
ネルヴァルにはオリエントやドイツ、オランダなどに関する紀行文が数多くあり、多くの場合、「私」を主語にした一人称の文を書いてきた。
1850年になると、訪問先は外国ではなく、フランス、しかも彼が幼年時代を過ごしたヴァロワ地方になる。
そして、同時代の社会の出来事や風物だけではなく、子ども時代の思い出を語り始める。
思い出を語ることは、旅行先での自分の体験を語る以上に、自分の内面を語ることになる。
そして、そのことが、ネルヴァル的「私」のポエジーを生み出すことに繋がっていく。
ネルヴァルにおいて、「私」について語ることで、どんな風に詩情が生まれるのか?
そのメカニスムを、1850年に発表された「塩密売人たち(les Faux-Saulniers)」を通して跡づけてみよう。
(その作品は『火の娘たち』に収められた「アンジェリック」にかなりの部分が再録されているので、ある程度までは翻訳で読むことが可能。)
フランスでは今でもパブリックの文章の中では、「私(Je)」を使わず、「私たち(Nous)」と書くことがある。17世紀以来、「私」という代名詞を使うことは避ける方がいいという伝統があったというのが、その理由らしい。
1848年の2月革命以後、とりわけナポレオン一世の甥ルイ・ナポレオンが大統領に当選して以降、非常に抑圧的な政治が行われ、新聞などへの言論統制が強くなった。社会主義的な表現が取り締まられ、新聞の下の欄に掲載される「連載小説(roman-feuilleton)」が禁止されたりもした。
1850年、「塩密売人たち」と名付けた連載記事が掲載されたのは、まさにそうした時だった。
ネルヴァルは、検閲について言及しながら、彼の連載は虚構を含んだ小説ではなく、ビュコワ神父という実在の人物の歴史を辿るのだと主張する。そして、資料探しや実地検証についてのルポルタージュの過程で、どうしても「私」について語ることになってしまうと、言い訳めいたことを口にする。
Je suis encore obligé de parler de moi-même et non de l’abbé de Bucquoy. La compensation est mince. Il faut cependant que le public admette que l’impossibilité où nous sommes d’écrire du roman nous oblige à devenir les héros des aventures qui nous arrivent journellement, comme à tout le monde, — dont l’intérêt est sans doute fort contestable le plus souvent.
私は再び、ビュコワ神父についてではなく、私自身について語ることを強いられています。その見返りはほとんどありません。しかしながら、次のことを認めていただかなくてはいけません。「小説」を書くことができないために、私たちは日々起こる出来事の主人公になることを強いられているのです。そうした出来事は誰にでも起こることで、興味深いかといえば、多くの場合つまらないものなのですが。
ネルヴァルは自分のことを話したくてそうするのではないと、言い訳をしているように聞こえる。
実際、そのことは自己語りの言い訳なのだが、しかし、大変に「ネルヴァル的」な言い回しで、彼の語り口をとてもよく表している。
まず、小説を書くことができない状況に置かれているということで、政府の政策に対して反対の姿勢を、やんわりと、しかもこっそりと示す。
2年後にはナポレオン3世になる大統領が実施する言論統制。それに対するこうした皮肉を理解した読者は、ニヤリとしたことだろう。
その皮肉は、普通の人々の日常生活の出来事と、小説の「ヒーロー(héros)」の行為を重ね合わせるような表現をすることで、現実とフィクション(小説)の区別を混乱させる役割も果たしている。そのことも、小説と現実を区別する検閲に対する皮肉である
さらに、誰にでも起こる出来事しか書くことができないのでは、興味深くもないし、価値もないと付け加える。Intérêtという言葉の意味を二重に使い、そうした状況に作家やジャーナリストを追い込む政府の政策に疑問を呈するのである。
ネルヴァルの言葉の面白さは、そこで終わらない。
彼は実際には、普通の人々に起こる普通の出来事に興味も価値もないとは思っていず、本心では、そこに面白さを見出し、語る価値があると思っている。「私」は「みんな(tout le monde)」の一人。
だからこそ、「私」について語るのだ。
ネルヴァルはユーモアと皮肉の作家であり、彼の本心を読み取るまでには時間がかかる。しかし、一度彼の言葉の彩を理解できるようになると、ぐっと親近感が湧いてくる。
1808年生まれのネルヴァルは、1850年には48歳になっていた。
その彼が、幼年時代を過ごしたヴァロワ地方を訪れる。その時には、「私」語りの内容に思い出が多く含まれるようになるのは自然なことだろう。
Les souvenirs d’enfance se ravivent quand on a atteint la moitié de la vie. — C’est comme un manuscrit palympseste dont on fait reparaître les lignes par des procédés chimiques.
人生の半分に達すると、子供時代の思い出が生き生きと甦ってきます。— それはちょうどパリンプセスト写本のようです。そこに記されていた文字の線は、化学的な方法を使うことで、再び見えるようになります。
紙が普及する以前には、羊皮紙が用いられていた。当時、羊皮紙は大変に高価だったので、しばしば、一度書いた文字を消して、その上に別の文字を書くことがあった。
パリンプセストとは、書かれた文字を消し、別の文字を上書きした羊皮紙の写本を意味する。
ところで、最初に書かれた文字は完全に失われてしまうのではなく、化学薬品などを使い、読み取ることができた。
文字の下に、別の文字が浮かび上がってくる。
ここでネルヴァルは、見える文字の下にさらに別の文字が隠されているパリンプセスト写本の状態を、忘れているけれど時々甦る思い出の喩えとして用いている。
現実とは現在だけで成り立っているのではなく、現在の下には常に過去が潜んでいる。そして、時々、現在の流れの中に顔を出す。
ヴァロワ地方の秋の美しい風景を通りかかる時には、絵画が思い出の役割を果たすこともある。


— En ce moment, malgré la brume du matin, nous apercevons des tableaux dignes des grands maîtres flamands. Dans les châteaux et dans les musées, on retrouve encore l’esprit des peintres du Nord. Toujours des points de vue aux teintes roses ou bleuâtres dans le ciel, aux arbres à demi effeuillés, — avec des champs dans le lointain ou sur le premier plan des scènes champêtres.
Le voyage à Cythère de Watteau a été conçu dans les brumes transparentes et colorées de ce pays. C’est une Cythère calquée sur un îlot de ces étangs créés par les débordements de l’Oise et de l’Aisne, — ces rivières si calmes et si paisibles en été.
Le lyrisme de ces observations ne doit pas vous étonner ; — fatigué des querelles vaines et des stériles agitations de Paris, je me repose en revoyant ces campagnes si vertes et si fécondes ; — je reprends des forces sur cette terre maternelle.
— この時期、朝靄にもかかわらず、私たちはフランドル派の偉大な画家たちの絵に匹敵する景色を目にします。城や美術館にいけば、今でも北方の画家たちの精神が見つかります。空にはバラ色や青みがかった色彩がポツポツとあり、木々の葉は落ちかかっています。— 遠景には野原があり、前景は田園風景です。
ヴァトーの「シテール島への旅」は、この地方の透明で色彩豊かな霧の中で構想されました。オワーズ川やエーヌ川が溢れ出した時に出来た池の中の、小さな島を模写して描いたシテール島です。— 小さな二つの川は、夏の間はとても大人しく穏やかなのですが。
こうした考察の抒情性が、人をびっくりさせることはないでしょう。— パリの虚しい争いや不毛な喧噪に疲れてしまった私は、こんなに緑で、こんなに豊かな田舎の風景を見て、心を安らげるのです。— この母なる大地の上で、活力を取り戻すのです。
パリの北約80キロに位置するサンリス。その古い町を取り囲むエルムノンヴィルの広大な森は、現代でも豊かな自然に恵まれ、美しい風景を楽しむことができる。
アントワーヌ・ヴァトーは、ベルギー国境に近いヴァランシエンヌで生まれ、昔で言うところのフランドル地方出身の画家と言うことができる。
19世紀の半ばまで、彼の作品の中で「シテール島への巡礼」だけがルーブル美術館に展示されていたと言われており、ネルヴァルも実際に見ることができたと考えられる。
そして、ここでは、ヴァトーの絵画のモデルとして、パリ北方に広がるヴァロワ地方の豊かな森と湖の風景を提示している。
シテール島とはエーゲ海にあるギリシアの島。愛の女神アフロディーテ(ヴィーナス)に捧げられた神殿があり、古代から愛の島として知られ、数々の芸術作品の中で取り上げられてきた。
ヴァトーの「シテール島への巡礼」も、そうした作品の一つであり、古代の愛の神話を描き直したものでもある。
従って、サンリス付近の美しい風景は、ヴァトーの絵画を内包し、その絵画は古代ギリシアの神話を内容していることになる。まさにパリンプセスト状態!
そのパリンプセスト的風景の美に、「私」は「抒情性(lyrisme)」を感じ、心癒され、活力を取り戻す。
「私」はその理由を次のように説明する。
Quoi qu’on puisse dire philosophiquement, nous tenons au sol par bien des liens. On n’emporte pas les cendres de ses pères à la semelle de ses souliers, — et le plus pauvre garde quelque part un souvenir sacré qui lui rappelle ceux qui l’ont aimé. Religion ou philosophie, tout indique à l’homme ce culte éternel des souvenirs.
哲学的にはどんな風に言おうとも、私たちは大地と数多くの絆で繋がっています。祖先の灰を靴の底につけて運ぶことはないのです。— 何一つ持たない人間でさえ、どこかに神聖な思い出を保っていて、その思い出が彼に、愛してくれた人々のことを思い出させるのです。宗教であろうと哲学であろうと、全てのことが人間に、思い出にまつわるこの永遠の信仰を指し示しています。
一人一人の人間が故郷の大地と繋がっていて、その思い出が消え去ることはない。
「思い出にまつわるこの永遠の信仰(ce culte éternel des souvenirs)」。
それこそが、抒情性を生み出す源となる。— ポエジーの源泉。
故郷の自然の美しさに心を動かされ、夢想に浸り、詩情を感じるこうした心持ちは、ネルヴァルの独創的な考えではなく、前任者がいた。
その人とは、ジャン・ジャック・ルソー。
C’est le jour des Morts que je vous écris ; — pardon de ces idées mélancoliques. Arrivé à Senlis la veille, j’ai passé par les paysages les plus beaux et les plus tristes qu’on puisse voir dans cette saison. La teinte rougeâtre des chênes et des trembles sur le vert foncé des gazons, les troncs blancs des bouleaux se détachant du milieu des bruyères et des broussailles, — et surtout la majestueuse longueur de cette route de Flandre, qui s’élève parfois de façon à vous faire admirer un vaste horizon de forêts brumeuses, tout cela m’avait porté à la rêverie. En arrivant à Senlis, j’ai vu la ville en fête. Les cloches, — dont Rousseau aimait tant le son lointain résonnaient de tous côtés […].
死者の日(11月2日)に、私はこの記事を書いています。— こんなメランコリックな考えをお伝えしてしまい、申し訳ありません。昨日サンリスにやってくる時、私はこの季節に見ることができる中で最も美しく最も哀しい風景の中を通ってきました。芝の深い緑の上には樫とポプラの赤みがかった色。ヒースや茨の灌木の真ん中にそそり立つ白樺の白い幹。長く堂々としたフランドル街道が所々で高くなり、霧に霞んだ森の広大な地平線を見事に見せています。そうした全てが私を夢想に誘いました。サンリスに到着すると、街はお祭りであることがわかりました。鐘の音、遠くから聞こえるのをルソーがあれほど愛した鐘の音が、あらゆるところから響いてきていたのです。(後略)
サンリスの鐘の音を聞き、ルソーを思い出す。そこにもパリンプセスト的連鎖がある。
そして、自然の美が「夢想(rêverie)」に誘うのも、ルソー的。
https://bohemegalante.com/2019/04/21/rousseau-reveries-extase/
目の前にしている光景や耳に入る鐘の音が、ルソーの思い出を甦らせ、「私」を夢想に誘う。その夢想は子供時代へと「私」を導き、メランコリックな想いで「私」を満たす。
その時に意味を持つのは、「私」の思い出であり、「私」の子供時代。
その主観性の中で、ポエジーは生まれる。
「私」について語ることが抒情性を生み出すのは、そのためなのだ。
そのことは、「民謡(chansons populaires)」に関するネルヴァルの姿勢から、明確に理解できる。
1842年に初めて民謡を紹介した記事では、民謡は古くからフランスに伝わるものとされ、型にはまった韻文に音楽性を付け加えるためのモデルとして紹介された。
しかし、1850年には、ヴァロワ地方と結び付けられ、しかも次のような表現が使われる。
J’ai été bercé avec cette chanson.
私は、この民謡に揺すられ、寝かしつけられたのです。
ヴァロワ地方で幼年時代を過ごした「私」の子守歌だった歌。
この表現は、言論統制の法律によって「私」のことを語らなければならないといかにも不満そうに言ったネルヴァルが、実はそのことを利用して、抒情性の源泉となる散文を生み出そうとしたことを、密かに読者に告げているといってもいい。
ネルヴァルがこの世を去るのは1855年1月。彼に残された時間は、4年と少々。
彼は、「塩密売人たち」を新聞に連載しながら、実際にヴァロワ地方を訪れ、「私」風の語りを通してポエジーを生み出す術を見出していった。
そして、この時から、ネルヴァルの傑作と言われる作品が次々に生み出されることになる。
ネルヴァルの描いたヴァロワ地方の風景については、以下のビデオで見ることができる。