江戸時代前半の絵画 将軍と大名、京都の貴族と高級商人の趣味

江戸時代の絵画というとすぐに浮世絵が浮かぶ。しかし、浮世絵は庶民を中心に人気を博したものであり、実際の主流は狩野派によって占められていた。

狩野派は、戦国時代の末期、織田信長や豊臣秀吉に重用された狩野永徳を始め、徳川幕府の初期に御用絵師となった狩野探幽たちにより、社会的な地位を固めていった。

京都では、狩野家と同時に、土佐派や住吉派が大和絵の伝統を守っていたが、それと同時に、俵屋宗達や尾形光琳といった個性的な画家たちも活躍した。

江戸時代の絵画を味わうためには、こうした大きな流れを知っておくことが必要になる。

狩野派

江戸時代に圧倒的な力を誇ったのは狩野派であり、17世紀から19世紀半ばまで、幕府の御用絵師集団という地位を守り続けた。

桃山時代に狩野派の基礎を築いた狩野永徳の一枚を見ておこう。
背景全体を金箔で覆い尽くした豪華金襴たる襖絵は、天下統一を成し遂げようとする武士たちの精神をそのまま表現しているように見える。力強い木々の枝が画面を突き抜け、躍動感がみなぎっている。

狩野永徳 檜図屏風

狩野探幽は徳川幕府の御用絵師となり、狩野派の画家たちが、将軍や大名の内裏や城郭などの障壁画をほぼ独占的に描くことになった。

探幽の画風は、戦さの時代から太平の時代へと変化する過程を反映して、永徳の誇張された表現が和らげられたものだといえる。
樹木が画面全体を埋め尽くすのではなく、余白の効果が考えられ、瀟洒な印象を生み出している。

狩野探幽 四季花鳥図(雪中梅竹鳥図)
狩野探幽 桐鳳凰図(六曲一双)

狩野派の根底は大陸から移入された漢画であるが、探幽は大和絵の伝統も取り入れ、より柔らかな表現の絵画も描いている。
「鵜飼図」は大和絵風の風俗画になっている。

狩野探幽 鵜飼図

幕府のある江戸ではなく、京都に残った狩野派の画家たちもいた。
京狩野派の代表として、狩野山雪の作品を見ておこう。

狩野山雪 老梅図

山雪は京都に残った画家らしく、着物や工芸品の装飾と類似した意匠と画法を用い、現代の用語を使えば、グラフィック・アート的な作品も手がけている。

狩野山雪 雪汀水禽(せつていすいきん)図

狩野派一門の絵師たちは大量の注文をこなすため、流派に伝わる伝統を学び、手本に忠実であることが求められた。伝統の維持と御用絵師としての勢力保持が、一門の命題だった。そのために、画風が異なり、一門から外れる画家もいた。

その中で最も魅力的な画家は、久隅守景(くすみ もりかげ)だろう。

久隅守景 四季耕作図

「納涼図」には、一家がのんびりとくつろぐ姿が描かれ、格式張った武家や貴族の室内を飾る絵画とは対極にある。

久隅守景 納涼図屏風(部分)

猿が木の上から手を伸ばし、水に映る月影を取ろうとする伝統的な画題を描いた「猿猴捉月図」。
白と黒の二匹の猿が重なり合い、前にいる猿が思案しながら下を見ている様子がユーモラスに表現されている。

久隅守景 猿猴捉月図

英一蝶(はなぶさ いっちょう)も、狩野派からはみ出した画家の一人。
彼の画筆は生き生きとした町人の姿を捉えている。

英一蝶 朝暾曳馬(ちょうとんえいば)図
英一蝶 人物雑画巻

大和絵の伝統:土佐派と住吉派

大和絵の伝統は土佐派によって保たれていた。
室町時代において、土佐派の中心は土佐光信。

土佐光信 星光寺縁起絵巻

土佐派はその後一旦衰えるが、1654年、土佐光起が京都の宮廷の絵所預(えどころあずかり)に任命され、土佐家中興の祖となる。

光起の「春秋花鳥図」を見ると、大画面の金地の上に、大きな樹木が枝を伸ばす様子が見られる。こうしたモチーフは狩野永徳に由来し、狩野派の影響力の強さを確認させられる。
別の視点から見れば、それは漢画(狩野派)と大和絵が融合した印でもある。

土佐光起 春秋花鳥図

土佐光起の代表的な画題は鶉(うずら)だと言われている。
秋の草花を背景とし、餌をついばむ鶉の姿は、大和絵的な穏やかさに包まれている。

土佐光起 秋草鶉図

土佐派から別れ、住吉の性を名乗り、住吉派の始祖となったのが、住吉具慶。
具慶は、狩野派と並び、幕府の御用絵師となった。

彼は大和絵の伝統に立ち、本顔料を使い、繊細な彩色を施した絵画を残している。

住吉具慶 観桜図屏風

俵屋宗達と尾形光琳

狩野派や土佐派、住吉派という画家集団に入らず、町絵師として独自に活動する画家たちもいた。
彼らの中でもとりわけ興味深いのが、俵屋宗達と尾形光琳。

宗達は京都で民間の装飾工房を営む絵屋であり、光琳も京都の呉服商の次男として生まれ、趣味人としての生活を送った。40代になってやっと画業に身を入れ始めたと言われている。
二人の共通点は、京都の上層階級にある商人たちの洗練された趣味を取り入れたところにある。

俵屋宗達の先導者ともいえるのが、本阿弥光悦(ほんあみ こうえつ)。
光悦は、工芸家、書家、画家、出版者、作庭師、能面など様々な分野で活躍し、趣味人として高い能力を発揮した。
彼の手による茶碗を見れば、洗練された趣味のよさが一目でわかるだろう。

本阿弥光悦 黒樂茶「雨雲」

本阿弥光悦と俵屋宗達がコラボレーションした作品に、「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」がある。
金銀泥(きんぎんでい)下絵を施した料紙は宗達による。その上に光悦が和歌を書で認めた。

本阿弥光悦 鶴下絵三十六歌仙和歌巻

宗達の代表作ともいえる「風神雷神図」。
風袋を手にした風神と太鼓を背負った雷雲の躍動感、二人の神の対比的な配置が、独特のリズム感を生み出している。

俵屋宗達 風神雷神図

「舞楽図」は、古い図様をそのまま用いながら、それらのモチーフの配置にリズム感を与えることで、高いデザイン性を示している。

俵屋宗達 舞楽図

大和絵の伝統的な主題である海岸を描いた絵画においても、グラフィック・アート的なデザイン性が強く表現される。

俵屋宗達 松島図

デザイン性は、動物をモチーフにした絵画にも十分に活かされている。

俵屋宗達 狗子図

烏丸光弘の筆による書の下に描かれた水墨画では、「たらし込み」という技法が使われ、墨の偶然の作用によって特有のムラができ、濃淡の微妙な階調が生み出されている。

俵屋宗達 牛図

緒方光琳が俵屋宗達を意識していたことは、宗達の「松島図」を模作したことでも知ることができる。

尾形光琳 松島図

光琳は宗達以上に大胆な構図を用い、デザイン性を高めた。

燕子花(かきつばた)を描いた代表作でも、現実の燕子花を描写することが目的ではなく、花が集まり塊になり、その塊がリズム感よく配置されている。
モチーフの構成がこの絵の主題に他ならない。

尾形光琳 燕子花図

「紅白梅図」の中央を占める水の流れは、着物の模様そのもの。その水流を挟み、右には紅梅が、左には白梅が配置される。

尾形光琳 紅白梅図

ここには現実の風景を再現しようという意図はなく、川も木も絵画のモチーフとして配置されている。この絵画は、現代の言葉を使えば、工芸デザインの意匠だと言える。


このように、幕府お抱えの画家集団から、京都を中心に活動する趣味人的画家の活動を概観すると、江戸時代前半の絵画が、武士や貴族を対象にしたものから、上層階級の商人に向けたものへと、徐々に変化してきたことを確認することができる。
そして、そうした注文主の変化が、趣味の洗練に繋がり、現代でもモダンに見える絵画を生み出していった。

こうした絵画が、江戸の庶民たちの娯楽となる浮世絵とも深い関係を持つことは驚くにあたらない。
例えば、歌川広重「亀戸梅屋舗」の大胆な構図とデザイン性は、宗達や光琳だけではなく、狩野派的な大樹からも大きなインスピレーションを受けているに違いない。

歌川広重 亀戸梅屋舗

江戸前期の絵画の豊穣さには驚くべきものがあり、様々な流派の絵画を見る楽しみは尽きない。

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