群の根底に流れ続けているのは、「愛」だといえる。
「愛」が個人の「自由」を保証すると同時に、他者に対する無制限な「自由」を押しとどめる「中庸」を発動させる源泉ともなる。
カミュは、実存主義哲学のレッテルを貼られることを拒絶し、常に独自の立場を取ろうとした。そのことも、「愛」に由来する姿勢だと考えていいだろう。
哲学的な主張に固執するのではなく、地中海の海と太陽を愛し、母を初めとする身近な人を愛す。その姿勢が世界を愛し、人類を愛することにもつながる。
一見抽象的に思われる「不条理」と「反抗」も、「愛」に導かれる意識のあり方だと考えると、カミュの作品をより身近に感じることができる。

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人類の起源 日本人の起源 ゲノムで解明

人類の起源、日本に住む人々の起源を、ゲノムを通して解明する研究について、非常に興味深いビデオ。
篠田謙一の純粋に科学的な視点は、学問の進歩がエキサイティングな知的好奇心を掻き立てるものだということを教えてくれると同時に、日本人の起源に関する奇妙な先入観を取り除いてくれる。