
ルイーズ・ラベは、16世紀半ばにリヨンで活動し、ルネサンス期のフランスを代表する詩人の一人。
彼女の代表的な詩「私は生き、私は死ぬ(Je vis, je meurs)」は、イタリアの詩人ペトラルカに由来するソネットの詩型を用い、愛(Amour)とは何かを歌っている。
2つの四行詩(カトラン)では、私(je)を主語にして、私がある矛盾した感情や感覚に捉えられることが語られる。

3行詩(テルセ)に移ると、私を捉えていたものが愛(Amour)であることが最初に示される。
そこでは、主体は愛になり、私は愛という行為が働きかける対象(me)であることが示される。
そのようにして、14行のソネット全体を通して、愛とは何かという謎解きが行われていく。
Je vis, je meurs, je me brûle et me noie,
J’ai chaud extrême en endurant froidure,
La vie m’est trop molle et trop dure.
J’ai grands ennuis entremêlés de joie.
Tout à un coup je ris et je larmoie,
Et en plaisir maint grief * tourment j’endure ;
Mon bien s’en va et à jamais il dure ;
Tout en un coup je sèche et je verdoie.
* grief : grave, pénible
私は生き、私は死ぬ。私は燃え、溺れる。
私は極端に暑く、寒さに耐える。
命は、私には、あまりに柔らかく、あまりに堅い。
ひどい退屈に、喜びが混ざる。
突然、私は笑い、私は涙する。
喜びの中で、多くのひどい苦しみに、私は耐える。
善きことは去って行き、そして、それは永遠に続く。
同じ時に、私は乾き、私は緑に息づく。
フランス語の理解のために付している日本語では、「私(je)」という主語を略さずにおいた。
その理由は、ルイーズ・ラベがあえてこれだけ数多く Je を主語とした短文を連ね、主語としての「私」を強調しているからである。
その上で注意しないといけないことがある。
16世紀には、個人としての意識が文藝の中で表出されることはなく、「私(je)」と書かれても特定の個人を指してはいなかった。
個人意識が確立し、その表出が文学の表現となるのは、19世紀まで待たなければならない。
そのことは、3行目の詩句の最初の「生」という言葉を、Ma vie ではなく、La vieとしていることからも見て取ることができる。
この詩の中のJe とは、詩人個人のことではなく、矛盾した感覚や感情を抱く人間の代表である。
je は、正反対の行動や、感情や、感覚を抱く。
一方にあるのは、肯定的な側面。
私は生き(je vie)、燃え(je brûle)、暑い(chaud)。
喜び(joie, plaisir)、笑い(je ris)、善きことが永遠に続き、(mon bien dure à jamais)、私は緑に息づく(je verdoie)。
他方は、否定的な側面。
私は死に(je meurs)、溺れ(me noie)、寒さに耐える(endurant froidure)。
酷く退屈で(grands ennuis)、泣き(je larmoie)、数多くの酷い苦しみに耐え(j’endure maint grief tourment)、乾いてしまう(je èche)。
こうした生(La vie)を生きることは、あまりにも弱々しく(trop molle)も、あまりにも呵責ないもの(trop dure)である。
その際、どちらにしても極端であり、あまりにも(trop)という言葉がその過激さを示している。
ところで、この8行の詩句の中では、なぜ「私」がそうした状態にいるのか、理由が示されていない。
別の言い方をすれば、「何が」私をそうさせているのか、あえて隠されている。
その謎かけをするために、jeを主語にした文が多用され、私の状態を描いている、と考えることができる。
謎の答えは、テルセに移ると、すぐに明かされる。
Ainsi Amour inconstamment me mène
Et, quand je pense avoir plus de douleur,
Sans y penser je me trouve hors de peine.
Puis, quand je crois ma joie être certaine
Et être au haut de mon désiré heur *,
Il me remet en mon premier malheur.
* heur : bonheur
こんな風に、愛の神は、絶え間なく私を引き回す。
私がますます苦痛を感じると思うとき、
それを考えないで、私は苦しみの外にいる。
喜びが確実だと思い、
望ましい幸福の頂点にいると思うとき、
愛は、最初の私の不幸に再び私を連れ戻す。

第一テルセの最初の詩句で、「私」は行為を蒙る目的語(me)であり、行為を行う主体は「愛の神(Amour)」であることが明らかになる。
二つのカトランで描かれた私の極端な(extrême)喜びや苦しみを引き起こしていたのは、Amourなのだ。
Amourという言葉の最初が大文字になり、冠詞が付けられていないことは、愛が擬人化され、固有名詞と同じ役割を果たしていることを示している。
ヴィーナス、キューピット、アフロディーテなどと同じだと考えていい。
愛の神は、常に私に勝利する。
そのことは、私が主体となり何かを感じ、考えるとしても、必ず反対のことが起こることから、はっきりと示されることになる。
私が苦痛(douleur)を感じると思う(je pense)と、私は苦しみから逃れている(hors de peine)。
喜び(joie)が確実(certaine)で、望んでいた幸福の頂点にいる(au haut de mon désiré heur)と私が思う(je crois)と、最初の不幸(mon premier malheur)に引き戻される。
愛の神(Amour)に対して私は無力であり、常に受身で、泣いたり、笑ったりするしかない。
しかも、その感覚や感情は過激であり、人間の力あるいは理性では抑制することができない。
その結果、矛盾した情念にもて遊ばれ、そこから逃れることはできない。

愛の神に捉えられたら逃れられない運命は、ソネットの最初と最後が繋がり、循環することで暗示される。
詩を締めくくる言葉「私の最初の不幸(mon premier malheur)」の最後の音は、[ eur ]。
その音が、冒頭の「私は生き、私は死ぬ」の死ぬ(meurs)の音と響き合う。
その反響によって、詩の終わりまで来ると、再び最初に回帰することが示される。
この詩は、ウロボロスのように、頭が尾を噛み、永遠に循環する。
Amourの力は、14行の詩句の中に、A-M-OU-Rの4つの音がちりばめられていることでも示される。
A : la, à, larmoie, va, à jamais, inconstamment, avoir, ma, malheur.
M : meurs, me, extrême, molle, larmoie, maint, tourment, mon, inconstamment, mène, mon, remet, premier, malheur.
OU : tourment, tout, coup, douleur.
R : meurs, endurant, froidure, trop, dure, plaisir, grief, endure, dure, douleur, être, certaine, remet , premier, malheur.
そのように考えると、ルイーズ・ラベは、パオロ・ヴェロネーゼの連作「愛のアレゴリー」を、詩によって表現したのだと考えてもいい。




ただし、ルイーズ・ラベはヴェロネーゼと違い、愛の神は、人間を幸福な結合に導くのではなく、矛盾した葛藤の渦の中に巻き込み、理性の抑制を失わせると歌う。
彼女によれば、愛とは人間を超えた超自然な力なのだ。

« Je vis, je meurs »のフランス語の解説。
詩の解釈だけではなく、詩法に関しても、参考になる点が多い。