マラルメ 「エロディアード 舞台」 Mallarmé « Hérodiade Scène » 言語と自己の美的探求 3/7

Filippo Lippi, Fête de Herode

8行目の詩句の最後の4音節は、次の行に移る。
芝居のセリフではよくあるが、マラルメはその技法によって、« Par quel attrait »というキーになる詩句を、目に見える形で強調する。

Par quel attrait
Menée et quel matin oublié des prophètes
Verse, sur les lointains mourants, ses tristes fêtes,
Le sais-je ? tu m’as vue, ô nourrice d’hiver,
Sous la lourde prison de pierres et de fer
Où de mes vieux lions traînent les siècles fauves
Entrer, et je marchais, fatale, les mains sauves,
Dans le parfum désert de ces anciens rois :
Mais encore as-tu vu quels furent mes effrois ?

                  いかなる不思議な力によって、
私は導かれているのでしょうか。予言者たちのいかなる忘れられた朝が、
その朝の悲しい宴を、遠い死者たちに、注ぐのでしょうか。
私がそれを知るというのでしょうか。お前は私を見ましたね、冬の乳母よ、
石と鉄でできた重い牢獄の下、
年老いたライオンたちが、獣の色をした長い年月を引きずっている中に、
私が入っていくのを。私は歩いていました、宿命を背負い、手は汚さずに、
この年老いた王たちの、乾燥した臭いの中を。
お前は再び見たのですか、私の恐れがどれほどのものだったのか。

最初に注目したいのは、先ほどは « Reculez »とvousを使う口調だったエロディアードが、ここからは乳母をtuで呼んでいること。
冬の乳母よ(nourrice d’hiver)と呼びかける時、彼女は自分の話している相手が誰なのか、認識するようになっている。そのことが、vousとtuの使い分けから理解できる。

他方で、この9行の詩句の構文はかなり複雑で、文学を読み慣れていないフランス語を母語とする人間にとっても、理解が難しいかもしれない。

« Par quel attrait / Menée »のmenéeは女性形であり、2行下にある« je »の状態を表している。
つまり、私、エロディアードは、何らかの魔法的な力によって導かれている。

そして、« Menée … / Le sais-je »の間に、その文とは関係のない、朝の宴に関する詩句が挿入されている。« Quel matin (…) verse (…) ses tristes fêtes. »

« Tu m’a vue »の後には、3行下にある« entrer »が続く。つまり、« Tu m’a vue entrer ».
どこに入っていったのかは、その間に挿入される2つの行で示される。« Sous la lourde prison … ». 重い監獄の下に入っていったのだ。

19世紀後半のフランスでは、新しい詩の探求が行われていたが、伝統的な韻文の形を守りながら、文章の構造にまで手が加えられた詩句は、マラルメの特殊性の一つに数えられる。(ここの文章構文は理解可能だが。)

内容的には、「見る」ことのテーマが、乳母の最初の言葉(vois-je)から引き継がれている。
乳母は、自分の見ているのが、エロディアードその人なのか、彼女の影なのかと自問した。
エロディアードは、乳母に向かい、自分がライオンのいる監獄に入るのを見たのだから、ひどく恐れた姿も見たのかと問いかける。« tu m’a vue … entrer », « as-tu vu … ? »

この問いかけは、乳母の最初の一言、« Tu vis ! »(あなたが生きていらっしゃる!)の謎解きにもなっている。
つまり、乳母が姫の姿を見て驚くのは、姫がライオンのいる牢獄に入っていくのを見ていたためである。そのことが、エロディアードの言葉で説明される。
そのことの意味は、数行先に« fatale »という言葉が出てきて、説明されることになる。

なぜ、彼女は牢獄に入ったのか。
その理由は、冒頭の、どのような不思議な力(attrait)によってか、という言葉で説明される。
自分の意志ではなく、魔術的な力によってそこに引かれていったいったのだと、彼女は思っていることになる。

Carravagio, La Décollation de saint Jean-Baptiste

予言者たち(prophètes)という言葉は、洗礼者ヨハネを連想させる。
とすれば、彼女が口にする朝は、ヨハネが首を切り落とされる祝宴の朝になる。
遠くの死者たちとは、ヨハネ以前にヘロデ・アンティパスによって殺害された人々、とりわけ予言者たちを暗示している。遠くという形容は、かなり時間が経っていることを示す。
そして、その朝、彼等の後に、ヨハネが続くことになる。

ヨハネの首を要求するのは、ヘロデ・アンティパスの妻であるエロディアード。(一般には、彼女の娘のサロメと言われることが多い。)
しかし、マラルメは、何か分からない力とか、エロディアードに「それを私が知るだろうか」と言わせ、彼女を超えた何かの力があることを暗示している。

Henri-Léopold Lévy, Hérodiade

そのことは、彼女が歩いていたと言う際に、« fatale »という言葉が使われていることで明らかになる。
エロディアードは、ファム・ファタル(femme fatale)なのだ。

日本では、ある時期から、ファム・ファタルが、男から愛され、その愛によって男を滅ぼす女性という意味をもつようになってしまった。
しかし、ファム・ファタルの原形はサロメあるいはエロディアードであり、殺す者と殺される者の間に恋愛感情はない。
ヨハネの死を命じるのは、むしろ何か分からない力(attrait)、運命といった方がいいだろう。
そして、その運命の力が、ファム・ファタル(運命の女)であるエロディアードを通して実行される。

彼女はライオンたちのいる監獄に降りて行くが、彼女の手は汚れていない(sauve)。これまでに予言者たちを殺してきたのは、ライオンたちなのだ。
ライオンたちは、何世紀にも渡り、その役目を果たしてきた。
そのことは、世紀(siècles)を修飾する色、野獣の色(fauve)で表現される。

ライオンたちは、次に、「この年老いた王たち(ces anciens rois)」と呼ばれる。彼等の臭いは不毛で、乾燥している(désert)。
この表現が意味するのは、ライオンたちはすでに長い間、人を殺すことがなく、監獄の中に生々しい血の臭いはしないということ。

朝(matin)を形容する忘れられた(oublié)、死者たち(mourant)を形容する遠く(lointain)、ライオン(lion)を形容する年老いた(vieux)、臭い(parfm)を形容する乾燥し不毛な(désert)、王たち(rois)を形容する年老いた(ancien)という言葉によって示されるのは、殺害がすでに長い間行われてこなかったこと。
洗礼者ヨハネは、久々の犠牲者となる。

そして、エロディアードが、私の恐れ、おののきがどれほどのものだったかと言う時、動詞の時制に単純過去形が使われている。
Quels furent mes effrois ?
その恐れを感じたのが、今の彼女とは切り離された、過去の人物の感情であるかのように語られるのである。

quel attraitで始まったこの詩節が、quel matinと続き、最後にquelles furentとつながり、再び [quel ]の音が鳴る。

最後の詩句のリズムを見ておこう。

              Par quel attrait
Menée / et quel matin // oublié des prophètes
Verse, / sur les lointains // mourants, ses tristes fêtes,
Le sais-je ? / tu m’as vue, // ô nourrice d’hiver,
Sous la lourde prison // de pierres et de fer
Où de mes vieux lions // traînent les siècles fauves
Entrer, / et je marchais, // fatale, les mains sauves,
Dans le parfum désert // de ces anciens rois :
Mais encore as-tu vu // quels furent mes effrois ?

6/6のリズムで進行する詩句が多い中で、menée, verse, entrerという2音節の冒頭の単語に焦点が当たっていることがわかる。

音色的には、最も大切な単語であるvuの[ v ]の音が、至る所にちりばめられている。Verse, Vue, hiVer, Vieux, fauVes, SauVes, Vu.
こうした反復が、詩句のリズムと音色を形作る役割を果たしている。


乳母に向かって、見たのかと問いかけた後、エロディアードは現在の自分について語り始める。

Je m’arrête rêvant aux exils, et j’effeuille,
Comme près d’un bassin dont le jet d’eau m’accueille,
Les pâles lys qui sont en moi, tandis qu’épris
De suivre du regard les languides débris
Descendre, à travers ma rêverie en silence,
Les lions, de ma robe écartent l’indolence
Et regardent mes pieds qui calmeraient la mer.

私は立ち止まり、流謫を夢見ているのです。そして、むしるのです、
噴水が私を迎えてくれる池の近くにいるかのように、
蒼白い百合の花、私の中にある百合の花を。ライオンたちは、夢中で、
目で追っています、憔悴した残骸が、
音を立てない私の夢想を横切り、下って行くのを。
ライオンたちは、私の衣からダラリとして様子を遠ざけ、
私の足を見つめています。海さえ鎮める私の足を。

この7行の詩節の前半では、エロディアードが主体となる行動が示され、後半ではライオンたちが主体となり、エロディアードはライオンたちが見つめる対象、つまり、動作の客体になる。

では、主体として彼女は何をするのか。
まず、立ち止まり、夢を見る。流謫あるいは異国に追放される夢は、それに続く詩句の語る内容が、全て彼女の夢想(rêverie)であることを予告している。
だからこそ、彼女が葉をむしる(effleuiller)青白い百合の花(les pâles lys)も、彼女自身の中にある花なのだ。

夢想の世界で、人は夢見る主体でありながら、その対象でもある。
その世界は、「私」と「鏡に映る私の像」との関係を思わせる。

Delacroix, lion dévorant un arabe

エロディアードを客体にするのは、ライオンたちの視線。

そのライオンたちが夢中になって見ているのは、憔悴した残骸(les languides débris)。それは、彼女がむしる百合の花びら。その関係は、Lysの [ i ]の音が、languIdes débrIsと二度反復されることで、音によって示される。

エロディアードの内部では百合の花びらが次々の落ち、それを夢中になって見ているライオンたち。
そのライオンたちが、エロディアードのダラリと垂れ下がった衣服を持ち上げ、彼女の足を見つめる。
その足は、海をも鎮める力を秘めている。

全ては、エロディアードの夢想の世界での出来事のように思われる。
そこで、彼女は主体でもあり、客体でもある。

しかし、その言葉を聞く乳母は、現実的な感覚を持ち、言葉は現実を指し示すと信じている。
例えば、ライオンと聞けば、現実のライオンを連想する。
そのために、彼女はエロディアードの言葉の耳にしながら、現実的な恐怖を感じ、体を震わせたのだろう。
それを目にした王妃が、言葉を続ける。

Calme, toi, les frissons de ta sénile chair,
Viens et ma chevelure imitant les manières
Trop farouches qui font votre peur des crinières,
Aide-moi, puisqu’ainsi tu n’oses plus me voir,
A me peigner nonchalamment dans un miroir.

お前の年老いた肉体の震えを、鎮めなさい。
こちらに来て。私の髪は、手に負えないほど
逆立っています。世の女たちが恐れるライオンのたてがみのように。
手伝って、お前はもう私を見る勇気がないというのだから、
髪を無造作にでも整えるのを。鏡の中で。

エロディアードは、乳母の狼狽の原因をあえて誤解してみせる。
つまり、乳母は彼女が生きていることが信じられず、自分の目にしている姫君が亡霊ではないかと案じ、彼女を正視できないでいる。
そのことを知った上で、髪があまりにも逆立ち、ライオンのたてがみのようだから自分を見ることができないのだろうと、現実的な解釈をする。

そして、鏡の前で髪を整えるのを手伝うようにと命令する。
その解き、「見る」と対応する最も重要な単語が用いられる。
それは、鏡(miroir)である。

Berthe Morisot, Devant le miroir

その際、マラルメは、エロディアードのセリフの最後にmiroirを置き、その上で、前の行の最後に置かれたvoir(見る)と韻を踏ませる。

さらに、voirの目的語語として、me(私)を置き、私(の髪)を梳かす(me peigner)と、「私」を目的語にする。
構文の上でも、主体となる「私」と目的語になる「私」を明示し、「私」が「私」を見るという構図を浮かび上がらせる。

この構図こそが、「エロディアード 舞台」の最も基本的な構図であり、マラルメの詩の中心にある「虚無」の姿勢でもある。
https://bohemegalante.com/2020/04/18/mallarme-herodiade-langue-moi-beau-1/2/

自分の顔を自分で見るには、鏡に映った自分の顔、つまり鏡像を見るしかない。
自分という実体に到達するためには、映像という非実体を媒介にすることが不可欠である。
そこで、実体としての「私」を保証する現実は存在せず、虚像を通してしか「私」を確認できないことになる。
そうした自己のあり方の根底にマラルメが見出したのが、「虚無(le Néant)」だった。

この「虚無」は決して否定的な側面だけではない。
一つの効果を生み出すように完璧に制作されたフィクションは、目的とされた効果を生み出すことができる。
そして、マラルメは、詩作品の生み出す効果を「美」と定めた。
彼はある手紙の中で、「虚無へと長い間下った後にあるのは美だけである。」と記している。

乳母の最初の問いは、生きているのか、亡霊なのか、というものだった。
エロディアードは、自分を主体の立場に置いたり、客体の立場に置いたりしながら、最後に、鏡の前に座り、自分の姿を見る。
それは、さまに、この詩の中心的なテーマとなる姿勢である。

この5行の詩句では、乳母に対する要求を、 « Calme (2) », « Viens (1) », « Aide-moi (3) »と短い音節の表現にし、リズムよく、現実的な印象を与える。
それは、夢想を語る部分では、比較的長い音節の表現によって、自己の内面を描いたことと対照をなしている。

エロディアードは、乳母のいる現実の世界で、鏡の目に座り、自己を見る。

最後に、もう一度、朗読を聴いてみよう。3分38秒から、Par quel attraitが始まる。



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