モリエール 外見の偽りを暴く笑い

Nicolas Mignard, Molière

モリエールは17世紀後半を代表する喜劇作家であり、ルイ14世の庇護下にありながら、かなり過激な作品を上演することもあった。
王でさえ庇いきれず、上演を禁止にせざるをえないこともあったほどである。

実際、彼の喜劇は、私たちが普通にイメージする喜劇とはかなり違っている。笑わせることだけを目的にしているのではなく、社会批判を含んでいることがはっきりと感じられる作品が多い。

その笑いは、「楽しませながら、教育する」という17世紀の演劇の大原則に基づき、笑わせながら、社会生活を歪める人間の行動を告発し、当時の観客に一つの行動規範を示したとも考えることができる。

モリエールが笑いの対象にした人間の姿を辿りながら、彼の喜劇が目指したものが何か探ってみよう。

モリエールの本名は、ジャン・バチスト・ポクラン。1622年に生まれ、1673年に死んだ。
彼はパリの裕福な商人の家に生まれ、青年時代は法律を学び、弁護士の資格を得た。しかし、その間に演劇に興味を持ち、1843年、劇団を結成、芝居の道に進む。ところが劇団の経営は順調にはいかず、1645年には借金のために投獄されてしまう。
その後、パリを離れ、南フランスで巡業をして1658年まで過ごした。その13年の間に、彼は音楽や大仕掛けのある芝居を手がけたり、笑劇や喜劇の台本を書いたりといった経験をする。そんな中で、役者だけではなく、劇作家、劇団の座長としての役割をこなし、それ以降の活動の基礎を築いていった。

1658年、パリに戻ったモリエールは人気を博するようになり、宮廷での上演も実現する。そして、数々の喜劇作品を執筆し、多くの芝居では自らが主役を演じた。
そうした活動での後ろ盾はルイ14世紀であり、モリエールはルーブル宮殿近くのパレ・ロワイヤルを本拠地として、ヴェルサイユ宮殿などでも公演を行うことになる。

1673年2月17日、最後の作品となる『病は気から(Le Malade imaginaire)』の上演を体調が悪い中で強行し、激しい咳の発作に襲われながらも最後まで演じきる。その後、自宅に戻り、死を迎えた。

笑いのターゲット

モリエールの芝居で笑いの対象になるのは、行きすぎた気取りや知識欲、偽善、不道徳、何にもまして金銭を優先する態度、思い込み、社会秩序を乱す正直さ等。それ自体というよりも、過度で過激な行動が問題にされた。

17世紀後半の宮廷社会では外見が大きな役割を果たし、外見によって中身が装われる時代だった。そのために、外見を通して実際を見分けることが大切であり、外見に騙されないようにする必要があった。
しかし、どのように見分けたらいいのか?

当時は「自然さ」が重視され、それが真実の印と見なされた。自然であれば、その場に相応しく感じられ、「中庸」で「良識」に従っていると見なされる。
反対に、「過激」で、行きすぎなものは不自然であり、場に相応しくなく、偽りの印になる。
モリエールの笑いは、その偽りを暴くことにつながる。

その代表的な例は、1664年にヴェルサイユ宮殿で初演された『タルチュフ(Tartuffe)』。
タルチュフは、裕福な商人オルゴンと彼の母ペルネル夫人にとっては、信仰に篤く敬虔なキリスト教信者に見える。しかし、家族の他の人々の目には、偽善者にしか見えない。
その二つの視点のどちらが正しく、どちらが間違っているのか? 信仰の人なのか、偽物の信者なのか? それが中心的な主題になる。

滑稽さがその答え、つまりタルチュフの真実の姿を暗示する。
モリエールの笑いは、行きすぎた言動に向けられる。過度の振る舞いは見せかけであることを示し、実質ではないことの証になる。本物ではないのに本物ぶるところに無理が生まれ、不自然になり、滑稽でしかなくなる。

タルチュフはあまりにも信心深そうに見え、ペルネル夫人とオルゴンはあまりにもタルチュフを信じすぎている。
オルゴンに至っては、すでにヴァレールとの結婚を認めていた娘のマリアーヌをタルチュフと結婚させ、財産を全て譲ろうとさえする。家族がみんなで説得しても、聞く耳を持たない。
モリエールは、オルゴンが盲信する様子を滑稽に描き出し、笑いの対象とすることで、逆に、タルチュフの信心深い言葉が真実ではないと観客(読者)に伝えるのである。

その上で、決定的な証拠として、オルゴンの妻エルミールが計略を用い、夫をテーブルの下に隠した上で、タルチュフが彼女に言い寄る姿を夫に見せることで、偽善者の真の姿を明らかにする。

さらに、全財産を奪取し、オルゴン一家を家から追い出す手はずを整えたはずのタルチュフは、最後の瞬間に手配中の詐欺師であることを国王によって見破られ、警吏たちに逮捕される。
この結末は、ヴェルサイユ宮殿での初演の際、ルイ14世に対するアピールになったに違いない。王様は真実を見抜く目をもっていらっしゃる、と。
当時の観客にとって、タルチュフの姿が本当の信者と区別がつかないほどだったらしいことからすると、なおさらである。

現代の私たちからすると、タルチュフが偽善者であることは、劇を開始するペルネル夫人の熱狂的なセリフからすぐに感じ取ることができる。
しかし、初演時の公式な記録によると、「真の信仰を通して天国への道を歩む人」と「善き行いをするように見せかけながら悪しき行為を行う人」との間には多くの類似点があり、判断力が乏しい観客が劇を悪用しないようにという配慮から、ルイ14世は『タルチュフ』の上演を禁止にしたという。
その決定に際して、王は、カトリック教会の結社である聖体秘蹟協会によるモリエールに対する攻撃を考慮したと考えられている。
つまり、上演禁止の措置は、タルチュフの偽善が信仰者の姿と区別がつかないほど実際に近かったことを示す証である。

繰り返しになるが、あまりにも信心深そうなタルチュフの言動、オルゴンの行きすぎた信頼が笑いの対象となり、そうした振る舞いが偽りの外見であると示されるのである。

タルチュフに見られる「自然さ」の欠如、行きすぎのもたらす不自然さは、モリエールの喜劇の中心的なテーマとなっている。

『才女気取り(Les Précieuses ridicules)』では、田舎から出てきたばかりの二人の町人の娘が、貴族との結婚を夢見て、彼女たちなりに考えた洗練された言葉遣いや振る舞いをし、伯爵に変装した下男の男と気取ったやり取りをする。

17世紀前半、女性の主催する貴族のサロン等で文化的な集まりが盛んになり、他人に不快を与えるような過激さを排除し、洗練された場に相応しい振る舞い、服装、言葉遣いの規範が出来上がっていった。そうした行動規範はプレシオジテと呼ばれ、無骨で乱暴な社会の風潮を矯正する役割を果たした。
ところが、17世紀の半ばになると、洗練が行きすぎるという現象も出てきた。
例えば、鏡のことを「美の忠告者」と言い換えたりする。『才女気取り』で、一人の娘は、椅子のことを「会話の便宜を図る物」と呼ぶ。こうした不自然な行きすぎは、滑稽でしかない。

女性を中心にした類似のテーマは、『女学者(Les Femmes savantes)』にも見られる。
裕福な商人クリザール一家の中で、女性たちは、一人を除き、学問や詩を愛好しているが、その程度が行きすぎている。
クリザールの娘アルマンドは、学問だけに熱中し、クリタンドルからの結婚の申し出を拒否した。しかし、そのクリタンドルが妹のアンリエットと恋愛関係になり、結婚を望む段階になると、二人に嫉妬する。

妻のフィラマントは、「美しくないフランス語を使った」という理由で女中を家から追い出そうとする。さらに、つまらない詩を素晴らしいと思い込み、その作者を娘のアンリエットと無理に結婚させようとさえする。

この劇の意図は、女性が知識や教養を身につけようとすることを否定するものだといった解釈が提出されることがある。しかし、モリエールが笑いの対象にするのは、あくまでも「過剰さ」である。
妻も娘も、知を愛するといいながら、決してその成果は得られていない。むしろ彼女たちは、頑なさのために視野が狭まり、判断力を失ってしまっている。

そのことは、才人とされる男性の登場人物に関しても当てはまる。
詩の作者であるトリソッタンは、「私はこれまで信じてきたのは、無知が大馬鹿者を作るということだ。知識はそんなことをしない。」と言う。
それに対して、クリタンドルはこう答える。「あなたの思ってきたことは間違ってます。保証しますが、知識のある愚か者は、無知な愚か者よりも愚かです。」

要するに、女性であろうと、男性であろうと、知識に過大な価値を置きすぎることが問題であり、「中庸」や「良識」に従うことが人間にとって自然な振る舞いなのだ。

『町人貴族(Le Bourgeois gentilhomme)』では、富を蓄えた商人が、無理に貴族の教養を身につけ、自分の身分を超えて貴族のように振る舞おうとする姿が揶揄される。

裕福な商人ジョルダンは、「価値ある人間」つまり貴族として生きることを決心し、様々な習い事をする。
音楽、ダンス、行儀作法、武術、哲学、正書法等を次々に学ぶ。最後に仕立屋が現れ、ジョルダンに貴族風の服を着せる。
こうすれば、ジョルダンは貴族に見えるはずである。

しかし、妻と女中に新しい知識を見せようとしただけで、外見が中身とズレていることがわかってしまう。要するに、ジョルダンは貴族という外見をあまりにも追求するために、かえってギャップができ、地が出てしまう愚かな人物として描かれている。

彼は、友人ドラントに騙され、憧れのドリメーヌ侯爵夫人との間を取り持ってもらうために、金銭をだまし取られ、夫人からも相手にされない。
娘リュシルとクレオントが結婚したいと言うと、クレオントが貴族でないことを理由に、その願いを拒否する。
しかし、クレオントがトルコ大公の王子をして現れ、もし彼の娘リュシルと結婚させてくれるならば、トルコの貴族の称号「ママムーシ」を得ることができると言われると、簡単に騙されてしまう。

彼の外見には誰も騙されないが、彼はトルコの王子の外見に騙される。『町人貴族』の鍵は、ジョルダンの度を超えた望みが彼を、騙す存在ではなく、騙される存在にしてしまうことにある。


現代の私たちの意識からすると、モリエール劇は貴族対町人という階級意識があまりにも強く、身分の差を乗り越えようとする主人公たちを揶揄する内容は、受け入れがたいと感じられるかもしれない。
しかし、そうした階級意識は後の時代のものであり、17世紀の芝居を判断するために持ち込むのは、時代錯誤と言わざるをえない。
モリエールの狙いは、過剰さによる不自然さを滑稽に描くことで、実体と外見のズレを描くことだった。笑いはズレを明確にするための道具だと考えていい。
自分たちと違う時代、違う地域の作品に接する時には、私たちの内に潜んでいる価値観を一旦カッコに入れる姿勢が求められる。それが、作品の狙いを知るための、第一歩となる。

良識と中庸

モリエールの多くの劇で、過度な自己愛が笑いの対象となる人物は、観客や読者にはっきりと示されている。

例えば、『女房学校(L’École des femmes)』の主人公アルノルフは、知恵の働く妻は夫を裏切るものと思い込んでいる。そこで、孤児のアニェスを引き取り、修道院に入れて世間から隔絶し、無邪気な状態で保ち、理想の結婚相手に育てようとした。
いよいよ彼女と結婚するという日の前日、友人の息子であるオラースが彼を訪ね、恋の相談をもちかける。オラースが恋しているのはアニェス。彼女も彼を愛している。実は、アルノルフは自分の名前を、貴族っぽいド・ラ・スーシュという名前に変えていて、オラースは恋敵をド・ラ・スーシュだと思い、アルノルフに相談を持ちかけたのだった。
アルノルフは様々な手段を用い、アニェスと結婚しようとするが、最後は若い二人が結婚することになる。
劇の焦点は常にアルノルフに当てられていて、彼のエゴイスティックな望みが若い恋人たちによって裏をかかれる度に、観客や読者は笑い声を上げ、満足感を得る。

ところが、劇の焦点が複数の人物に向けられ、複数の解釈が可能な作品もある。

『ドン・ジュアン』の主役は確かに題名のドン・ジュアンだが、召使いスガナレルも主人と同様の重要性を与えられている。
そのことは、初演の際にスガナレルを演じたのがモリエール自身であったことからも、推測できる。

ドン・ジュアンが全てにおいて過度を追求するヒーローだとすると、スガナレルは笑いを通して普通に存在する規範を思い出させる存在だといえる。

ドン・ジュアンは、常に女性を追いかけているが、決して一人の女性に留まることはない。エルヴィールを修道院から連れ出し結婚すると、彼女から逃れ、別の女性たちに言い寄る。恋の喜びは常に変化の中にあり、忠実さは滑稽でしかない。

エルヴィールの兄弟に捕まり、彼女と一緒に暮らすように迫られると、その場を言い逃れるために要求を受け入れると言う。しかしそんな気はなく、信義を守るという考えはない。
父親に対して、キリスト教の信仰に戻ると約束する時も、全くそんなつもりはなく、偽善的な言動を取っても後悔することがない。

森の中で出会ったキリスト教の信者に対して、信仰のために食うや食わずの貧しい状態でいると揶揄し、神を呪うならば施しを与えると、神を冒瀆する言動を平気でする。
スガナレルに何を信じるのかと問われると、信じるのは「2足す2は4。」「4足す4は8。」と応え、自分が無神論者であることを明言するような言葉を発する。

彼がかつて殺害した男の墓に像があるのを見ると、面白がって晩餐に招待する。そして、像が晩餐にやって来ても恐れることなく、逆に石像から晩餐に招待されると、誘いを受け入れる。

最後に、石像から命じられるままに手を指し出し、目に見えない炎に焼かれ、地面に飲み込まれてしまう。
ドン・ジュアンの死は、彼の過激な物質主義的姿勢が断罪されたことを意味している。

こうした主人を知り尽くしているスガナレルは、給与を得るためだけにドン・ジュアンに仕えている。彼は、立派な紳士がタチの悪い悪党であることは恐ろしいことだと思う。しかし、自分の感情に手綱を掛け、魂が嫌悪することに嫌々ながら拍手するのだという。

たまには主人に向かって無信仰を責め、人が信じていることを馬鹿にするを改めるように忠告し、あなたのことではないと言いながら、主人を「地面の小さなウジ虫」と呼んだりもする。

スガナレルが高潔な人物でないことは、ドン・ジュアンの死の後、自分の給料が手に入らないと嘆き、「俺の手当、俺の手当、俺の手当。」と繰り返すセリフで劇が終わることからも示されている。
彼は、ごく普通の人間なのだ。

森で迷うと、ドン・ジュアンに向かい、天国や地獄、悪魔やあの世を信じないのかと問いかける。その問いは、スガナレルの方では、ごく普通に信じられていることを素朴に信じていることを示している。

その森で出会う貧しい男は、神を冒瀆すれば1ルイ金貨を与えるというドン・ジュアンの嫌がらせを断固として受け付けようとしない。スガナレルはその男に向かい、「少しくらい冒瀆しても悪いことじゃない。」と耳うちする。
貧しさの中では、観念的な信仰よりも、実際のお金が優先する。それがスガナレル流の生き方なのだ。

そんなスガナレルの世界観の中心にあるのは、生活の知恵とでも呼べるもの。
ドン・ジュアンは、「2足す2は4」という代数的なものしか信じないと言う。スガナレルからすると、そうした考えを持つのは、勉強しすぎたために頭が変になったから。そして、こう続ける。

ちょっとした良識と、ちょっとした判断力を使って、私は全ての本が教えるよりももっとよく物事を見ています。私たちの目にしているこの世界が、一晩の間にひとりでに出来上がったキノコではないことはよくわかっています。あそこにある木々、岩、大地、あの高みにある空を創造したのは誰なのか、あなた様に伺いたいところです。全てはひとりでに出来上がったのでしょうか。(中略)
私の理屈では、人間の中には何か素晴らしいものがあります。あなた様が何とおっしゃっても、あらゆる学者のみなさんが説明できなくても、そうなのです。私がここにいるということが、素晴らしいことではないでしょうか? 頭の中に何かがあり、一瞬の間に多くの異なったことを考え、思いのままに体を動かすとしたら、素晴らしいことではないですか?

スガナレルはこんな風に言いながら、手を動かし、天を見上げているうちに、ひっくり返って転んでしまい、ドン・ジュアンに揶揄される。そのために長いセリフで語られたことが一見滑稽に見える。

しかし、素朴なこうした考えは、どんなに混乱しているように見え、一つの結論に至らないにしても、普通の人々が普通に考えていることなのではないだろうか。
論証はできなくても、今ここに一人の人間がい、その人間が色々なことを考え、自由に体を動かすだけで素晴らしい。そのことだけで、奇跡と言っていいかもしれない。

モリエールは、唯物論者・無神論者ドン・ジュアンに横にスガナレルを置くことで、生活に密着し、普通の人間の良識に基づく素朴な考え方を浮かび上がらせたと考えることができる。

『人間嫌い(Le Misanthrope)』では、3つの行動パターンが提示されると考えてみたい。
主人公のアルセストは、社交界の習慣を無視し、思ったことは全て正直に言う人物。内心の声を隠し、サロンで人と上手くやるための世渡り術を使う人間たちを嫌悪している。

そのアルセストが愛するのが、セリメーヌ。彼女は言い寄ってくる男たちには誰にでもいい顔をし、相手を喜ばせる行動をする。また、さんざん悪口を言っていたアルシノエが姿を現すと、急に態度を変え、友人として接する。

アルセストの友人フィラントは、初対面の人間にもあたかも親しい友人のように接する社交術を実践し、誰の気分も害さないように振る舞う。

物語は大きく分けて、二つのエピソードから成り立つ。
1)セリメーヌを愛するオロントが詩を朗読するエピソード。
正直に感想を言ってくれと言うオロントに対して、フィラントは言葉巧みに誉めるが、アルセストは不自然でつまらないと正直に批判してしまう。
結局、オロントは名誉を回復するために裁判を起こし、アルセストは社交界から追放されることになる。

2)セリメーヌが複数の男性に書いた手紙が露見するエピソード。
アルセストは、セリメーヌが他の男に宛てた手紙を見せられ、彼女を問い詰める。しかし、セリメーヌは巧みに言い逃れて、アルセストが折れることになる。
さらに、彼女が他の男たちに向けた書いた手紙も発覚し、彼女の偽善的な振る舞いが白日の下に晒される。その結果、アルセスト以外の男たちはみんな彼女の許を去る。
最後にアルセストは、社交界を離れることを条件に結婚を申し出る。しかし、セリメーヌは孤独を恐れ、アルセストに従わない道を選ぶ。

このようにして、アルセストは社交界から追放され、セリメーヌは全ての男性から愛されなくなるという結末を迎える。
二人とも過剰に走る人物であり、アルセストは正直さの過剰、セリメーヌは誰からも愛されたいという欲求の過剰によって特色付けられる。

彼らと比較して、あまり目立たないのがフィラント。
彼は17世紀の宮廷社会やサロンの行動規範を体現した人物。アルセストからすると、心から発せられる言葉を話すことがなく、宮廷社会の悪徳そのものということになる。
しかし、最後の最後に、心を寄せていた女性エリアンヌの愛を得ることができる。劇の中で唯一思いを遂げるのが、フィラントなのである。

ここで注意を引かれるのは、エリアントはずっとアルセストを愛していたこと。その理由を彼女はフィラントに、次のように説明していた。

アルセストの振る舞い方は、とても独特です。
でも、私はそうしたことを、特に大切だと思っています。
あの方の魂が誇っている誠実さは、
それ自体で何か高貴で、英雄的なものがあります。
今の世の中では、めったにない美徳です。
その美徳を、あの方の中にあるのと同じように、至るところで目にしたと思っています。

誠実さを美徳だと認め、そのためにアルセストを愛しているというエリアントは、外見の文化の支配する社会の中で、アルセスト的な誠実の重要性を理解している人物だということになる。
その一方で、外見が人を騙す可能性もよく知っている。セリメーヌの手紙を見て裏切られたと大騒ぎするアルセストに対し、「手紙は外見で人を騙すことがある。」と言い、内容をよく吟味するように勧めるのは彼女である。

劇の最後になり、彼女はアルセストを引き留めようとはせず、フィラントの愛を受け入れる。
その選択は、相手の気持ちを害さないように社交的な態度を保ちながら、しかし誠実さを失わない道をモリエールが模索していたことの現れと考えられないだろうか。

場に相応しい振る舞いをし、相手に気に入られることが最も大切な行動規範だった社会の中で、自分に対して誠実であること。その微妙なバランスが、最後にエリアントに選ばれたフィラントの示す中庸の精神だといえる。
彼は、アルセストやセリメーヌの持つ過激さとは対極にあり、融和を模索する。
『人間嫌い』の最後に発せられるフィラントの言葉が、その典型である。

さあ、エリアント、あらゆる手段で、
アルセストの心が望む計画を中断させましょう。

アルセルトは、誠実な人間であることの自由を行使できる人里離れた土地に向かおうとする。フィラントは彼をパリに留めようとする。その言葉は、エリアントと同様に、アルセスト的な誠実さがパリの社交界にとって重要であると思っていることを示している。そして、アルセストの過激さとは反対に、あくまでも人の気持ちを害さず、中庸を行こうとする。
そのように考えると、3人の中で最も目立たない人物フィラントが、『人間嫌い』の中心的な主張を体現していると言ってもいいだろう。

モリエールは外見の偽りを笑いによって暴露したが、『ドン・ジュアン』や『人間嫌い』では、「自然さ」や「誠実さ」、「心から発せされる言葉」の価値にも焦点を当てた。
宮廷やサロンではそうした価値が否定的に捉えられるため、提示の仕方は複雑になり、他の大部分の作品とは違い、簡単に白黒を付けることができない描き方がなされている。
しかし、そこにこそ作品の魅力が隠されていると考えれもいいだろう。


モリエールは、日本でもある程度の人気があり、翻訳全集も出版されている。

岩波文庫にも代表作が入っているので、手軽に読むことが出来る。
『タルチュフ』『町人貴族』『女房学校』『ドン・ジュアン』『顧客(人間嫌い、ミザントロープ)』『嫌々ながら医者にされ』『守銭奴』『スカパンの悪巧み』『病は気から』

翻訳全集。
廣田 昌義、秋山 伸子訳『モリエール全集』全10巻、臨川書店。

17世紀の時代精神全体の中でのモリエールの位置づけについて。
ポール・ベニシュー『偉大な世紀のモラル ー フランス古典主義文学における英雄的世界像とその
解体』朝倉剛・羽賀賢二訳、法政大学出版局、1993 年。

モリエールの作品全体について。
小場瀬卓三『フランス古典喜劇成立史 モリエール研究』法政大学出版局、1970 年。

『タルチュフ』について。
秋山伸子「言葉には言葉を、演技には演技を モリエール『タルチュフ』」、『フランス演劇の誘惑』岩波書店、2014年。

E. アウエルバッハ「偽信者」(『ミメーシス』(下)、篠田一士・川村二郎訳、筑摩書店、1967 年、pp.112-186)。

モリエールの時代の風俗や芝居についての状況を垣間見るためには、『町人貴族』と『タルチュフ』を下敷きにしながら人生の一時期を描いた映画「モリエール 恋こそ喜劇」(2007)が役に立つ。
ただし、あくまでフィクションであり、史実ではないので、その点は注意が必要。

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