サルトル 『嘔吐』 Jean-Paul Sartre La Nausée 存在とは何かという問い

サルトルと言えば「実存主義(existentialisme)」という哲学思想が浮かび、「実存(存在)は本質に先立つ(l’existence précède l’essence )」という表現と共に、代表的な小説として『嘔吐(La Nausée)』という題名が連想される。

そこで、『嘔吐』の読者は、まず哲学的な興味から作品にアプローチすることになるだろう。
しかし、主人公ロカンタンが日記らしきものに書くことは、「存在するとはたんにそこにあることだ。・・いたるところに無限にあり、余計なものであり、・・それは嫌悪すべきものだった。・・私は叫んだ、”なんて汚いんだ。なんて汚いんだ”。」(白井浩司訳『嘔吐』)
こんな調子が続くと、読者の頭の中は、???となってしまう。

少し頑張って、サルトルの哲学の主著『存在と無(L’Être et le Néant)』にトライして、「存在とはある。存在はそれ自体においてある。存在はそれがあるところのものである。」(松浪信三郎訳)が彼の主張だと言われても、ますます???が重なるばかり。

実存主義を、人間と物体の対比から、次のように説明することもある。
ペーパーナイフが作られたのは、紙を切るという目的(本質)のためであり、その目的は、そこにあること(存在)に先立っている。
人間は目的(本質)が定められて生まれるわけではなく、まず存在し、目的は人生の中で作り出していく。つまり、存在が本質に先行する。
従って、自分の生に無限の責任を持つのと同時に、無限の可能性が開かれている。

その考え方に従い、サルトルのパートナーとして知られるシモーヌ・ド・ボーヴォワールは、『第二の性』の中で、「人は女に生まれるのではない、女になる。( On ne naît pas femme:on le devient. )」と主張したことも、よく知られている。
生まれることは、存在すること。人はそこから女(目的、本質)として自分を作り出してく。
ここでボーヴォワールは生物学的な性別ではなく、社会的な制度における性別を問題にし、存在と本質のあり方について問い直しを行っていることになる。

こうした一般的に言われていることを通して、サルトルやボーヴォワールは、一体何を問題にしているのだろうか。
あるいは、存在を問題にすることで、何を論じようとしたのだろう。

ここでは、『嘔吐』に中で最も代表的な挿話である、ブーヴィルの公園でマロニエの根を見て、ロカンタンが吐き気を催す場面を読み、実存主義が問題にしたことが何か探ってみよう。

6 heures du soir.

  Je ne peux pas dire que je me sente allégé ni content ; au contraire, ça m’écrase. Seulement mon but est atteint : je sais ce que je voulais savoir ; tout ce qui m’est arrivé depuis le mois de janvier, je l’ai compris. La Nausée ne m’a pas quitté et je ne crois pas qu’elle me quittera de sitôt ; mais je ne la subis plus, ce n’est plus une maladie ni une quinte passagère : c’est moi.

                          夕方の6時

 気持ちが軽くなったとか、満足しているとか、言うことはできない。逆に、あれがぼくを押しつぶしている。ただ、ぼくの目的は達せられた。知りたいと思ったことは知っている。1月以来ぼくに起こったことは全て理解した。「嘔吐」がぼくを離れたことはなく、これからもそんなに早くぼくから離れることはないだろう。でも、もう嘔吐を耐えることはない。それはもう病気でも、一次的な発作ではない。嘔吐はぼくそのものなのだ。

ブーヴィルの海岸で石切遊びをして以来、全ての物の存在を感じる度に、「ぼく(je)」は「嘔吐(Nausée)」に襲われてきた。
それを「病気(maladie)」だとか「一時的な発作(quinte passagère)」と思ってきた。しかし、自分の外部からやって来るものではく、嘔吐は自分自身なのだという自覚に至る。

なぜ?

Donc j’étais tout à l’heure au Jardin public. La racine du marronnier s’enfonçait dans la terre, juste au-dessous de mon banc. Je ne me rappelais plus que c’était une racine. Les mots s’étaient évanouis et, avec eux, la signification des choses, leurs modes d’emploi, les faibles repères que les hommes ont tracés à leur surface. J’étais assis, un peu voûté, la tête basse, seul en face de cette masse noire et noueuse, entièrement brute et qui me faisait peur. Et puis j’ai eu cette illumination.

 その後すぐに、ぼくは公園にいた。マロニエの根が地面に潜り込んでいた。ぼくの座っているベンチの真下だ。ぼくは、それが根だということを、もう思い出さなかった。言葉が消え去っていた。言葉と一緒に、事物の意味も、使用法も、人間が物の表面に付けた目印も、消え去っていた。ぼくは座っていた。少し背中を曲げ、頭を下げ、たった一人、ごつごつした黒い塊の正面にいた。その塊は完全に生のままで、ぼくを恐れさせた。その後、ひらめいたことがある。

この一節こそ、サルトルの思想を20世紀前半に位置づけるものだと言える。

「ぼく」は、ベンチの下の「マロニエの根(racine du marronnier)」を見ているのだが、それが「根(racine)」だとわからなくなる。
それは、奇妙なことに思われるかもしれない。しかし、実は、そうした状態こそが、人間が物を見る状態に他ならない。

そのことを理解するために、生まれたばかりの赤ん坊を思い浮かべてみよう。
赤ん坊は、目に入るものが何か知らない状態で、物を前にしている。その後から、何かの音を聞く。それが何度か繰り返されると、近づいてくるものと「ママ」という音が繋がり、いつしかそれを見ると、自分から「ママ」と言うようになる。
その時、ママが赤ん坊にとってどのような存在かも知らないし、ママがどのような意味かも知らない。
もしかすると、似ているものが近づいてきても、「ママ」と言うかもしれない。しかし、似ているものの時には、「パパ」という音がする。そして、二つの区別が付くと、片方に対して「パパ」と言うようになるかもしれない。

もう少し大きくなり、外に出て、動く何かを見る時のことを想像してみよう。
その時、「ブーブ」という音が聞こえる。次にまた同じように動くものが前を通り、また「ブーブ」という音が聞こえる。さらに、赤い色をし、大きく、長いものを乗せているものが走り過ぎる。そして、「ブーブ」という音がする。
実際に見えているものは、自家用車とバンと消防車であり、形はずいぶんと違っている。しかし、「ブーブ」という言葉の概念を掴むようになると、現実に見える形が違っていても、それぞれを自動車だと理解できるようになる。
そこで、幼児は、視覚的には随分と違う車を見ても、「ブーブ」と言えるようになる。

最初に電車を見た子供は、もしかすると「ブーブ」と言うかもしれない。確かに、動く物というカテゴリーでは、同じものに分類できる。
しかし、大人は、自動車と電車は違う乗り物であるという概念を持っているために、子供に「デンシャ」と言い直させる。

そのようにして、人間は、言語を通して事物の概念を理解し、実際には何かしら違っているものを、一定のカテゴリーに収めている。
そして、世界の概念化が終わると、一つ一つの違いを目にしながらも、概念を通して事物を見る習慣が出来上がる。

公園である物を見て、それをマロニエの根と認識する。そのことは、何かを根として概念化し、物を認識していることである。
そこでは、概念化された状態が「現実」と捉えられ、私たちが実際に体験している「生(なま):brut」の感覚が失われている。

19世紀後半、こうした現実認識に対する問い直しが行われ始めた。
そのことを最もわかりやすく示すのは、ベルグソンの時間概念だろう。
時間は、一般的には、時計で計測される物理的なものであると考えられている。その時間は、誰にでも共通する基準であり、いつでも、どこでも、誰に対しても、同一の早さで流れる。
それに対して、私たちには、もう一つの時間がある。退屈した時には長く感じ、楽しい時にはあっという間に過ぎてしまう時間。それは内的なものであり、一人一人に帰属し、共通の物差しはない。ベルグソンは、そうした時間の流れを「持続(durée)」と呼んだ。

物理的時間と内的時間の区別は、「言葉によって概念化された世界」と「生の世界」の区別と対応すると考えられる。
19世紀の後半から20世紀の半ばまで、人々の関心は、言葉によって整理されていない、現象的な「生の世界」へと向かった。
その世界は、次のような絵画からも感じ取ることができるだろう。

あるものを見て、それがマロニエの根だとわかるのは、言葉によって概念を知り、その概念を通して物を見るからである。
そして、整理された世界を生きている限り、全てをスムーズに認識でき、何の問題もない。
しかし、言葉による概念化がなされないと、何かを見てもそれが何かわからない。全てが混沌とした世界が漠然とそこにあるように感じる。
ロカンタンが「嘔吐(Nausée)」に襲われるのは、そうした時である。

世界を概念化する「言葉(mot)」が消えれば、事物の「意味(signification)」も、「使用法(mode d’emploi)」も、人間が記した「目印(repère)」も消える。世界がカオスの状態に戻る。
その時には、目に入るものは、根ではなく、「(節くれ立った黒い塊masse noire et noueuse)」でしかなくなる。もっと言えば、「塊」という言葉さえ言いすぎであり、「何か」でしかない。

そのように考えると、ロカンタンが「完全に生(entièrement brute)」の体験を恐れ、吐き気がするのも、理解できるだろう。
こう言ってよければ、彼は、ミロやダリの絵画の世界を生きている。

サルトルの哲学の言葉を使うと、「存在(existence):実存」とは、生の状態のことを指す。そして、概念化された世界が「本質(l’essence)」(=目的)と考えると、「存在が本質に先立つ」という言葉に納得できるだろう。

 Ça m’a coupé le souffle. Jamais, avant ces derniers jours, je n’avais pressenti ce que voulait dire « exister ». J’étais comme les autres, comme ceux qui se promènent au bord de la mer dans leurs habits de printemps. Je disais comme eux « la mer est verte ; ce point blanc, là-haut, c’est une mouette », mais je ne sentais pas que ça existait, que la mouette était une « mouette-existante » ; à l’ordinaire l’existence se cache. Elle est là, autour de nous, en nous, elle est nous, on ne peut pas dire deux mots sans parler d’elle et, finalement, on ne la touche pas.

 ぼくは息を飲んだ。決して、数日前までは、「存在する」という動詞が何を意味しているのか感じたことはなかった。ぼくは他の人々と同じだった。春らしい服を着、海岸を散歩する人たちのようだった。彼等と同じようにこう言っていた。「海は青い。あそこの、あの白い点は、カモメだ。」しかし、その時、それが存在するとは感じていなかった。カモメが「カモメ—存在するもの」ということを感じてはいなかった。普通、存在は隠れている。存在はそこにある。私たちの周り、私たちの内部にあり、私たち自身だ。存在について話さずに、何かを話すことはできない。結局のところ、人は存在に触れることはできない。

「ぼく」は哲学者のように、「存在する(exister)」という言葉を巡って、思索を続ける。

その前提となるのは、「XをAとして見る」という構図。
存在とはXであり、人間はその何かをAとして認識している。しかし、Xは意識化されず、Aとしてのみ認識している。
「ぼく」の体験で言えば、「ごつごつした黒い塊」を「マロニエの根」として認識している。他方、一般的には、目に入るのは最初からマロニエの根であり、黒い塊へ遡ることはない。

海岸線を歩きながら、海は青く、白い点はカモメだと口にする。その際、海の前提となる塊を意識し、それを海と見なしてるのだと考えることはない。
カモメの場合、白い点をカモメだと思うという段階では、「XをAとして見る」という構図が示されているように思われる。しかし、白い点をさらに遡り、何かを白い点として見るという認識はない。

その意味で、Xという存在はそこにありながら、「隠れている(se cacher)」。どこにでもありながら、気づかれることはない。
目に入る物を最初から「カモメ」という概念で捉え、その前提となる存在を意識化しないでいる。その意味で、「カモメ—存在するもの(mouette-existante)」を感じることはない。


さらに哲学的な思索が続く。

Quand je croyais y penser, il faut croire que je ne pensais rien, j’avais la tête vide, ou tout juste un mot dans la tête, le mot « être ». Ou alors, je pensais… comment dire? Je pensais l’appartenance, je me disais que la mer appartenait à la classe des objets verts ou que le vert faisait partie des qualités de la mer. Même quand je regardais les choses, j’étais à cent lieues de songer qu’elles existaient : elles m’apparaissaient comme un décor. Je les prenais dans mes mains, elles me servaient d’outils, je prévoyais leurs résistances. Mais tout ça se passait à la surface.

そのことを考えていると思った時には、何も考えていなかったと思う必要がある。頭がからっぽだったのか、頭の中にあるのは、「在る」という一つの言葉だけだった。その時、ぼくは考えていた・・・。どういったらいいんだろう? ぼくは所属ということを考えていた。で、こう思った。海は青色をした物の種類に属している、あるいは、緑色が海の性質の一部だ。そうした物を眺めている時でさえ、ぼくはそれらが存在していると思ってもみなかった。それらは、一つの飾りのように、ぼくには見えていた。手の中に取ると、道具として役立った。予めそれれが抵抗することは、わかっていた。しかし、そうしたことは全て、表面で起こることだった。

一般的に、フランス語の書き言葉では、同じことを言うにしても、別の単語を使う傾向にあり、同じ単語を反復することは避けるのが普通である。
しかし、サルトルはここであえてロカンタンに、「考える(penser)」という単語を何度も反復させる。
その理由は、デカルトの「我思う(考える)、故に我在り(Je pense, donc je suis.)」という近代思想の基礎的な考え方を問い直すためだった。

ここで「ぼく」が問題にしているのは、「在る(être)」ということ。デカルトは、「考える(penser)」が「在る(être)」に先行するとした。
それに対して、サルトルにとって、考えるより先に、まず「在る」がある。そこで、『存在と無』の中では、こんな風に言い直した。
Je suis, j’existe.
我在り、我存在す。

「XをAとして見る」に従えば、Xは在り、存在する。
しかし、私たちが海は青いと思う時、そこには海があり、それが青いと思ってしまう。Xではなく、Aが物そのものであり、海は海としか見えない状態にいる。
その認識の次元では、海と青(フランス語では緑le vert)の関係は切り離せないものとなり、相互的に「所属(appartenance)」している状態だと見なされる。

他の物、例えば、ナイフであれば、私たちはそれをナイフと見なし、物を切る役割を持つ「道具(outil)」だと最初から思う。
そして、「XをAとして見る」のではなく、A(ナイフ)を見ているのであるから、Xの存在はまったく意識されない。
「ぼくはそれらが存在していると思ってもみなかった(j’étais à cent lieues de songer qu’elles existaient)。」とは、Xが存在するとは夢にも思っていない、ということを意味している。

従って、物を切る道具であるナイフを見ていると思う時、私たちはAだけを捉えているのであり、Xという存在を見ず、Aという表面だけを見ている。
海は青い。カモメが飛ぶ。ナイフがある。こうした認識は全て「表層(surface)」での現象を捉えていることになる。

そうした中で、在ること、存在することは何かと問いかけると、どうなるのだろう? その問いが次に投げかけられる。

Si l’on m’avait demandé ce que c’était que l’existence, j’aurais répondu de bonne foi que ça n’était rien, tout juste une forme vide qui venait s’ajouter aux choses du dehors, sans rien changer à leur nature. Et puis voilà : tout d’un coup, c’était là, c’était clair comme le jour : l’existence s’était soudain dévoilée. Elle avait perdu son allure inoffensive de catégorie abstraite : c’était la pâte même des choses, cette racine était pétrie dans de l’existence. Ou plutôt la racine, les grilles du jardin, le banc, le gazon rare de la pelouse, tout ça s’était évanoui ; la diversité des choses, leur individualité n’étaient qu’une apparence, un vernis. Ce vernis avait fondu, il restait des masses monstrueuses et molles, en désordre — nues, d’une effrayante et obscène nudité.

もし誰かがぼくに、存在とは何かと問いかけたら、正直に、それは何でもない、空っぽの形体にすぎない、と答えただろう。その形体は、外部の物に付け加わるのだが、それらの性質を何も変えはしない。そして、次。突然、それがそこに在る。光のように明るい。突然、存在のヴェールが取り払われた。抽象的なカテゴリーの無害な様相を失っていた。それは事物の生地だった。この根は、存在の中で化石になっていた。あるいは、この根、公園の柵、ベンチ、芝生のすり減った芝、それら全てが消え去っていた。事物の多様性、それらの個別性は、一つの外観、ニスにすぎなかった。そのニスが溶けてしまい、残っているのは怪物のようで、柔らかく、混乱した塊—裸、恐ろしく卑猥な裸の塊だった。

存在とは何かという問いかけは、「XをAとして見る」のXに対する問いに他ならない。

「ぼく」はその問いに対して、「空の形体(forme vide)」であり、「裸形(nu, nudité)」だと応える。それ自体としては意味をなさず、「何でもない(rien)」。
つまり、Aとして認識されなければ、存在しないも同然であり、存在に気づいたからといって事物Aの性質が変わるわけではない。

しかし、存在それ自体と体面することになると、Xは、「怪物のようで、柔らかく、混乱した塊(masses monstrueuses et molles, en désordre)」と感じられる。
その塊は生命の濁流のようなものであり、「多様性(diversité)」も「個別性(individualité)」もない。

海やカモメ、マロニエの根、ベンチ等と認識される時には、「化石化し(pétrie)」、「表面に表れた姿、ニス(une apparence, un vernis)」を見ているにすぎない。

「ぼく」ロカンタンがマロニエの根を見て、それが何かわからなくなるとは、「存在」そのものに気づいたことを意味している。存在は、混乱し、不定形で、怪物のように途方もない塊。その塊に襲われ、「吐き気(nausée)」を催す。
それが『嘔吐』の中心的なテーマである。

Albrecht Dürer, Melancholia I

サルトルの『嘔吐』と同じように、カミュは『異邦人』の中で、ムルソーの手記を通して、「存在そのもの」と「社会的通念」、つまり「XをAと見る」の構図におけるXとAの葛藤を問題にした。
その二つの小説に実存主義というレッテルが貼られるとしたら、20世紀前半に流通していた一つの思想に基づいているという共通点があるからだろう。

他方、小説としての姿は随分と違っている。
ロカンタンは内省を繰り返し、独り言のように手記を書き進める。
ムルソーは、母の死からアラブ人を殺害するところまでの生(なま)の体験と、その体験を合理的な論理で組み立て直す裁判の場面に分け、2部構成の手記とする。

そうした類似と差異を知ることで、サルトルとカミュという二人の作家の代表作をよりよく味わうことができるだろう。

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