現代アート 最初の一歩 Premier pas vers l’art du 20e siècle 3/5 フォーヴィスムとキュビスム

現代アートでは、何が描かれているのかわからないし、絵画の理解を裏付ける物語は存在しない。
そうした点が、現代芸術を伝統的な芸術と区別する根本的な違いである。

では、現代アートにアプローチするためには、どうすればいいのだろうか。

作品を前にする時、理解しようとする必要はなく、ただそこに描かれているものをそのまま見るだけでいい。
頭でそうしたことがわかっていても、理解できず、何が描かれているのかわからないものを前にして、美を感じることは難しい。

その理由は、目が慣れていないから。

これから、目を慣らすために、20世紀初頭に誕生した二つの絵画の流れに属する絵を見ていこう。
一つは、フォービスム。もう一つはキュビスム。

フォービスム

フォービスムが生まれたきっかけは、1905年の第2回サロン・ドートンヌとされる。
その展覧会に出品されていた画家達の作品を見た一人の批評家が、原色を多用した強烈な色彩や荒々しい筆遣いに驚き、「この彫像の清らかさは、乱痴気騒ぎのような純粋色のさなかにあって、ひとつの驚きである。野獣(フォーヴ)たちに囲まれたドナテロ!」と叫んだ。
そこから、フォービズム(野獣派)と呼ばれるようになったといわれている。

そのサロンに出品されたアンリ・マチスの「帽子の女性」。

Henri Matisse, Femme au chapeau

描かれている対象は、題名の通り帽子を被った女性。その意味では、一人の女性を再現している。
しかし、絵画の目的がそこにないことは、自由なタッチや多彩な色彩から見て取ることが出来る。
こう言ってよければ、このマチスの絵が目に訴えかけるのは、色彩の表現であり、女性の姿ではない。
フォビズムは、色彩がもつ表現力を重視し、感覚に直接的に働きかける表現手段として色彩を用いた。

同じ1905年のサロンに出品されたアンドレ・ドランの「帆の乾燥」とモーリス・ド・ヴラマンクの「聖キュキュファの池」。

Andér Derain, Le séchage des voiles
Maurice de Vlaminck, L’Etang de Saint-Cucufa

これら3枚に代表されるフォビズムの絵画は、細部の描写が徹底的に簡略化され、平面的。
純色の強い色が使われ、力強い筆遣いを感じる。

三人の画家の別の作品も見ておこう。

Henri Matisse, la desserte rouge
André Derain, La jetée à L’Estaque
Maurice de Vlaminck, Jardinier

ジョルジュ・ブラックやラウル・デュフィのフォービスム時代の絵画も、色彩に富んでいる。

Georges Braque, Paysage de l’Estaque
Raoul Dufy, Fleurs 3

やや色調を異にするジョルジュ・ルオーやロベール・ドローネーにも、フォービスムの時代があった。

Georges Rouault, La Fille au miroir
Robert Delaunay, L’homme à la tulipe, portrait de Jean Metzinger

フォーヴィスムは、色彩それ自体に力があると考え、色彩自体が作り出す自律的な世界を探求した。
感覚を重視し、色彩はデッサンや構図の上に加えられるのではなく、画家が自分の感覚に従って自由に配置できるものだと考えた。
ルネサンス以降の伝統である3次元の写実的表現を離れ、色彩によって見る者の感覚に直接働きかけようとしたのは、そのためである。

キュビスム

キュビスムは、セザンヌの後期作品に見られる三次元形式の表現に影響を受けたジョルジュ・ブラックやパブロ・ピカソが展開した美術運動。

フォービスムが感覚に働きかける色彩中心の絵画を展開したのに対して、キュビスムは、理知的に幾何学の形状を配置し、あらゆる対象を幾何学的図形に還元して表現した。

セザンヌは、「自然の中の全ての事物は、幾何学的形式 ―― 円柱、球、円錐で構成されている」と主張し、絵画の伝統的な技法である明暗法や遠近法を使わない立体表現を発展させた。

Paul Cézsanne, Mont sainte Victoire

この絵画を見ると、「自然を円筒形と球形と円錐形によって扱う。」という有名な言葉が実現されていることがわかる。

セザンヌを高く評価したのが、モーリス・ドニ。
彼は、「セザンヌ礼賛」という絵画を残している。

Maurice Denis, Hommage à Cézanne

モーリス・ドニは、次の言葉を残している。

一枚の絵画が軍馬や裸婦や何かの逸話を描き出しているとしても、それは絵画の本質的な役割ではない。 本質的なのは、それが平らな表面であり、その表面を覆っている色彩がある秩序によって寄せ集められていることである。

こうした流れの中で、セザンヌ的な表現を推し進めると、キューブ(立方体)の集合が絵画そのものになることがわかってくる。
キュビスムでは、対象となるオブジェクトは分析された上、解体され、抽象的な形で再構成される。
再構成するにあたり、伝統的な絵画のように単一方向の視点から描くのではなく、複数の視点から対象を捉える。
従って、画布の上に複数の視点から捉えられた画像が共存することになる。

例えば、ピカソの「詩人」。

Pablo Picasso, Le poète

詩人という題名にもかかわらず、人間の姿があるとは思えない。目に入るのは、小さな切子面が複雑に構成されている様子だけ。
ピカソが、セザンヌの主張を極限まで押し進めたことが、この一枚からよく理解できる。

フィービズムからキュビスムへと移行したジョルジュ・ブラックが、エスタックを描いた2枚の作品を比較すると、二つの流派の違いがはっきりする。

Georges Braque, Maisons à l’Estaque

フォービスム時代のエスタックは、こんな風に描かれていた。

Georges Baque, Paysage de l’Estaque

幾何学的な形体で世界を捉えるのか、感覚的な色彩で世界を捉えるのか、違いははっきりしている。
20世紀前半のほぼ同じ記事に、相反する芸術観が生まれ、時には一人の画家が二つの描き方を用いてたことは、大変に興味深い。

フォービスムで紹介したロベール・ドロネーのキュビスムの作品。

Robert Delaunay, La Ville de Paris

この「パリの街」の場合には、幾何学な形状把握が行われながら、中央には色彩表現も取り入れられている。

フェルナン・レジェも、色彩を押さえ幾何学的構成を際立たせた場合と、色彩を施した場合がある。

Fernand Léger, Composition
Fernand Léger, Femme en bleu

マルセル・デュシャンのキュビスム時代の作品「王と王妃」。

Marcel Duchamp, Le Roi et la Reine entourés de Nus vites

題名に惑わされて、人間の姿をこの絵画の中に見つけようとしても意味はない。題名はデュシャンが鑑賞者を迷わせるために付けたものと考えた方がいいだろう。

フランシス・ピカビアの「泉」と「アメリカの少女、ダンス」。

Francis Picabia, La Source
Francis Picabia, Udnie (Young American Girl, The Dance)

最後に、キュビスムの発端となったと言われるピカソの「アヴィニョンの娘たち」を見てみよう。

Pablo Picasso, Les Demoiselles d’Avignon

この絵画は発表当時、非難の的となった。
5人の女性は、伝統的な人物造形からすると美からはほど遠く、しかも不自然な肉体表現がなされている。
それだけではなく、遠近法や明暗法などによって得られる写実的な現実感がなく、絵画として非常に不自然な感じを与える。

ピカソは、「アヴィニョンの娘たち」において、セザンヌに倣い、事物の形をいったん解体し、画面のなかに複数の視点を共存させて、事物を再構成したのだといえる。
そのことで、絵画が現実とは異なるもう一つの現実を作り出すことを鑑賞者に示し、絵画的現実を強く意識させることに成功したといってもいいだろう。
「アヴィニョンの娘たち」が「キュビスム」の出発点とみなされるのは、そのためである。

Pablo Picasso, Femme qui pleure

20世紀の初頭、フォービスムは色彩によって、キュビスムは形体によって、世界を捉え、画布の上に現実から自立したもう一つの世界を生み出した。
そうした絵画を前にする時、私たちは新しい世界に接するのである。その美を感じるためには、新しい美を感じる目と心を養うことが必要になる。

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