現代アート 最初の一歩 Premier pas vers l’art du 20e siècle その2 さらば 遠近法と物語

現代アートは伝統的な絵画に対して革命を起こしたといえるほど、伝統の核心をなすコンセプトを破壊し、新しい芸術のあり方を提示した。

その新しさを理解するためには、何を壊したのか知る必要がある。

ここでは、描き方の変化として、遠近法を放棄したこと、描く題材に関しては、物語の下支えを取り払ったことを、確認していく。

さよなら 遠近法

遠近法はルネサンスの時代に発展した。

Cimabue, La Vierge et l’Enfant en majesté

中世の絵画では、象徴性が重んじられ、写実性は問題にされなかった。
人物の大きさは聖性と比例し、距離によって人物を大小に描き分けるという発想はなかった。
距離を表すとしたら、後ろの人物は手前の人物の陰に隠れるように描くだけだった。

13世紀の画家チマブーエの「聖母と天使たち」でも、中央の聖母と回りを取り囲む天使たちの体の大きさは、現実とは無関係に描かれている。

こうした中世絵画への革新として、透視遠近法が生み出された。
15世紀初め、フィレンツェで、ブルネレスキという建築家が、サンタ・マリア・デル・フィオレ大聖堂の洗礼堂を透視図法で描写し、幾何学的な手法で立体感のある建築物を描くことに成功した。
これが、ヨーロッパの絵画で透視遠近法が使われるようになった最初だと言われている。

透視遠近法とは、一つの視点から見た3次元の物体を、2次元の画布の上に、あたかも3次元であるかのように描き出す方法。
画面上で直交するとされる平行線を一点(消失点)に集束させて描くことで、奥行きのある空間があるかのような錯覚が生まれる。

Léonard de Vinci, La Vierge aux rochers

レオナルド・ダ・ヴィンチが、もう一つの遠近法である空気遠近法を考案した。
現実の空間には空気があるため、色彩の調子や濃淡は、遠近によって変化する。

色彩の違いは光の波長の違いに由来する。エネルギーが低く波長の長い光は赤く、エネルギーが強く波長の短い光は青っぽく見える。
そこで、見る人の近くにある物体は赤く見える。他方、遠いものだと、赤系の光は途中で吸収され、青い光が観察者に届く。そのため、遠くにある物は青く見える。
空気遠近法では、この現象を利用して、遠い物体ほど、青く霞んで見えるように描く。

ダ・ヴィンチの「岩窟の聖母」は、透視遠近法と空気遠近法が使われ、深い奥行きがある空間が作り出され、人物たちの体の大きさも現実を反映している。
この絵を見る者は、空想の場面ではあるが、あたかも現実の場面に立ち会っているかのような印象を受けたことだろう。

遠近法がルネサンスの時代に発展したことは、時代精神と対応している。
画布の中には消失点が想定されるが、画布のこちら側には画家の視点がある。
ということは、遠近法に基づいた絵画とは、人間の視点から見た世界像を表現するものであり、絵画の隠れた中心には人間がいる。
ルネサンスは、人間性の価値を再認識し、中世の神中心の世界観から新たな一歩を踏み出した時代だった。
人間の視点を中心にして、そこから見た世界を3次元の空間として捉える遠近法的表現は、まさにルネサンス的だと言うことができる。

ルネサンスの時代から19世紀半ばのレアリスムの時代まで、絵画は遠近法に基づき、画布の上に幻の現実を生み出すことが基本となった。
別の言い方をすると、まず現実の世界があり、それを再現するのが絵画の目的だった。
そこでのキーワードは再現(représentation)。
ルネサンスから19世紀半ばまで続いた芸術観は、再現芸術というコンセプトに基づいていたことになる。

ところで、この考え方に従うと、現実が本物で、絵画はそれをコピーしたものにすぎないことになる。
19世紀の後半、芸術観の革命が起こり、現実の再現が絵画(芸術)の目的ではなくなる。そして、それを過激にしていったのが、20世紀の現代アートだといえる。

パリのポンピドー・センターに展示されているイヴ・クラインの「オマージュ ア テネシー」。
最初に目に飛び込んできた時、絵の前に立ちつくしてしまうほど美しいと感じる。しかし、何が描かれているのだろう?

Yves Klein, Hommage à Tennessee

その問いは意味をなさない。
画布の上に青い色が広がっているだけで、何も再現していない。現実の何かを描いているわけではなく、現実の何かをコピーしてもいない。
つまり、現実に従属した絵画ではない。

ここに行く手前には、何が描かれているのかわかりそうな絵画もある。

Paul Cézanne, Mont Sainte-Victoire avec des pins

セザンヌの「松の木のあるサン・ヴィクトワール山」。
遠近法が使われているが、サン・ヴィクトワール山を写実的に再現することが目的とはされていない。
セザンヌは、世界を幾何学模様で捉え、そのように表現したのだった。

以上の二つの世界観(遠近法による再現 vs 非再現性)の転換的にあるのが、19世紀後半だった。

マネの「笛を吹く少年」を見てみよう。

Edouard Manet, Le Joueur de fifre

有名な絵画なので、つい何気なく見てしまう。少年の姿がそれとわかるように描かれているので、再現性はある。
しかし、背景は単色で塗りつぶされ、何も描かれていない。そのために遠近法が用いられず、画面に奥行きはない。
また、輪郭線が黒い線で太く強調され、現実的、写実的とはいえない。
そうした部分から、浮世絵ではよくあるが、西洋絵画ではまったく新しい手法を、マネが試みていることがわかってくる。

結局、遠近法に基づく3次元空間の再現は、混沌とした現実を整理するための一つの方法だといえる。
その整理する枠を取り払い、生の動きそのものを探る動きが、19世紀後半に始まったといってもいいだろう。
時間に例えると、時計で計ることができる客観的な時間が遠近法的3次元。
それに対して、個人の内的な時間、生きた時間を取り戻すのが、新しい芸術観。

遠近法を使用しなくなったことは、人間中心の世界像を離れ、現象そのものに焦点を当てる世界像に移行したことを意味している。

さよなら 物語

遠近法を必要不可欠な要素としなくなった時期、同じように不必要になったものがある。
それを一言で言えば、物語。

伝統的な絵画には序列があり、聖書、神話、歴史などに基づく物語に由来するテーマを題材とする作品が上位に置かれた。
画家と鑑賞者の間でそうした知識は共有されていることが前提だった。
画家からすると一つのテーマをどのように表現するかが問題であり、鑑賞者は知識に基づき絵画を読解することが求められた。

次の絵を見てみよう。

Raffaello, Transfiguration

この絵を見たとき、現代の鑑賞者であれば、まず最初に、好きとか嫌いとかいう印象が浮かんでくる。
その後、画家の名前や作品の題名を調べ、ラフェエロの「キリストの変容」であることを知る。
そして、再びラファエロは好きとか、よくわからないという印象を抱いて終わることが多いだろう。

しかし、19世紀前半までの絵画は、原則的に言えば、明確な知識に基づいて描かれ、理解されてもいた。
絵画とは、知識に基づいた芸術だった。

ラフェエロの「キリストの変容」は、キリストが天から声を聞き、自分が神であることを示す物語に基づいている。
画面は、キリストが姿を現す上部の場面と、悪魔に取り憑かれた少年の治癒物語の場面を描く下の場面という、二部構成。
下部の民衆がキリストを指し示すことによって、奇蹟の物語を一枚の画面に結び付けている。

上の段をさらに詳しく見ていこう。
キリストの輝きが青みがかった雲を明るく照らし、その両側にはモーゼとエリアが配置されている。
聖書の物語を知っていれば、彼らが、キリストは神の子であると告げている場面だとわかる。
その下にひれ伏しているのは、弟子のペテロ、ヤコブ、ヨハネ。
もしこの上の場面だけが描かれていたら、それだけ一枚の宗教画になる。

画面の下に描かれているのは、悪魔に取り憑かれた少年と、それぞれの方向をバラバラ指差し、混乱した様子の群衆たち。
こちらだけだと、民衆を描いた風俗画として見ることもできる。

この絵画を見る者は、聖書の基本的な知識を持った上でラファエロの絵画を前にし、その素晴らしさに感嘆したに違いない。

こう言ってよければ、絵画とは、単に見るものではなく、物語を読むものでもあった。

次の絵画に描かれた女性は誰なのか?

Nicolas Régnier, Allegory of Vanity

彼女の右手の下には、一つの壺が置かれている。
それが彼女の属性を示す印となる物、美術用語ではアトリビュートと呼ばれるものであり、壺はその女性がパンドラであることを示している。

パンドラは、人類の災いとして神々によって地上に送り込まれた人類最初の女性。その際、彼女は瓶(あるいは箱)を持って地上に下った。そして、決して開けてはならないと言われた瓶(箱)を好奇心に負けて開けてしまい、悪が地上のばらまかれることになった。
この物語に従い、パンドラのアトリビュートは壺(箱)とされる。

このアトリビュートを知っていれば、次の絵画の女性がパンドラであることはすぐにわかる。

Alexandre Cabanel, Pandora

アトリビュートを巧みに用い、謎かけすることも可能になる。

Jean Cousin, Eva Prima Pandora

左手の下には壺があり、パンドラであることが示される。
しかし、それと同時に腕には蛇が巻き付き、右手にはリンゴの木の枝が描かれている。それらは、キリスト教の中で最初の女性とされるエヴァのアトリビュート。
題名は「エヴァ、最初の女性、パンドラ」。彼女はエヴァでもあり、パンドラでもある。

アトリビュートの知識に基づき、ルネサンス時代における異教(ギリシアの神)とキリスト教の微妙な関係が、ジャン・クーザンの美しい女性像によって暗示されていることになる。
ルーブル美術館のサイトでは、この絵画の解説の部分で、「エヴァ、それともパンドラ?」という小見出しが付けられ、「この絵の謎は一層深まる。エヴァかパンドラか。彼女は聖書の世界からやって来たのか、あるいは異教の神話の住人であるのか。」とされて、画家がかけた謎が今でも続くことを示している。

絵画は美の表現であると同時に、知の集積でもあり、読み解くものでもあったことが、この例からもわかるだろう。

画家たちはこうした知識に基づいて絵画の題材を選択し、絵画を描いた。
見る側も、そうした知識を持っていることが、理解の条件だった。
このような知を前提とした絵画観は、19世紀まで続いた。

ところが、19世紀後半になると、知識なしでも絵画を観賞できる時代になる。
例えば、印象派の絵画。

モネ、睡蓮
シニャック、オーヴェルシーの運河

大原美術館に所蔵されているモネの「睡蓮」にも、シニャックの「オーヴェルシーの運河」にも、裏付けとなる物語はない。
アトリビュートの知識は要求されず、感性に従って美を感じるだけでいいという見方が主流なる。

その結果、現代では、絵画は理解するものであるよりも、感じる対象だと考えられるようになった。
見てもよくわからないと言われる現代アートは、そうした見方の先端に位置していると考えていい。

Francis Picabia,Tarentelle

フランシス・ピカビアのこの絵画が現実の何かを再現していると考えても無駄だろうし、この絵画の背景にどのような物語があるのか問いかけても答えは返ってこない。
見る者は、モーリス・ドニの言葉の通り、平らな表面を覆っている色彩がある秩序によって寄せ集められているのを見るだけである。

現代アートは、伝統的な芸術のコンセプトをあえて逆手に取り、再現性を目指さず、物語に基づかないことを意識した上で、観賞することを要求している。
その視野に立って、20世紀前半に展開した絵画の流れを見ていこう。(続く)



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