
ジャン・ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau, 1712-1778)は、最晩年に、『孤独な散歩者の夢想』(Rêveries du promeneur solitaire)という作品を執筆した。それは、自分の生涯を赤裸々に語る『告白』(1782-89)の後に書かれ、過去を振り返りながら、自己の内面の動きを綴ったものだった。
この作品の「第5の散歩」の章では、人々から迫害されたルソーが、スイスのビエンヌ湖(Lac de Bienne)にあるサン・ピエール島(île de Saint-Pierre)に滞在し、湖の畔で夢想にふける場面が描かれている。
そこで彼は、波の音と自分の心臓の鼓動が一つになり、至福の時を体験する。
それは、自己と自然が一体化し忘我に達する瞬間であり、その体験が非常に美しい文章で描かれている。音楽性も大変に優れていて、スイスの湖の畔に座る「私」の心の鼓動と波の動きが重なり合う波長が、文章のリズムによって見事に表現される。
湖の岸辺での夢想は、ルソーに甘美な喜びをもたらす。その様子は次のように描かれている。

夕方が近づくと、島の高いところから下り、湖の畔、砂浜の上にある、ひっそりとした場所に、好んで座った。すると、波の音や水面の動きで五感が固定され、波以外の全ての動きが魂から消え去る。そして、魂は甘美な夢想にふけるのだった。夜になったことにびっくりするまで、気づかずにいるほどに。

波が行ったり来たりし、その音が絶え間なく続き、時には大きくなり、絶えず耳や目を打った。水の動きと音が、夢想していると消えていく内面の動きに取って代わる。今ここに存在しているという感覚を、無理に考えてみなくても感じられることが、私にはうれしかった。
時々、短い時間だが、この世の事物は移り変わりやすいと、おぼろげに考えることもあった。波の動きが、そのはかなさのイメージだった。しかし、そうしたわずかな印象もすぐに消え去った。絶え間なく続く単調な動きが、揺り籠のように私を揺すり、魂が能動的に動かなくても、私を強く捉えたのだった。時間が来て、いつもの合図で呼ばれても、私はよほど努力しないと、そこから離れられなかった。
Quand le soir approchait je descendais des cimes de l’île et j’allais volontiers m’asseoir au bord du lac sur la grève dans quelque asile caché ; là le bruit des vagues et l’agitation de l’eau fixant mes sens et chassant de mon âme toute autre agitation la plongeaient dans une rêverie délicieuse où la nuit me surprenait souvent sans que je m’en fusse aperçu. Le flux et reflux de cette eau, son bruit continu mais renflé par intervalles frappant sans relâche mon oreille et mes yeux, suppléaient aux mouvements internes que la rêverie éteignait en moi et suffisaient pour me faire sentir avec plaisir mon existence sans prendre la peine de penser. De temps à autre naissait quelque faible et courte réflexion sur l’instabilité des choses de ce monde dont la surface des eaux m’offrait l’image : mais bientôt ces impressions légères s’effaçaient dans l’uniformité du mouvement continu qui me berçait, et qui sans aucun concours actif de mon âme ne laissait pas de m’attacher au point qu’appelé par l’heure et par le signal convenu je ne pouvais m’arracher de là sans effort.
http://clicnet.swarthmore.edu/litterature/classique/rousseau/promenade5.html
朗読(58秒から)
この詩的な散文を三つの部分に分け、分析的に読んでみよう。
Quand le soir approchait je descendais des cimes de l’île et j’allais volontiers m’asseoir au bord du lac sur la grève dans quelque asile caché;
Quand le soir approchait(6音節) – その時、夕方が近付いていた。
je descendais des cimes de l’île,(9)- 私は島の上の方から下りていった。(cimeは一番高いところ。)
Et j’allais volontiers m’asseoir (8)- そして、好んで座った。
座ったところは、3つの表現で示される。
au bord du lac(4)- 湖の畔
sur la grève (3)- 砂地の上
dans quelque asile caché(7)- あるひっそりとした(隠れたーあまり人から見えない)場所。
フランス語の文章では、概念的な大きな要素から細部へという順番で、言葉がつながって出てくる。映画で、カメラをズームにしていく場合を思い描くといい。
ここでは、まず湖の畔が映し出される。そこには砂地があり、最後にひっとりとした場所が見える。
この状況を描き出す散文の音節数は、6 / 9 /8/4/ 3 / 7。
Quand le soir approchait / je descendais des cimes de l’île / et j’allais volontiers m’asseoir / au bord du lac / sur la grève / dans quelque asile caché;
この音の数が連なるリズムから、すでに湖の岸辺に打ち寄せる小さな波の動きを感じることができる。
こうして岸に座った後、記述は、目の前の光景から夢想へと進む。
là le bruit des vagues et l’agitation de l’eau fixant mes sens et chassant de mon âme toute autre agitation la plongeaient dans une rêverie délicieuse où la nuit me surprenait souvent sans que je m’en fusse aperçu.
その場所で(là)、波の音(le bruit des vagues)と、波の動き(l’agitation de l’eau)が五感を固定し(fixant mes sens)、魂から他の動きを追いだしてしまう(chassant de mon âme toute autre agitation)。そうした中で、魂は夢想に浸り(la plongeaient dans une rêverie)、甘美な感覚(délicieuse)を味わう。そんな夢想の最中、しばしば、いつの間にか夜になっているのびっくりし(la nuit me surprenait souvent)、そのことに気付きもしなかった(sans que je m’en fusse aperçu)。
音節数を確認すると、次の様になる。
1 / 5 / 8 /4 / 13 / 13 / 9 / 8
là / le bruit des vagues / et l’agitation de l’eau / fixant mes sens / et chassant de mon âme / toute autre agitation / la plongeaient dans une rêverie délicieuse / où la nuit me surprenait souvent / sans que je m’en fusse aperçu.
最初に一音節で始まりながら、途中からは非常に長い音の連なりになり、あたかも感覚や意識が言葉のリズムに呑み込まれるような感じがする。
この音楽的な散文でルソーが語るのは、五感の中でも彼にとってとりわけ重要な聴覚と視覚な刺激である。触覚でも臭覚でも味覚でもなく、ルソーは視覚と、とりわけ聴覚によって、外の世界とつながっている。
その波の動き(視覚)と音(聴覚)が、夢想者の五感を固定し、自己意識を失わせる。彼は湖の畔に座りぼっとし、何も考えず、波の動きと音だけをおぼろげに感じる。こうした我を忘れた状態が、夢想をますます甘美なものにする。
音楽性に関して言えば、ルソーは音楽を教え、作曲もしていた。彼の代表作は「村の占い師」le devin du village。
このオペラの中で劇中劇が演じられるが、その中の一節が、日本でよく知られている「むすんでひらいて」のメロディーに似ていると言われている。
http://www.worldfolksong.com/closeup/musunde/page2.htm
構文の理解のために
Là以下の文の構文は、現代のフランス語では考えられないほど複雑に入り組んでいて、文学的なフランス語を読み慣れていないフランス人にも難しいと感じられるに違いない。
複雑な構文の理解のためには、SVOC以外に、名詞を説明する要素、動詞を説明する要素などについて、しっかりと知る必要がある。
1)名詞に情報を加える要素
名詞(同格)
形容詞
関係代名詞
2)動詞に情報を加える要素
副詞
3)名詞も動詞もに情報を加える要素
前置詞+名詞
分詞(現在分詞、過去分詞)
接続詞+文
Làで始まる分の基本的な構造は単純である。
SVO : Le bruit et l’agitation la plongeaient (l’âme).
この文に、様々な要素が加わり、寄せては返す波のような印象を生み出す散文が生み出される。
A. 前置詞+名詞
a. 名詞に新しい情報を加える場合
le bruit / des vagues (音/波の)
l’agitation / de l’eau (動き/水)
b.動詞に新しい情報を与える場合
(…) l’a plongeaient / dans une rêverie (魂を付ける/夢想の中に)
la nuit me surprenait souvent / sans que je m’en fusse aperçu.
夜が私を驚かせた。そのことに気付かなかった。
surprendre(驚かせる)という動詞に対して、前置詞+文というの要素で状況を説明。souventという副詞とsans que文は、動詞に対して同じ働きをしている。
B. 現在分詞
a. 名詞に新しい情報を加える場合
le bruit et l’agitation / fixant mes sens / et / chassant de mon âme toute autre agitation
感覚を固定する/私の魂からまったく別の動きを追い払う
le bruit とl’agitationに、2つの現在分詞(fixant et chassant)が関係。
C. 関係代名詞
une rêverie délicieuse où la nuit surprenait […].
名詞rêverie / 形容詞 délicieuse / 関係代名詞 où 文
夢想 / (1)délicieuse甘美な / (2)où la nuit me surprenait 夜が私を驚かせた。
形容詞と関係代名詞は、名詞に対して同じ働きをする。
五感が固定され、内面の動きがとまった後、何が起こるのだろうか。
Le flux et reflux de cette eau, / son bruit continu / mais renflé par intervalles / frappant sans relâche mon oreille et mes yeux /, suppléaient aux mouvements internes / que la rêverie éteignait en moi / et suffisaient / pour me faire sentir avec plaisir mon existence / sans prendre la peine de penser.
波の動きのような文が続き、読者を夢想に誘いながら、外の世界と内面が一つになる様子が語られる。
音節の数は、8 / 5 / 7 / 12 / 9 / 10 / 10 / 13 / 9 。
湖の波が長くなったり、短くなったりしながら、岸に打ち寄せているリズムを感じる。とりわけ、最も重要な表現であるmon existence (私が存在するという感覚)を含む後半部分の音節は長く、波に呑み込まれるような印象を生み出している。
こうした長い文ではあるが、主語と動詞の枠組みは明確である。
a. Le flux et le reflux, son bruit […] suppléaient aux mouvements […] / et suffisaient […]
波の満ち引きとその音/代わりになる/動き/そして、十分。
この構文が理解できれば、水の動きが内面の動きの代わりになったという、中心的なテーマを理解することができる。
その上で、名詞と動詞に、様々な仕方で説明が加えられている。
主語の一部であるson bruit(水の音)には、三つの仕方で付加的な説明がされている。
a. 形容詞、continu (継続する)
b. 過去分詞、renflé par intervalles (時々大きくなる)
c. 現在分詞、frappant sans relâche mon oreille et mes yeux (絶え間なく私の耳と目を打ちつける)
les mouvementsには、二つの説明が付く。
a. 形容詞、intérieurs (内部の、心の中の)
b. 関係代名詞 que la rêverie éteignait en moi (その動きを夢想が私の中で消し去った)
suffisaientには、前置詞+動詞の原形(名詞)で、二つの付加的な要素が加えられる。
a. pour me faire sentir avec plaisir mon existence (自分の存在を感じることができ、喜びを味わう。)
b. sans prendre la peine de penser. (わざわざ何かを考えるということはない。)
内面の動きが固定化した後、外部の水の動きと音が内面の動きを補うと感じる。それはまさに、自己と外部の世界の一体化である。
スイスの小さな湖の畔に座り夢想にふけっているルソーは、いつの間にか自己意識を失い、水の音が自分の心臓の鼓動であるように感じる。
こうした体験は、小川のせせらぎの音を耳に、目を閉じて聞き入っているときに感じる、私たち自身の体験であるともいえる。私たちは小川の音に包まれ、世界と自分が一つになることを感じる。我を忘れ、時間を忘れる幸福な状態。
私たち日本人は、自己と自然の一体化を感じるとき、自分という存在が世界の中に溶け込み、無になったように感じる。他方、ルソーは、自分の存在感覚(mon existance)を感じたと記す。
「存在感覚」について、ルソーは次のように記している。
しかし、魂が十分強固な基盤を見いだして、そこにすっかり安住し、そこに自らの存在を集中して、過去を呼び起こす必要もなければ、未来に想像をめぐらす必要もないような状態、時間が魂にとってなんの意味もないような状態、いつまでも現在が続いていくが、しかもその接続を感じさせず、連続しているという痕跡もとどめず、欠乏も所有も、快楽も苦痛も、欲求も恐怖も、どんな感情もなく、ただ自分が存在するという感情だけがあって、この感情だけで魂の全体を満たすことができるような状態、もしこういう状態があれば、それが続く限り、そのなかにいる人は、幸福なひとと呼ぶことができよう。それは人生のさまざまな楽しみのうちに見いだされるような、不完全で、みじめで、相対的な幸福ではなく、充実した完全無欠な幸福であって、もはや魂のうちには、埋めなければならないどんな空洞も残されていないのである。
(中川久定『自伝の文学』岩波新書、1974年、pp. 73-74。)
我を忘れている時には、時間の意識も消え去っている。時間が存在しないということは、今が永遠に続いているということ。そこで中川久定は、その状態を「永遠の現在」と呼ぶ。
哲学では、時間が流れる現実に対して、時間のない永遠はイデア界を意味する。
その視点からは、ルソーは、イデアを自己と自然の一体化の状態の中に見出したと考えることもできる。
波が寄せては引くのと同じように、意識も明滅する。
波の音が心臓の鼓動に代わってからも、かすかな意識が持っててくる。そして、また消滅する。
De temps à autre / naissait quelque faible et courte réflexion / sur l’instabilité des choses de ce monde / dont la surface des eaux m’offrait l’image :
De temps à autre (時々)という副詞表現は、意識の回帰が一度限りの出来事ではなく、反復されることを暗示している。
quelque faible et courte réflexion
時々戻ってくる意識は、うつらうつらしている時のように、おぼろげで、短い時間しか続かない。
その時に考える内容は、この世の事物の不安定さ、はかなさ(l’instabilité des choses de ce monde)。時間の推移とともに、全てのものは消え去ってしまう。
湖の表現に見えるさざ波は、その不安定さの姿のように見える(l’instabilité (…) dont la surface des eaux m’offrait l’image.)。
興味深いことに、意識を現実に戻すきっかけは、水の姿であり、視覚による。
ルソーにおいて、視覚と聴覚が他の三つの感覚よりも大きな役割を果たすとして、視覚は現実に近く、聴覚は夢想へと誘う機能を担っている。
湖畔で夢想しながら、この世にあるものは全て儚いものだと頭のどこかによぎることがある。水の動きはそのはかなさを反映している。
プラトンは現実のはかなさに対して、不動のイデア界を想定し、イデアこそが真実であり、現実はその影にすぎないという哲学を打ち立てた。
ヨーロッパの思想は、概ね、プラトン哲学に基礎を置いている。
時間の流失は文学の主要なテーマでもある。多くの詩人が、時間の流れ去ることを嘆き、歌った。しかし、その態度は異なっている。
ルネサンス時代の詩人ロンサールは、今を生きる(Carpe Diem)ことを説いた。
https://bohemegalante.com/2019/03/09/ronsard-mignonne-allons-voir/
ロマン主義の代表的詩人ラマルティーヌは、不在の過去を理想とし、現在の欠如をメランコリックに歌い上げることで、抒情的な美を生み出した。
https://bohemegalante.com/2019/03/18/lamartine-le-lac/
20世紀の詩人アプリネールは、ミラボー橋の上で流れていくセーヌの流れを見つめ、今を捉え、言葉そのものの美を作り出した。
https://bohemegalante.com/2019/03/08/apollinaire-pont-mirabeau/
18世紀は啓蒙の世紀であり、感覚主義が時代の思想となっていた。ルソーの友人のディドロであれば、感覚が捉える現実の物質に哲学の原理を探った。
そうした中で、ルソーは、感覚が捉える事物に不安定性を感じ取り、自己と世界が溶け合う夢想を通して、今を永続的に捉える感性を作り上げる。
おぼろげに反省意識が戻ってくるときがあったとしても、単調な反復運動の中で、再び我を忘れる状態へと収束していくのは、そのためである。
mais bientôt / ces impressions légères / s’effaçaient / dans l’uniformité du mouvement continu / qui me berçait, / et qui / sans aucun concours actif de mon âme / ne laissait pas de m’attacher / au point / qu’appelé par l’heure / et par le signal convenu / je ne pouvais m’arracher de là / sans effort.
ここでは単調さ(l’uniformité)が強く意識される。単調で画一的なものは、刺激がなく、意識を眠りに導く。
ルソーの散文も、再び波の動きに戻り、3 / 7 / 3 / 13 / 4 / 2 / 10 / 8 / 2 / 5 / 8 / 9 / 3と、3音節で始まり、最後は3音節に戻ってくる。
その間、もっとも重要な単語である「単調さ」(uniformité)の入った文だけ13音節ととりわけ長く、私を揺り籠のように揺する(qui me bercait)という作用は4音節で告げられる。
文の基本的は構造は、主語のces impressions (そうした印象)と、動詞のs’éffaçaisent(消え去っいた。)という、最も基本的な要素から成り立っている。
その消え去った場所が、l’uniformité du mouvement (動きの単調さ)。
かすかな意識も、単調な動きの中で消えてしまう。
その動き(mouvement)に、三つの要素で説明が加えられる。
一つは形容詞。後の二つは関係代名詞quiによって導かれる文。
a. 動きは継続的。continu。
b. 動きは、私を揺する。(qui me berçait)
動詞(bercer)は、揺りかご(berceau)を連想さえ、夢想者が湖の波の動きと音に揺られ、うとうととしている様を連想させる効果を持っている。
c. 動きは、私を強く引きつけるのをやめない。(qui (…) ne laissait pas de m’attacher)
3つめの、単調な動きが私を引きつけるという点に関しては、二つの仕方で、程度が示される。
a. 魂が積極的に働かない(sans aucun concours actif de mon âme)と付加的に言うことで、夢想の無意志的な側面が強調される。
b. au point que (の点まで)という程度を表す表現が使われ、意志の力を発揮させないと、そこから立ち去ることができないことが示される。
最後の文は、主語と動詞という文の主要素がもっとも重要な意味を担っていないことに注目しよう。意味の面でも、文のリズムも面でも、単調な動きという、状況を説明する副次的な要素が大きな役割を果たしている。それが言葉のリズムを生み出し、波が寄せては返すように、くねくれとうねって、読者を夢想に導いている。
岸辺にいる夢想者の前で、波が寄せては返す。その継続的で反復する動きが、この散文から感じられ、そのリズムにのって波の音も聞こえてくるように感じられる。
夢想を語る言葉のうねりが、読者を夢想に誘う。
私たちは、ルソーのように、スイスの美しい湖の畔にいるのではない。しかし、この音楽性豊かな散文を読みながら、水の音に誘われてうとうとと夢想するように、自己と世界との境目が溶け、世界と一体化する恍惚感を味わうことが出来る。
ルソーの言う絶対的な幸福をもたらすポエジーが、ここにはある。
ルソーの夢想の文学的意義はどこにあるのだろうか。
人間は孤独を恐れ、人との繋がりの中で生き、孤独を避けるものと考えられがちである。
しかし、ルソーは孤独の中で夢想し、自己と自然の一体化を通して、自分が存在するという十全の感覚を味わい、絶対的な幸福を得る。
その体験は、どのような意義を持つのだろうか。
17世紀後半の劇作家モリエールは、『人間嫌い』の中で、社会から追放される人間を主人公に据えている。
ルイ十四世が君臨した宮廷社会やサロンでは、その場に相応しく行動し、他者と合わせることが礼節であり、絶対的な価値観を形成していた。
主人公アルセストの友人フィラントや、彼が愛するセリメーヌは、八方美人な行動を常とし、本心を明かさない。それに対して、アルセストは自分の考えを正直に伝えることが正義だと考え、オロントの作った詩を彼の面前であからさまに悪くいったりする。そのために裁判に訴えられ、訴訟に負け、社会生活を捨てて孤独を選択する。
こうしたアルセストの姿が、ルソーの孤独な散歩者の先祖ではないかと、ジョン・E・ジャクソンというスイスの学者は述べている。(『ロマン主義的な記憶と主観性』Mémoire et subjectivité romantiques, José Corti, 1999.)
18世紀後半、ルソーも友人達から迫害されているという思いに駆られてパリを離れ、スイスの自然の中に身を潜めた。社会と個人の対立の中で、価値を個に置いた結果といえる。
一般的な価値観では、社会生活の方が個人の思いよりも強かった時代、ルソーは、自己の内面と自然が一体化するのを感じ、神のような充足感を見出すことで、自己の内面に価値があることを発見したのだといえる。
別の言葉で言えば、社会的な地位ではなく、個人の感情や思いに価値があるという考え方を発明した。
1820年代に生まれるロマン主義は、ルソー的な内面の価値を基本的な思想としている。
外部はここにあり、目に見える。
内面は目に見えず、ここにない不在のもの。
見えるものと見えない物、存在と不在、現実と夢、正気と狂気、文明社会と自然、都市と地方が対立的に描かれ、後者に価値付けが置かれる。大切なものは目に見えない、といったように。
ロマン主義の代表者であるヴィクトル・ユゴーは、1822年に出版した詩集の序文で次のように述べている。
「現実世界の下に理想の世界がある。その世界が輝かしい姿を現すのは、深い瞑想によって、事物の中に事物以上のものを見ることに慣れている人々に対してである。」(『オードとバラッド』序文)
理想の世界、つまりイデア界は、現実世界の上にあると考えるのが普通である。しかし、ユゴーは理想世界が現実世界の「下」にあると言う。下とは、地下という意味ではなく、人間の内面だと考えられる。瞑想は、ルソーの夢想に対応する。
そのように考えると、現実以上のものがあるのは、人間の内面、心の中であることがわかってくる。
ロマン主義において、現実は喪失の時であり、何かが欠けている。だからこそ、決して得ることができないとわかっているもの、ここにはない充足した時、十全さを求める。
そのメランコリックな渇望、理想へのあこがれから、ロマン主義的な抒情が生まれる。
1846年になると、シャルル・ボードレールが、絵画論の中で、ロマン主義とは、「内密さ、精神性、色彩、無限へのあこがれ」と述べる。(『1846年のサロン』)
ルソーの見出した内面が、ユゴーによってイデアと結びつけられ、ボードレールでは詩の原理となったのである。
1862年に書かれた「芸術家の告白」の中には、無限を痛いほど感じる芸術家の自己は、「夢想の中ですぐに失われてしまう」と一節がある。
その夢想という言葉はルソーの夢想を思わせる役割を果たしている。
https://bohemegalante.com/2019/02/20/baudelairle-confiteor-de-lartiste/2/
以上のように見てくると、17世紀の宮廷やサロンの社会的規範から離れ、孤独の中で内面の価値を見出したルソーの思想が、ロマン主義の根本的な原理であることが理解できる。
西欧的感性と日本的感性
自己と自然との一体化の中での絶対的な幸福感は、日本的に言えば、忘我の状態だといえる。我を忘れ、時間を忘れて夢中になるとき、日本人はもっとも幸せだと感じる。
こうした類似した状態でありながら、ルソー的な恍惚感と日本的忘我では、本質的な違いがある。
一つは、有と無。
ルソーであれば、内面の動きに波の動きが取って代わったとき、自分が100%存在しているという感覚を味わい、何も欠けたものがない状態にあると感じる。その自分が自分で満たされている状態を、神のようだと感じる。
他方、日本人にとっての忘我とは、我を忘れることであり、無の状態と考えられる。無は空であり、無我の境地が理想の心理状態と見なされる。
西欧人の思考では、無が肯定的であることは考えにくい。
こうして、同じ状態が、正反対の感覚で捉えられることに注意したい。
もう一つは永遠についての考え方。
ルソーは夢想の中で永遠を感じる。
現実世界には時間が流れ、全ては束の間の存在にすぎない。幸福なことがあっても、その状態は変化してしまい、相対的なものでしかない。
夢想ではその時間が止まり、永遠が出現する。だからこそ、幸福も絶対的なものになる。
日本では、永遠は現在の連鎖として捉えられる。
全てははかなく消え去っていく。全ては虚しく、時に押し流される。しかし、そのようなはかなさに美を感じる。永遠に続くもの(イデア)に美を感じるのではなく、消え去るもの、消え去ろうとするものに哀れみを感じ、美を読み取る。
そうした感性は、今の一時性を前提にした上で、今が次々と続くという時間意識を持っているからこそ、生まれてくるのだと考えられる。
吉田兼好は、心に浮かぶよしなし事を徒然なるままに書き記した。その思いは互いに関連がなく、一瞬のうちに消えてしまう。人の命ははかなく、人の心は信用できない。栄枯盛衰は早く、何事もあてにならない、等々。
こうした虚しい。しかし、それらは次々に生起する。全てのものははかなく消える。だが、今という一瞬の時は、次々に連続する。
この「次々に」というのが、日本的な時間意識の根本にある。
西洋の理想が永遠にあるとすると、日本の美は今の継起に由来する。
>波が寄せては引くのと同じように、意識も明滅する。
何だか、ストンと腹落ちするものがありました。
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ルソーのこの文章は、日本人には分かりやすいようです。自己が自然と対峙する西欧的な思想からすると、腑に落ちないかもしれません。
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そうですね。対象と対峙するか、自身がそこに内包されるか、根本の発想の違いがありますね。
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