本質的なものは目に見えない(サン=テグジュペリ)? 存在は本質に先立つ(サルトル)? 二つの世界観と絵画の表現

1910年に描かれた2枚の絵がある。

これほど違う世界観を表現している絵画が同じ年に描かれたことに、驚かないだろうか。
一方には、モンマルトルの街角が再現されている。この場所に行けば、今でもそれとわかるだろう。
もう一方は、何が描かれているのかまったく分からない。ギタリストという題名を見て人間やギターの姿を探しても、立方体の塊しか見えない。モデルになった人と出会っても、認識することは不可能である。

この対照的な2枚の絵画を参照しながら、サルトルとサン=テグジュペリによって示された二つの世界観について考えてみよう。
L’essentiel est invisible pour les yeux. (本質的なものは目に見えない。)
L’existence précède l’essence. (存在は本質に先立つ。)

L’essentiel est invisible pour les yeux.

『星の王子さま』の翻訳で、しばしば「大切なもの」と訳される l’essentiel は、「essence(本質)」から派生した言葉。
サン=テグジュペリは、「目に見えるもの=物質的な世界」は本質的ではなく、「目には見えないもの=心で見るもの」こそが本質的だという、一つのパラドクスを提示した。

ここではまず、「目に見える世界」について考えてみよう。

私たちは普通、目で見、手で触れることができる世界こそが現実だと考えている。科学的に証明されたことであれば正しいと思う。
それが私たちが日々生きている現実であり、その世界は私たち一人一人の目から見て遠近法的に広がる像として捉えられる。

画家がその世界を描く時には、二次元のキャンバスの上に、遠近法を使って三次元に見える架空の空間を作り出す。
例えば、モンマルトルにある居酒屋Au Lapin agileとユトリロの1枚。

ユトリロの絵は、現実にある酒場の姿を、目に見えるままに、かなり忠実に再現しているように見える。
その意味では、ユトリロの描く「Au Lapin agile」は現実を模倣(imiter)したコピーだといえる。

こうした物質的な世界を前提として、サン=テグジュペリは、目に見えないものの大切さを訴える。
なぜなら、物理的な世界よりも大切なもの、言い換えると、「真実の世界」があり、その世界は「目に見えない」と考えるからである。

では、真実の世界はどのようなものと考えられるだろうか。
1)プラトンであれば、イデア界。
現実は束の間で儚い世界。イデアは永遠であり、真に実在する。
それは永遠に続く理想世界であり、天空の神々の世界ともいえる。

2)アリストレテスであれば、普遍的で一般性の世界。
具体的な現実世界は一回限りのものであり偶発的。そうした具体的な現実を抽象化し、一般的な法則としたものが真実。
実際に起こったことではなく、全ての事実を総合し、抽象化した世界。
科学的な真実は、こうした考え方に基づいている。具象的な一回一回の実験は誤差がありうる。真実性は、抽象化され、一般的な現実として、全ての事実に当てはまるものと見なされる。

3)ロマン主義的な思考では、イデア界が天空から人間の心の中に下り、心が真実の場となった。
サン=テグジュペリが、「心で見なければならない」と言う時、物理的な目に見えないものは心の中にあると言われていることになる。
物質は目に見え、心は目に見えない。真実は目に見えない心の中にある。

このように考えると、現実を模倣するタイプの芸術家たちは、単に物理的な物を再現するのではなく、再現を通して現実を超えた真実の世界の創造を目指しているのだと考えられる。

ユトリロであれば、目の前の風景を見ながら、現実を素材にして、心の目が見たモンマルトルの風景を描く。理想化を伴った再現。
実際、ユトリロの描くパリの風景は、現実のパリよりも美しい。

このように考えると、サン=テグジュペリが言う「目に見えない本質的なもの」とは、物質的世界を通して、あるいは物質的世界を超えて、人間が感じ取る非物質的な世界、あるいは心的な世界だといえるだろう。

注意したいことは、現実と超現実、物質と心といった二元論的な世界観は、21世紀の現実感覚とも共通しているということ。
だからこそ、私たちはその世界観を違和感なく受け入れることができる。

それに対して、ピカソ的な絵画の世界は現代でも違和感がある。

L’existence précède l’essence

私たちはピカソの描く絵画の世界に生きていないし、世界を彼のように見ることもない。題名が「ギタリスト」だと言われても、人間の姿が再現されているとは思えない。ギターも、ギタリストのいる場所もわからない。
ピカソは一体どんな世界観に基づいて、こうした絵画を描いたのだろう。

その問いに答えるためのヒントを、サルトルの「存在(実存)は本質に先立つ。」という有名な言葉から探ってみよう。
その際、「本質(essence)」という言葉の意味が、サン=テグジュペリの「本質的なこと」とは全く違うことに注意しなければならない。

サン=テグジュペリにとって「目に見えるもの」である現実が、サルトルにとっては「本質」の世界だと見なされる。
サン=テグジュペリは「目に見えないもの」を「本質」と見なし、サルトルは「目に見える世界」を「本質」の世界と見なす。

サルトルは「本質」をこんな風に説明する。
ペーパーナイフについて考えると、制作者は用途や目的を考えて、それを実現するために相応しい形を持ったナイフを作る。
物はただ単に存在するのではなく、必ず一定の志向性がある。ペーパーナイフであれば、本のページを切るという目的があり、それがペーパーナイフの「本質」である。

一般的に考えると、物質的な世界は全て「本質」を持ち、たとえそれが意識の表面に上ってこないにしても、必ず何らかの志向性を持っている。
私たちは、そうした世界を現実世界と見なしている。ナイフを見れば、その用途がわかる。その意味で、全ての物は目的(本質)を持っている。

サルトルは、こうした一般的な考え方に対するパラドクスとして、人間は「本質」よりも先に「存在」すると主張した。
生まれたばかりの乳児はただそこに「存在」する。予め何らかの目的があり、その実現のために存在しているわけではない。
「本質」は、一人一人の人間が自由な意志で選択し、自分で作り出すもの。最初に「存在」があり、次に「本質」が生まれる。
つまり、「存在が本質に先立つ」。

この思考の中で、一般的に考えられる現実世界、つまり本質を伴った世界は、私たちが普通に捉える世界であり、絵画的に描けば、三次元の世界になる。

Georges de la Tour, La Madeleine aux deux flammes

ロウソクは闇を照らす物、鏡は人や物を映す物という「本質」があるからこそ、この絵画の中に描かれ、「存在」している。

私たちは現在でもそうした物の見方を当たり前と考え、自然に受け入れているのだが、実は、19世紀の後半、哲学や芸術において、そうした見方に疑問が出された。
そこで問題になったのは、「ロウソクを見てロウソクだと思う」という当たり前の認識が、概念(本質)を通して物を見ることであり、その物自体の個別性を見失わせる、ということである。

ラ・トゥールの絵画の中で、光を放つある物を見てロウソクだと認識する。そのロウソクが鏡だと認識される物に映り、ロウソクの映像となる。
そうした認識をした瞬間、その物自体の個別の形や炎のゆらめきなど、その場のその瞬間にしか存在しない個別的な姿を、意識の奥に押しやってしまう。
ロウソクという一般的な概念で物を把握するという自然な認識が、物の個別性、もっと言えば、その物の生命感を失わせてしまう。

そのことは、ベルクソンの時間/持続論を取り上げると、比較的容易に理解できるだろう。
私たちは「時間(temps)」を知る時に時計を見る。その際には、分、秒など、時間が一つの単位によって区切られ、点(時点)として捉えられる。そして、その点の連続が時間の流れになる。
つまり、点の集合が時間だと一般的には思われている。

しかし、どんなに点を小さくしても繋いでも決して線にはならない。必ず切れ目がある。
しかし、生命には切れ目がない。生命はずっと続く流れである。ベルクソンがそれ、「持続(durée)」と呼んだ。
ある意味で、それは永遠の「今」だともいえる。
点的な時間意識で考えると、「今」と言った瞬間に今はすでになく、過去になっている。「今」を捉えることはできない。
しかし、人間は「今」この瞬間しか生きることができない。そして、その「今」が途切れることなく続いている。

このように考えると、計量化された時間には、生命感が欠けていることがわかってくる。
私たちが生きている時間は、時計で計ることはできない。逆に言えば、時計の時間は、生きる時間を概念化したものだということになる。

サルトルに戻れば、「本質」の世界は、時間が計量化され、物が概念を通して見られる世界だといえる。
そして、彼は、「本質」に対して、「存在」を提示した。

私たちの日常的な認識では、ペーパーナイフは本のページを切るという目的=本質を持っていると見なされる。その場合、ナイフが存在する価値は「切ること」であり、一本一本の存在それ自体の価値は問題にされない。

それに対して、人間が生まれた時にはただ「存在」しているだけで、生きる意味とか人生の目的は、後から作り出すことになる。
そのように考えると、「存在」とは「生きていること自体」であり、個人個人の生命そのものに他ならない。

そうした視点に立つ時には、切るという全てのナイフに共通する「本質」は、具体的な生命を欠いた概念にすぎないということになる。
私たちは一般的に、そうした概念を通して世界を見、世界と接している。そして、三次元の空間に基づいて見える世界は、志向性をもった概念化された世界の像だといえる。
そこには生命の脈動はない。

それに対して、サルトルは、「存在=生命」が「本質=概念化された世界」に先立つと主張した。つまり、生命の脈動に目を向ける思考といってもいいだろう。

絵画においては、画家一人一人の生命の動きが反映した映像が、生命の脈動する「存在」の表現となる。

どの映像も「本質」を表現していない。何かを表現するのではなく、そこに「存在」している。
そうした世界は、三次元空間や物理的な原理によって成り立ってはいない。
現実だと思われる世界を再現しているのではなく、一人一人の画家の生の動きが表現されているといってもいい。
つまり、「存在が本質に先立っている」。

サン・テグジュペリの世界観は、目に見える物質世界を現実と見なし、それを超越した次元(目に見えないもの)に価値を置くものだった。
その考え方は、ルネサンスの時代から19世紀前半までの芸術において主流を占めていた。
また、一般的には、現代に生きる私たちも同様の考え方をしている。
だからこそ、私たちはユトリロの絵に違和感を抱かず、美しいと思う。

サルトルの世界観は、ナイフを見ればナイフだと自然に思ってしまうことへの問いかけをベースにしている。ペーパーナイフは紙を切るという「本質」を持つ以前に、ただ「存在」している。
もう一本のペーパーナイフとは違う何かであり、一つ一つは単独で個別のものである。
こうした考え方は、19世紀後半以降、哲学や芸術の分野で大きな役割を果たしてきた。
ピカソの絵が何を描いているのか分からないのは、画家が単独の世界像を描いているからである。それが魅力的なのは、ピカソの生の脈動を直感できた時だろう。


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