
乳母とエロディアードの最初の対話によって、見ることが自己の分裂を生みだし、「自己が見る自己」の映像が詩のテーマとして設定された。
エロディアードは、ライオンのたてがみのような髪を整えるために、乳母に手を貸すように命じる。
そこで、乳母は、髪に振りかける香水について、一つの提案をする。
N.
Sinon la myrrhe gaie en ses bouteilles closes,
De l’essence ravie aux vieillesses de roses,
Voulez-vous, mon enfant, essayer la vertu
Funèbre?
N. (乳母)
閉じた壺の中の、陽気な没薬でないとしたら、
薔薇が枯れていく時に抽出されたエキスの
効力を、お姫様、お試しになりませんか、
不吉ですが。
この乳母の言葉は、6/6のリズムで、日本語の5/7/5のような調子の良さがある。
しかし、最後の行になり、3音節の言葉(fu-nè-bre)の後で突然詩句が打ち切られ、続く9音節は、次のエロディアードの言葉によって引き受けられる。
こうした技法によって、不吉な(funèbre)という言葉が強調される。
しかし、なぜ姫に、不吉なエキスなどを試す気があるかどうか尋ねるのだろう。

乳母は最初、没薬(もつやく、myrrhe)を口にする。それは、植物性のゴム樹脂で、古い時代からお香として使われてきた。
つまり、香水の役割をするものであり、ここでは、陽気な(gaie)という形容詞が付されている。
そして、姫は、陽気な香りは気に入らないと言ったのだろう。
乳母の言葉の最初に置かれた、「・・・でなければ(sinon)」という言葉が、ここには記されていない姫の反応を暗示している。
乳母は、姫の返事を受け、陽気な香りではなく、今度は、陰気な、そして不吉でさえある香りを提案する。
それは、薔薇から抽出されたもの。しかし、咲き誇る薔薇ではなく、年老いていく(les vieillesses)時、つまり枯れていく時のものだと言われる。
ここで思い出したいのが、薔薇とエロディアードの関係。
マラルメが最初にエロディアードの名前を詩の中で使ったのは、「花々」の中。
Et, pareille à la chair de la femme, la rose
Cruelle, Hérodiade en fleur du jardin clair,
Celle qu’un sang farouche et radieux arrosé !
女性の肉体に似た、薔薇の花、
残酷で、明るい庭で花開くエロディアード、
獰猛で、光輝く、注がれた一滴の血!
エロディアードと薔薇は、血のように赤く、鮮やかだ。
それに対して、乳母は、年老いること、枯れることを口にし、彼女の提案する薔薇のエキスには、過ぎ去る時間、全てを死へと導く時間が含まれていることを暗示する。
陽気な香りが嫌ならば、香りの不吉な効果はどうか、と。
その際、マラルメは、音によっても、不吉な効果を強めている。
Vertu / funèbreを続けて発音するとすぐに感じられるのは、母音 [ u ]の反復。
母音反復(アソナンス)によって、効果(vertu)を高めているのである。
この乳母の提案に対して、エロディアードはどのように答えるのだろう。
H.
Laisse là ces parfums ! ne sais-tu
Que je les hais, nourrice, et veux-tu que je sente
Leur ivresse noyer ma tête languissante ?
Je veux que mes cheveux qui ne sont pas des fleurs
À répandre l’oubli des humaines douleurs,
Mais de l’or, à jamais vierge des aromates,
Dans leurs éclairs cruels et dans leurs pâleurs mates,
Observent la froideur stérile du métal,
Vous ayant reflétés, joyaux du mur natal,
Armes, vases depuis ma solitaire enfance.
そんな香水はうっちゃりなさい! 知らないのですか、
私、そんなもの嫌いです、乳母様、私に感じさせたいのですか、
香水の酔いが、私の物憂い頭を覆い尽くすのを。
私の望みを聞いて下さい。この髪は、人間の苦悩を忘れさせてくれる
香りを振りまく花ではなく、
永遠にどのような香りにも汚されない、黄金なのです、
この髪の残酷な閃光の中でも、どんよりとした青白さの中でも、
私の髪は、金属の不毛な冷たさを保つのです、
お前たち、私が生まれた館の壁に置かれた宝物たちを、映し出した後までも、
孤独な子供時代からずっとある武具たちや花瓶たちを、映し出した後までも。
エロディアードは香水を拒否する。
その理由は、香水が酔い(ivresse)をもたらし、頭をどんよりとさせるからである。
彼女のこの言葉は、マラルメがボードレール的なポエジー、その中心にある酔い(ivresse)や忘却(oubli)による恍惚(extase)に基づいた詩を拒否することを示している。

彼女はさらに言葉を続け、私の髪(mes cheveux)は人間の苦悩(les humaines douleurs)を忘れさせる(oubli)花ではない、と宣言する。
従って、この最初の5行は、ボードレール的な詩の否定にあてられているといえる。
マラルメが「エロディアード」の詩句と格闘しながら、自らの詩の世界を切り開いていく様子を、こうした詩句からかいま見ることが出来る。
では、マラルメの目指す詩とはどのようなものなのか。

エロディアードは言う。
彼女の髪は、黄金(or)だ、と。
それは、決して香りを発することはない。
明るく輝く中でも(dans leurs éclairs)、青白い中でも(dans leurs pâleurs)、金属的な冷たさを保つ。
詩を生み出す時にも、インスピレーションの熱に浮かされ、恍惚とした状態で書くのではない。
詩によって読者に我を忘れ去れ、恍惚状態に導くのでもない。
そうした熱気とは反対に、マラルメの詩は、冷静な知性を保ち、生命のない金属(le métal)の不毛な冷たさ(la froideur stérile)を理想とする。
その理由は、非常に暗示的な形ではあるが、続く2行によって告げられる。
エロディアードの髪は、子供時代からずっと、壁に置かれた宝物(joyaux)を映し出してきた。
その言葉の中心は、映し出す(refléter)。
エロディアードが鏡の前で自分の姿を映し出すように、髪は壁の武具や花瓶を映し出した。
この映し出す(refléter)という動詞は、別の動詞 mirer(映す)と同じ意味を持ち、鏡(miroir)とつながる。
鏡は、「自己を見る自己」という構図を作り出しる。
実体的な自己が自己を認識するためには鏡に写った像が必要となり、虚像が実像を支えるという倒錯的な関係を認識させる道具となる。
その根底にあるのは、マラルメが詩句を掘り下げながら出会った「虚無(le Néant)」。
https://bohemegalante.com/2020/04/18/mallarme-herodiade-langue-moi-beau-1/2/
このように考えた時、肉体的な熱気を持つボードレールのような詩句ではなく、鉱物のように冷たく不毛ではあるが、何ものにも侵されていない黄金のような詩を、マラルメが目指したことが理解できる。
そして、この理想は、エロディアードの最初の言葉の中で、すでに口にされていた。
Le blond torrent de mes cheveux immaculés
私の汚れのない髪の、金色の爆流
エロディアードの後半の5行の詩句は、この一つの詩句を、敷衍していると言っもいいだろう。
もちろん、こうした読みは、詩論として詩句を理解した上でのことである。
エロディアードと言葉を交わす乳母は、彼女の言葉を実際の香水や髪のこととして理解し、会話を続ける。
N.
Pardon ! l’âge effaçait, reine, votre défense
De mon esprit pâli comme un vieux livre ou noir…
N. (乳母)
申し訳ございません。歳のせいで、王女様、あなた様のお禁じになったことが、
頭から消え去っていました。この頭は、古い本のように色褪せているのか、黒くなっているのか。。。
乳母は、歳のせいで、エロディアードがすでに香水を禁じていることを忘れていたと言う。
この言葉の意味することは、乳母は常に時間の流れる現実に生きているということ。
そこでは、全てが、古い本の文字のように、消えかかってしまう。そして、何も見えないように、まっ黒くなるかもしれない。
De mon esprit / pâli // comme un vieux livre / ou noir
pâliという言葉と、続くcomme un vieux livreの間に切れ目(césure)が置かれ、pâliがリズム的に強調される。
また、後半の6音節の中で、最後の2音節の表現 or noirに切れ目があり、黒も強調される。
時間の中に置かれた存在の運命が、こうした詩句の工夫によって、見事に表現されている。
エロディアードは、乳母に言い訳を止めさせ、鏡を持つようにと命じる。
H.
Assez ! Tiens devant moi ce miroir.
Ô miroir !
Eau froide par l’ennui dans ton cadre gelée
Que de fois et pendant des heures, désolée
Des songes et cherchant mes souvenirs qui sont
Comme des feuilles sous ta glace au trou profond,
Je m’apparus en toi comme une ombre lointaine.
Mais, horreur ! des soirs, dans ta sévère fontaine,
J’ai de mon rêve épars connu la nudité !
Nourrice, suis-je belle ?
もう十分! お持ちなさい、私の前に、この鏡を。
おお、鏡よ!
冷たい水よ、倦怠によってお前の額縁の中で凍結される、
何度も、何時間もの間も、打ちひしがれる、
夢によって、そして、思い出を探す、
氷の下、深い穴にある、木の葉ような思い出を、
その私が、お前の中に、自らの姿を現したのです、遠い影のような姿を。
でも、何と恐ろしいこと!幾度もの夜、お前の厳格な泉の中で、
私は、脈絡のない夢の、むき出しの姿を知ったのです!
ねえ、乳母様、私、美しい?
この詩節は、乳母に向かい、「鏡を」という要求で始まり、「私、美しい」と尋ねる言葉で終わる。
これこそが、「エロディアード」の中心的なテーマであり、「主体としての自己が客体としての自己を見る行為」と「美」とが結びつくことを、明確に示している。

乳母に向けられた二つの言葉の間にあるのは、エロディアードが鏡に向かって語り掛ける言葉。
彼女は、「おお、鏡よ!」と呼びかけた後、7行の詩句を費やして、自分の姿を映し出す鏡と対話をする。
その時、マラルメは、ある仕組みの施す。
私と私を映す鏡のガラスは、本来であれば、主体と客体の関係にある。
しかし、詩の根本的なテーマは、その関係を問い直し、そこに無を見出し、美に繋げること。
この複雑でもあり、単純でもある関係を、詩の言葉として表現するのである。
冷たい水よ(Eau froide)と呼びかける主語は、5行下に現れる「私」=エロディアード。
確認しておけば、水は女性名詞であり、「私」も女性。
そのことを意識した上で、次の詩句を読んでみよう。
Eau froide […] gelée
Que de fois et pendant des heures, désolée
Des songes et cherchant mes souvenirs […],
Je m’apparus en toi […]. »
冷たい水(Eau)に、凍り付いた(gelée)という過去分詞が接続することは問題ない。
しかし、その過去分詞の後にヴィルギュールがなく、次の詩句に続く。
次の詩句は、何度も何時間も(Que de fois et penddant des heures)の後に、ヴィルギュールが置かれ、次に、打ちひしがれた(désolée)という過去分詞が来る。
この構文を前にして、読者は判断を迫られる。
1)何度も、何時間もは、凍ると関係するのか、打ちひしがれたと関係するのか?
2)打ちひしがれたのは、水なのか、「私」なのか。
文章の流れからすれば、désoléeが出てくると、前にある水と関係づけるのが自然である。しかし、意味的には、私と関係させた方が納得がいく。
3)私の夢を探す(cherchant)という現在分詞も、構文的には、水にも「私」にも、関係することが可能である。
この曖昧さは、マラルメが意図したものだと考えられる。
そのことは、エロディアードが自分を鏡に映すときの表現によって、明らかになる。
Je m’apparus en toi.
apparaître(現れる)は自動詞であり、目的語を取らない。
それにもかかわらず、マラルメは、meという再帰代名詞、つまり主語が自分を指す代名詞を付け加えた。

彼の意図は、その文法的な違反によって、「私」が鏡に「私」を映すという構図を浮かび上がらせることだったに違いない。
こうすることで、鏡に映し出された「私」の像は、「私」自身ではなく、鏡に映った「私」であることが明確になる。
ここで、マラルメが「虚無(le Néant)」として発見した時のことを思い出そう。
実在だと思われている「私」が自己認識するためには鏡像を通すしかない。
従って、実在は自立した存在ではなく、それが産み出す鏡像との相互作用を基盤としている。
一言で言えば、実在だと思われる「私」と鏡に映る「私」には、実在/虚像という区別はなく、相互的なものだということになる。
そうした考えに立つとき、曖昧な構文をマラルメがあえて使用した理由がわかってくる。
冷たい水と「私」の区別はなく、désoléeやcherchantは、どちらとも関係するのだ。従って、どちらかを考える必要はないし、どちらも「夢によって打ちひしがれ」、「私の思い出を探す」のだ。
単純過去と普遍性
もう一つ、マラルメの意図を理解しないといけないのは、« apparus »が単純過去であるということ。
次に出てくる動詞が、« J’ai connu »と複合過去。そのために、二つの時制が明確に使い分けられていることがはっきりとわかる。
単純過去は、発話者と発話の内容が、断絶していることを意味する。
たとえ、主語がjeであるとしも、j’apparusとすると、そのjeは、文の発話者とは別の存在、例えば歴史的人物のように見なされていることになる。
今話しているエロディアード(発話者)は、鏡に自分を映している自分を、物語や歴史の中の登場人物のように見ている。
https://bohemegalante.com/2019/05/18/systeme-temps-verbe-francais-2/
それに対して、複合過去は、発話者と発話の内容が同一の時間帯にあることを示す。
もし、je suis apparu あるいはj’ai apparuと書かれていれば、エロディアードは、今の自分と鏡に姿を映した自分を同一の次元で捉えていることになる。
その二つの時制の違いをマラルメは非常に巧みに利用して、彼の思考を表現していることがわかる。
« Je m’apparus »のjeは、現在のエロディアードとは切り離された存在。ある意味では三人称の人物と見なすことができる。
マラルメは、単純過去の動詞の主語となるJeを非人称的で、普遍的な存在と見なし、その人物の経験を全ての人間に共通する経験とする。こう言ってよければ、個人的な無意識に対する、集合的無意識。
(注意:単純過去が集合的無意識と関係しているわけではない。あくまでも、「エロディアード 舞台」のこの詩句に限定した解釈をここで提示している。)
そうした次元を暗示するために、マラルメは、 « je m’apparus en toi »の後に、« comme une ombre lointaine »という表現を加えている。
遠い影とは、単純過去で示される次元を指していると考えてもいい。
現在のエロディアードが鏡の前に立つときも、その次元の経験を内在している。
そのことを示すのは、彼女の髪である。
彼女がこの詩の冒頭で発した言葉は、「私の汚れのない髪の、金色の爆流(Le blond torrent de mes cheveux immaculés)」。そして、その髪は、「金属の不毛な冷たさ(la froideur stérile du métal)」を持っている。
つまり、冷たい水(froide eau)の性質を、今のエロディアードの髪が保っていることになる。
では、複合過去の次元にある事象とはどのようなものなのか。
冷たい水=ガラスは、鏡の額縁(cadre)の中で、倦怠(ennui)によって凍結していた。
退屈なのは、熱い肉体が燃えさかり、インスピレーションに動されるエネルギーがなく、金属のように不毛だからだろう。
その不動性は、水が凍っている印象を与える。
「夢によって打ちひしがれ」るのは、現実と夢を区別する思考の中で、夢は常に幻滅をもたらすものと見なされたからだろう。夢は現実の歪んだコピーでしかないと考えられがちだった。

私の思い出(mes souvenirs)は、ガラス(la glace)の下の深い穴(le trou profond)の中に落ちた木の葉(des feuilles)のようだった。
この表現からわかるのは、ガラスは決して平面ではなく、奥行きを持っていること。つまり、映し出す映像は現実の奥行きを持ち、幾重にも重なる。
鏡の前に立つ「私」は、単純過によって示される次元の「私」も含め、多くの次元の「私」を包含している。それは、ちょうど、積み重なった落ち葉のように。
複合過去の次元
以上が、単純過去の次元に属する事象だとすると、複合過去の次元では、どのようなことが起こったのだろうか。
現在の「私」につながる次元では、恐ろしいことが起こっていたことが、「何と恐ろしいこと(horreur !)」という感嘆詞で最初に示される。
「お前の厳格な泉(ta sévère fontaine)」が鏡を指すことは明か。鏡と泉の違いは、ガラス(glace)と水(eau)の違いだが、両者とも、全てを映し出すことでは共通している。
では、エロディアードが知ったという、「脈絡のない夢の、むき出しの姿(nudité)」とは何か。
現実には一貫性があり、夢には一貫性がない。現実は実在し、夢は幻。そうした2元論に立つときには、夢は現実を裏切り、失望をもたらすものと考えられる。
それが、すでに出てきた、「打ちひしがれる、夢によって(désolé des songes)」という言葉で表されること。
それに対して、夢の裸(la nudité)、つまりむき出しの姿とは、現実と夢が相互的な関係であること、つまり、現実と鏡像と同じ関係にあるとしたらどうだろう。
マラルメはそこで「虚無」と出会った。
とすれば、その時に、「何と恐ろしいこと!」と叫んだとしても、不思議はない。
今
そして、今、エロディアードは乳母に、こう問いかける。
「私、綺麗? (Suis-je belle ?)」
「美」こそ、マラルメが目指したもの。
この言葉によって、エロディアードは、マラルメに代わり、「エロディアード」という詩が美を体現しているかどうか、読者に問いかけているといってもいいだろう。
読者である私たちは、その問いに対して、何と応えるだろう。
Oui かNonか。
「マラルメ 「エロディアード 舞台」 Mallarmé « Hérodiade Scène » 言語と自己の美的探求 4/7」への2件のフィードバック