マルクス・ガブリエル 「新実存主義」 われわれはある人格になりたいと望み、またそう望むことでその人格へと変わっていく 

1980年生まれの哲学者マルクス・ガブリエルの『新実存主義』(廣瀬覚訳、岩波新書)は、サルトルの実存主義と同様に、「意識」を人間の中心に置き、人間とはどのような存在であるかを解き明かそうとする試みとして読むことができる。

マルクス・ガブリエルは、日本の出版界やマスメディアで、” 哲学のロックスター”とか “天才哲学者 “というレッテルで紹介され、世界的なベストセラーといわれる『なぜ世界は存在しないのか』は日本でもかなり売れたらしい。

ただし、哲学書を読むと常に感じることだが、専門用語が多く使われ、一般の読者にはあまり分かりやすいものではない。これまでの哲学の歴史を踏まえ、マルクス・ガブリエルの場合であれば、唯物論的な科学主義を仮想敵として前提にした上で、自説を展開する。そのために、なかなか要旨を掴むことができない。

 新実存主義が掲げる根本の主張は次のようなものである。(中略)われわれは、物理的法則が支配する無生物と、生物的パラメーター によって突き動かされる動物であふれた世界にただ溶け込んで生きているのではない。人間のそうした特異なあり方をさまざまなかたちで説明できるのが心的語彙であり、その説明能力をもつかぎりで心的語彙はひとつのグループとしてとらえることができる。
       (マルクス・ガブリエル『新実存主義』、p. 16-17.)

この文章を読んでも、新実存主義の主張は分かりずらい。
「生物的パラメーター 」や「心的語彙」といった用語が何を意味するのかよく分からないし、「動物であふれた世界にただ溶け込んで生きているのではない」という表現も、何を意味しているのかはっきりしない。

ここでは、新実存主義(Neo-existentialism)という用語に注目し、人間という「存在(実存:existence)」についてマルクス・ガブリエルがどのように捉えているのか、そして彼の人間観が私たちに何をもたらしうるのか、具体的な例にそって考えてみたい。

続きを読む

ジャン・ポール・サルトル 実存の文学 4/4 『出口なし』 地獄とは他者

(3)「地獄とは”他者たち”」 — 『出口なし』

サルトルにとって、人間とは「自由であることを常に余儀なくされている」存在である。
その一方で、社会の中で常に他者と関係しながら生きざるをえないことも否定できない。
その両面性を考えると、人間は自由であるが、同時に、他者の視線を感じ、他者に裁かれる存在でもある。

A. 他者の視線

サルトルは、『存在と無』の他者存在について論じる部分で、恥ずかしさの感情を取り上げ、自意識と他者の存在の関係について論じている。

何か不器用だったり、下品な振る舞いをしたとする。すると、その行為が私に貼り付く。私はそれを判断することも、批判することもない。単にそれを生きるだけだ。その実現は、「私に対して」というやり方でなされる。しかし、突然、私は顔を上げる。誰かがそこにいて、私を見ていた。と、突然、自分の行為の下品さを理解し、恥ずかしさを感じる。(中略)他者は、私と私自身の間の必要不可欠な仲介者なのだ。私が自分を恥ずかしいと感じるのは、他者に対してそんな風に見えるようになのだ。
           (ジャン・ポール・サルトル『存在と無』)

この一節は、サルトルの実存主義哲学の3つのポイントを教えてくれる。

続きを読む

ジャン・ポール・サルトル 実存の文学 3/4 『嘔吐』 『壁』

サルトルの文学作品は、「実存」をベースにして、そこから派生する側面に焦点を当てたものである。
代表作『嘔吐』では、「意識は常に何かの意識」であることを前提にして、意識の対象となるものに対する問いかけが行われる。
戯曲『蠅』では「自由」がテーマとして取り上げられる。意識と対象との関係は必然的ではなく、その都度「自由」に結ばれる。従って、人間には「自由」があるが、しかし、「自由」を強いられる存在でもある。
戯曲『出口なし』では「他者」が問題となる。意識の対象となる「何か」の中でも、「他者」は特別な存在であり、「地獄とは他人のことだ」という言葉が発せられる。

このように、具体的な状況を設定し、「実存」に様々な角度からアプローチすることで、サルトルは実存主義の世界観を描き出した。

続きを読む

ジャン・ポール・サルトル 実存の文学 2/4 意識は常に何かの意識 無意識は存在しない

サルトルの哲学や文学を理解するために「実存主義」について調べてみても、特殊な言葉で説明されているために、よく分からないことが多い。

人間の実存、つまり理性や科学によって明らかにされるような事物存在とは違って、理性ではとらえられない人間の独自のあり方を認め、人間を事物存在と同視してしまうような自己疎外を自覚し、自己疎外から解放する自由の道を発見していこうとする立場をいう。

事物存在、人間独自のあり方、自己疎外といった用語が組み合わされているこの定義も、分かる人にだけ分かるといった類のものではないだろうか。

ここではもう少し具体的にサルトルの思考に寄り添い、「実存」という言葉を使うことで、サルトルが私たちに何を訴えかけようとしたのか考えてみよう。

(1)意識は常に何かの意識

私たちは、一匹の猿を見ればそれが猿だと分かる。そしてそれがごく自然なことだと思っている。
しかし、よく考えてみると、猿だと分かるためには、「猿」とは何かを予め知っている必要がある。予め知識がなければ、それが何かは分からない。
そのことに気付くと、私たちが「現実」として捉えるものは、「猿」とか「人間」などの言葉でレッテル付けされていることが分かってくる。

続きを読む

ジャン・ポール・サルトル 実存の文学 1/4 実存は本質に先立つ

ジャン・ポール・サルトル(1905-1980)は実存主義という思想を骨子として、哲学、小説、演劇、評論と多方面に渡る執筆活動を行い、政治にも積極的に参加した。

サルトルの創作活動を考える上で重要なことは、20世紀前半のヨーロッパが戦火の中にあったという時代背景。ベル・エポックと呼ばれた華やかな時代が終わり、第一次世界大戦から第二次世界大戦へと戦争が続く中、ルネサンス以来築き上げられてきた価値観が揺らぎ、「文明」の意義が問われることになった。

1914年7月に始まる第一次世界大戦は、実質的にはドイツ・オーストリアを中心とした同盟国とイギリス・フランス・ロシアを中心とした協商国に分かれた二陣営の戦いであり、戦闘機や潜水艦など新しい兵器が出現して、参戦国全体を荒廃させる総力戦だった。
1918年11月まで4年3ヶ月続いたその大戦の後、人間の理性に対する不信に基づき、意識的な創作ではなく、無意識的に生成される創作を目指すシュルレアリスムの運動が生まれる。

サルトルはその後に続く世代だが、シュルレアリスムとは逆に無意識の存在を否定し、意識の活動を中心に置き、「実存は本質に先行する」と主張する実存主義を推進した。
その思想は1945年に終結した第二次世界大戦後になると世界的に広く受け入れられ、サルトルは20世紀における最も重要な思想家の一人と見なされることになる。

続きを読む

サルトル 『言葉』 Sartre Les Mots 事物と概念 実存主義の基礎

ジャン・ポール・サルトルの自伝的作品『言葉(Les Mots)』(1963)の中で、日本人にとってはわかりにくい一つのテーマが扱われている。
それは、目に見え、手で触れることができる現実の「事物」と、その反対に、見ることも触れることもできない「概念」という、二つの異なった認識の次元に関わる問題。

例えば、猫に関して、ここにいる「一匹の猫」は存在するが、「猫一般」、あるいは「猫という概念」は存在しないとする立場と、逆に、概念そのものが実在するという立場がある。

普通、そんな違いを日本人は考えないので、わかりにくいし、どうでもいいようにも思われる。
ところが、サルトルが自分の幼い頃の思い出として語る一つのエピソードを読むと、私たちにとっては遠い世界の思考法がクリアーに理解できてくる。

その結果、サルトルの提示した哲学の根本的な土台が、「事物」と「概念」の関係をどのように考えるかということにあることがわかり、実存主義の理解にもつながる。
さらに、その二分法になじまない日本的な思考の特色も見えてくる。


『言葉』の中には、サルトルが小さな頃からお祖父さんの書斎に置かれた多くの本に囲まれて育ったが、その中でもとりわけ「ラルース大百科事典」に大きな興味を示したという思い出を語る部分がある。

Mais le Grand Larousse me tenait lieu de tout : j’en prenais un tome au hasard, derrière le bureau, sur l’avant-dernier rayon, A-Bello, Belloc-Ch ou Ci-D, Mele-Po ou Pr-Z (ces associations de syllabes étaient devenues des noms propres qui désignaient les secteurs du savoir universel : il y avait la région Ci-D, la région Pr-Z, avec leur faune et leur flore, leurs villes, leurs grands hommes et leurs batailles) ;

ところで、私にとって、「ラルース大百科事典」が(他の本)全ての代わりになっていた。適当に一巻を手に取る。机の後ろにある棚の、下から二番目の段にある、A-Belloの巻だったり、Belloc-Chの巻、Ci-Dの巻、Mele-Proの巻、Pr-Zの巻だったりする。(それらの音の組み合わせは固有名詞となり、普遍的な知識の分野を指し示していた。Ci-Dの地区、Pr-Zの地区があり、その中に、動物相や植物相、街があり、偉人がいて、彼らの戦があった。)

続きを読む

本質的なものは目に見えない(サン=テグジュペリ)? 存在は本質に先立つ(サルトル)? 二つの世界観と絵画の表現

1910年に描かれた2枚の絵がある。

これほど違う世界観を表現している絵画が同じ年に描かれたことに、驚かないだろうか。
一方には、モンマルトルの街角が再現されている。この場所に行けば、今でもそれとわかるだろう。
もう一方は、何が描かれているのかまったく分からない。ギタリストという題名を見て人間やギターの姿を探しても、立方体の塊しか見えない。モデルになった人と出会っても、認識することは不可能である。

この対照的な2枚の絵画を参照しながら、サルトルとサン=テグジュペリによって示された二つの世界観について考えてみよう。
L’essentiel est invisible pour les yeux. (本質的なものは目に見えない。)
L’existence précède l’essence. (存在は本質に先立つ。)

続きを読む

サルトル 『嘔吐』 Jean-Paul Sartre La Nausée 存在とは何かという問い

サルトルと言えば「実存主義(existentialisme)」という哲学思想が浮かび、「実存(存在)は本質に先立つ(l’existence précède l’essence )」という表現と共に、代表的な小説として『嘔吐(La Nausée)』という題名が連想される。

そこで、『嘔吐』の読者は、まず哲学的な興味から作品にアプローチすることになるだろう。
しかし、主人公ロカンタンが日記らしきものに書くことは、「存在するとはたんにそこにあることだ。・・いたるところに無限にあり、余計なものであり、・・それは嫌悪すべきものだった。・・私は叫んだ、”なんて汚いんだ。なんて汚いんだ”。」(白井浩司訳『嘔吐』)
こんな調子が続くと、読者の頭の中は、???となってしまう。

少し頑張って、サルトルの哲学の主著『存在と無(L’Être et le Néant)』にトライして、「存在とはある。存在はそれ自体においてある。存在はそれがあるところのものである。」(松浪信三郎訳)が彼の主張だと言われても、ますます???が重なるばかり。

続きを読む