言葉で伝えることの難しさ — 選挙や財政政策について考える

長い間、同業者の間でしか通じない言葉を使い続けてきたために、多くの人々に自分の言葉を伝えることの難しさを、日々痛感している。
論理的な整合性を重視し、主張を正当化するために論点を積み重ね、具体的な例を取り上げて分析し、結論を導き出すことで説得力を持たせることを目指してきた。こうした論の展開では、どうしても文章は長くなってしまう。
しかも、正確さを期そうとすればするほど、面白みは失われ、退屈なものになりがちである。

しかし、SNSの時代においては、一般書であっても一読してさっと理解できることが、読者を獲得するための最低限の条件となっている。分かりやすくなければ、読まれないのである。

とここまで書いてきて、既に文字数はすでに300字を超えている。すでに長く、言いたいことは何?と感じられるだろう。

で、何を言いたいのかと言えば、「言葉を読むことの難しさ」ということだ。
ここでは、(1)選挙、(2)積極財政と消費税、という二つの点について書いてみよう。

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土佐・桂浜で坂本龍馬像を前にして 「日本の夜明け」について考えた

高知に行けば、桂浜に行く。桂浜に行けば、龍馬の像を見上げる。たいていの人が、たぶん、そうなる。

いまの日本で坂本龍馬は、よく知られ、よく愛されている。薩摩と長州を結び、幕府を倒す流れに関わった人物であり、しかも明治維新の直前に暗殺されて、あっけなく人生が途切れる。史実だけでも十分に劇的だ。
けれど、人気の芯は別のところにあるのかもしれない。司馬遼太郎の『竜馬がゆく』で語られる「たとえどぶの中でも前向きに倒れて死ね」のような言葉や、「日本の夜明けぜよ」といった台詞のイメージが、彼の輪郭をいっそう明るく照らしている。龍馬はいつしか、前向きに生きることの代名詞になった。

そんなことを思いながら、桂浜の空を背にして立つ像の前に立った。潮の匂いと風の音のなかで、どうでもよさそうで、しかし一度浮かぶと消えない疑問がよぎった。
明治維新は、本当に日本の「夜明け」だったのだろうか。もし夜明けなら、その前の江戸時代は「闇」だったのだろうか。

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Sainte-Beuve Les Rayons jaunes サント・ブーヴ 韻文詩「黄色い光線」 4/4

孤独と死への思いを具体的なイメージとして夢想したことを終点として、自分の内面を見つめる場面は終わりを迎え、意識は外に向く。夜が来たことに気づき、そして、部屋から下に降り、通りに溢れる群衆の中へと入って行く。

— Ainsi va ma pensée, et la nuit est venue ;
Je descends, et bientôt dans la foule inconnue
J’ai noyé mon chagrin :
Plus d’un bras me coudoie ; on entre à la guinguette,
On sort du cabaret ; l’invalide en goguette
Chevrote un gai refrain.

(朗読は5分18秒から)

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Sainte-Beuve Les Rayons jaunes サント・ブーヴ 韻文詩「黄色い光線」 3/4

愛しい伯母の死が語られた後、思いは母へとつながっていく。母はまだ生きており、「ぼく」を愛してくれている。しかしすぐに、彼女もまた、いつかは死んでいく存在であるという未来へと、連想は進んでいく。

Elle m’aimait pourtant… ; et ma mère aussi m’aime,
Et ma mère à son tour mourra ; bientôt moi-même
Dans le jaune linceul
Je l’ensevelirai ; je clouerai sous la lame
Ce corps flétri, mais cher, ce reste de mon âme ;
Alors je serai seul ;

(朗読は3分9秒から)

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フランス人女性歌手(?)

これまで耳にしたことのなかったフランスの女性歌手を、YouTubeでたまたま聴いた。名前も経歴もよく知らないまま、ただ曲だけが流れてくる。それぞれに雰囲気があって、声の質も、歌い方も少しずつ違う。

最初に見つけたのは、Camille Brise(カミーユ・ブリーズ)。

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Sainte-Beuve Les Rayons jaunes サント・ブーヴ 韻文詩「黄色い光線」 2/4

子ども時代の教会の思い出は、まず祈りの場面から始まり、そこから伯母の死へと連想がつながっていく。

Oh ! qui dans une église, à genoux sur la pierre,
N’a bien souvent, le soir, déposé sa prière,
Comme un grain pur de sel ?
Qui n’a du crucifix baisé le jaune ivoire ?
Qui n’a de l’Homme-Dieu lu la sublime histoire
Dans un jaune missel ?

(朗読は25秒から)

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Sainte-Beuve Les Rayons jaunes サント・ブーヴ 韻文詩「黄色い光線」 1/4

日本は言うまでもなく、フランス本国においてさえ、フランス・ロマン主義文学に親しむ人は今ではごく少数になっている。サント・ブーヴ(Sainte-Beuve)の詩を読む人となると、なおさら少ないだろう。
そうした中で、彼の代表的な韻文詩の一つとはいえ、なぜ「黄色い光線(Les Rayons jaunes)」を取り上げるのかと、少し意外に思われるかもしれない。

今回この詩を取り上げるのは、その主題である「黄色(jaune)」という色が、現代人の心の動きとどこかで重なって見えるからだ。
ネット社会の中で、私たちは日々、多くの情報に囲まれて過ごしている。その流れに身を任せながら、ときどき理由もよく分からないまま、ふと気持ちが沈むことがある。何かを信じたいと思いながら、どこかで信じきれない気持ちが残る。楽しい時間を過ごしているはずなのに、それをあらかじめ「思い出作り」と言葉にしてしまう。そうした感覚に、心当たりのある人も少なくないのではないだろうか。

「黄色い光線」は一八二九年に発表された詩で、今からおよそ二百年前の作品である。それでも、この詩には、時代を超えて今の日本人の感覚にそっと触れてくる何かがあるように思われる。

そのことは、詩の冒頭に置かれたエピグラフからも感じ取れる。そこには、古代ローマの詩人ルクレティウスの『物の本質について』から、「さらに、あらゆるものは陰鬱で不気味な様相を帯びてくる」という一節が引かれている。
この言葉は、サント・ブーヴの詩の世界に静かな陰影を与えると同時に、読む側の心にもゆっくりと染み込んでくるように思われる。

また、せっかくフランス語で詩を読むのだから、その形式にも目を向けておきたい。
一つの詩節は六行からなり、最初の二行は十二音節、三行目は六音節である。続く三行も同様に、十二音節の二行と六音節の一行が反復される。
韻の構成は、最初の二行が平韻(AA)で、次の四行は抱擁韻(BCCB)となっている。
このように形式が非常に整っているので、フランス語詩特有の音とリズムの美しさを感じ取ることができる。

Les Rayons jaunes

Les dimanches d’été, le soir, vers les six heures,
Quand le peuple empressé déserte ses demeures
Et va s’ébattre aux champs,
Ma persienne fermée, assis à ma fenêtre,
Je regarde d’en haut passer et disparaître
Joyeux bourgeois, marchands,

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言葉と沈黙の余韻 仏教、荘子の言語観と和歌・俳句 3/3

(2)日本文学の中の言葉

「言葉には届かない領域がある」という言語観を、荘子と仏教の公案を通して確かめてきたが、ここからは、その意識が、理論や説話ではなく、和歌や俳句といった言語芸術によってどのように表現されてきたのかを、簡単に見ていこう。

和歌の場合は三十一音、俳句ではわずか十七音によって、言葉の直接的な意味だけではとうてい表現不可能な世界が浮かび上がる。そこでは、言葉は常に意味を超えたものを思わせ、「そこにあるもの」から、その奥にひっそりとたたずむ何かを呼び起こす。

その代表的な例の一つとして、まずは藤原定家のよく知られた和歌を読んでみよう。

見渡せば 花も紅葉も なかりけり 
浦の苫屋(とまや)の 秋の夕暮
(『新古今和歌集』秋上・363)

秋の夕暮れ、浜辺に立ち、ぐるりとあたりを見渡しても、美しい花も紅葉した木々もない。目に入ってくるのは、浦に建つ漁民の粗末な苫屋だけである。
和歌の意味するところを散文で言い表せば、そのような寂しく殺風景な情景への言及にすぎない。

しかし、それにもかかわらず、この和歌は日本的な美の表現としてしばしば取り上げられ、現代の私たちの感性にも強く訴えかける力を持っている。

その一つの鍵は、「なかりけり」という言葉にある。
この語が存在を否定することによって、かえってその侘しく寂しい光景の中に、存在しないはずの花と紅葉が一瞬、心に描き出される。

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言葉と沈黙の余韻 仏教、荘子の言語観と和歌・俳句 2/3

C. 禅の公案 「世尊拈花(せそんねんげ」)」

禅宗ではしばしば「不立文字」という言葉が用いられる。これは、悟りの境地や真理が、文字や言葉による説明に還元しきれないところにあるとする考え方である。言葉によって伝え尽くすことのできないものを、あえて言葉で示そうとするとき、その言葉は必然的に、論理的には把握しにくい、あるいは一見すると意味不明なものとならざるをえない。

そうした禅の言語観を象徴的に表現する説話として知られているのが、『無門関(むもんかん)』に収められている「世尊拈花(せそんねんげ)」である。
これは初期仏典に見られる挿話ではなく、中国禅宗の成立過程において形成された後代の説話であるが、禅が言葉と悟りの関係をどのように理解してきたかを端的に示すものとして、大きな意味をもっている。

昔、お釈迦さまが霊鷲山(りょうじゅせん)で、多くの弟子たちが集まる法会の席におられた。そのとき、お釈迦さまは何も語らず、ただ一輪の花を手に取り、皆に示された。
弟子たちは、だれ一人としてその意味が分からず、黙したままだった。ただ一人、迦葉尊者(かしょうそんじゃ)、すなわち摩訶迦葉(まかかしょう)だけが、にっこりと微笑んだ。
すると、お釈迦さまは言われた。
「私は、言葉に頼らずに真理を見抜く眼である正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)、静かで深い悟りの心である涅槃妙心(ねはんみょうしん)、形をもたない真実のあり方である実相無相(じっそうむそう)、きわめて奥深い真理の教えである微妙の法(みみょうのほう)を持っている。これは、文字や言葉によって立てられる教えではなく、不立文字と呼ばれるものであり、教えの外で直接に伝えられる教外別伝である。私はこれを、摩訶迦葉(まかかしょう)に託す。」
(『無門関(むもんかん)』第六則)

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言葉と沈黙の余韻 仏教、荘子の言語観と和歌・俳句 1/3

現代の日本では、「言葉にしなければ自分の意志を相手に伝えられない」と言われることが多い。コミュニケーションが苦手な人の特徴として、「自分の意見をうまく言語化できない」といったことも挙げられる。

しかし一方で、「言わぬが花」という考え方や、「言わなくても分かる関係」が親密さの一つの指標になると感じられる場合もある。
仏教に由来する「以心伝心」や「阿吽の呼吸」といった言葉が、今も日本文化の中に息づいていることも確かである。

こうした相反する言語観を同時に抱えている現代の日本人には、「言わなくてもこれくらい分かるだろう」と「言わなければ分からない」との間で齟齬が生じることがある。「そこまで言わなくてもいいのに」と思うこともあれば、「もっと言ってほしかった」と感じることもあるだろう。

こうした状況にいるとき、これまでの日本文化の伝統の中で、言葉がどのように考えられ、どのように使われ、何を表現してきたのかを知ることは、現代の私たちが言葉について考えるうえでも有用である。

ここではまず、私たちの文化の根底に流れる仏教や荘子の言語観を考察し、ついで、そうした考え方が日本においては和歌や俳句といった言語芸術によって、いかに具体的に表現されてきたかを見ていくことにしよう。

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