日本人の神(カミ)とは 3/3

日本人の神とはどのような存在なのか、ここでは、複数性、姿形、霊力という3つの点を通して、検討していくことにする。

(1)八百万の神々

日本の神々は、無限に存在するといっていいほど数が多い。しかも、それらの神々には明確な序列があるわけではなく、神々全体を統一し支配するような超越神も存在しない。

古代だけでなく現代においても、私たちはどこかで、自然そのものが神であるかのように感じているのではないだろうか。
「雷神」や「風神」といった表現にも違和感はなく、少し前までであれば、「道の神(道祖神)」や「竈(かまど)の神」も身近な存在だった。

さらに今でも、私たちはどこにでも、何にでも神の気配を感じ、思わず手を合わせることがある。
山中の岩の窪みに供え物をし、古い巨木には注連縄(しめなわ)を張り、海中で並び合う二つの岩を「夫婦岩」と名づけ、漠然とではあるが信仰の対象としている。
三輪山、沖ノ島、那智の滝のように、特定の山や島、滝そのものが「ご神体」として崇められることもある。

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日本人の神(カミ)とは 2/3

(2)神と人との交わり

神は、目で見ることも、声を聞くことも、触れることもできない。物理的に存在しないため、科学的な実験によってその存在を確かめることはできない。しかし、信仰を持たず、神を信じていないと思っていても、私たちはどこかで神に向かって何らかの行為をし、何かを期待していることがある。

このような神とのやり取りは、私たちにとってあまりにも当たり前になっていて気づきにくい。だが、キリスト教と比較してみると、一般的な日本人が神という存在とどのように接しているかが、よりはっきりと見えてくる。

i. キリスト教:契約

キリスト教においては、神と人間の間に結ばれる「契約(covenant)」が重要な意味を持っている。
すでに見てきたように、キリスト教において神は唯一の創造主であり、人間の上に立つ絶対的な存在である。そして、その神が人間との間に「契約」を結ぶ。

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日本人の神(カミ)とは 1/3

日本人にとって神(カミ)とは、どのような存在なのだろうか。

現代の私たちは、神と仏をほとんど区別せず、お寺でも神社でも手を合わせるし、キリスト教の教会やイスラム教のモスクに行っても、それぞれの場のしきたりや雰囲気に合わせて行動する。そうしたとき、何に対して祈っているのかを明確に意識することはあまりなく、お寺や神社、教会、モスクの神々を本当に信仰しているわけでもないだろう。

キリスト教やイスラム教では、神は唯一の絶対的存在であり、他の神の存在を認めることはない。それに対して、私たちはどのような神様も否定せず、特定の信仰対象とすることもなく、ただ「何となく拝む」ことに抵抗がない。

こうしたことは、善悪の問題ではなく、日本という土地で生まれ育った人間が、ごく自然に取ってきた行動にすぎない。そして、その行動の根底には、日本人が「神」という存在に対して抱いてきた、独特の感覚や意識があるのではないだろうか。

日本人にとって神とは、どのような存在なのか。それを知りたいと思うのは、そうした日本人の心のあり方を探ろうとする思いから生まれてくるのだ。

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デカルト 神の存在 『方法序説』第4章 Descartes Discours de la méthode chapitre 4 Dieu existe

ルネ・デカルト(René Descartes, 1596-1650)は、人間の本質に理性を置き、合理主義の思考の基礎を築いた哲学者と考えられることが多い。

1637年に出版された『方法序説(Discours de la méthode)』の有名な言葉「我思う、故に我在り(Je pense, donc je suis.)」は、全ての人間には良識(bon sens)=理性(raison)が備わり、それに導かれることで真理(vérité)に到達できることを原則として思想の表現として、21世紀の現在でもよく知られている。

ところが、『方法序説』の第4章において、デカルトが、真理を保証するものとして「神(Dieu)」の存在を持ち出していることは、比較的忘れられている。
そこで、ここでは、デカルトが神についてどのような考察をし、神の存在を証明し、神が存在することがどのような意味を持つと考えたのか、探ってみることにしよう。

ただし、17世紀前半のフランス語は現在のフランス語とそれほどの違いがないとはいえるが、しかし、表現の仕方などで違いもある。例えば、動詞と代名詞の位置、構文の複雑さ、接続法の多用など。
そこで、フランス語自体の説明もやや詳しくするために、記述がかなり煩雑になってしまうことを予め断っていきたい。

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ヴィクトル・ユゴー 「エクスターズ」 『東方詩集』 Victor Hugo « Extase »  Les Orientales 

1802年に生まれ1885年に83歳で死んだヴィクトル・ユゴーが、フランス・ロマン主義文学の中心であったことに異論の余地はない。
1820年代にはすでにロマン主義を先導する詩人、劇作家だった。
また、現在でもよく知られている『ノートル・ダム・ド・パリ』や『レ・ミゼラブル』の作者でもある。

そうしたユゴーの創作活動は、簡潔にまとめるにはあまりにも膨大であるが、ここでは1829年に出版された『東方詩集(Les Orientales)』に収録された「エクスターズ(Extase)」を読み、ユゴーの詩の本質がどこにあるのか考えみよう。

最初の出版物である『オード集(Odes et Poésies diverses)』(1822)の「序文(Préface)」には、次のような一節が見られる。

 Au reste, le domaine de la poésie est illimité. Sous le monde réel, il existe un monde idéal, qui se montre resplendissant à l’œil de ceux que des méditations graves ont accoutumés à voir dans les choses plus que les choses.

詩の領域は果てしない。現実世界の下には、理想の世界がある。その理想の世界は、大切なことをずっと瞑想し、事物の中に事物を超えたものが見えている人々の目には、光輝いた姿を現している。

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