小林秀雄の語る中原中也 言葉に触れる体験としての文学

私たちが最初に文学作品を読むのは、多くの場合、小学校での授業だろう。そこで、どこが好きとか、どこが面白かったとか尋ねられ、感想文を書かされたりする。
中学や高校になれば、作者の思想を考えたり、心情を推察したりし、それについての自分の考えを言わされたりもする。
そんな時、「自由に解釈していいと言いながら、正解が決まっている」という不満を抱いたりすることもある。

こうした読み方をしている限り、文学を好きになるのはなかなか難しい。というのも、文学作品に接する第一歩はそこにはないから。

では、作品と読者が触れ合う第一歩はどこにあるのか?

読者が眼にするのは文字。文字の連なりを辿っていくと、理解の前に、感触がある。比喩的に言えば、読書とは、「見る」よりも先に「触れる」体験だといえる。
その「感触」は「理解」と同時に発生しているのだが、多くの場合、「理解」だけが前面に出て、「感触」は意識に上らないままでいる。

その「感触」は決して感想ではない。むしろ実際の「触覚」に近く、ほとんど身体感覚だといえる。

中原中也の死に関して小林秀雄が書いた文章を読み、言葉の運動を体感してみよう。

中原中也と小林秀雄の関係は、長谷川泰子を巡る三角関係を中心にした愛憎劇で知られている。
泰子は中也を捨て、小林を取った。形の上では、小林が中也から泰子を奪ったことになる。

そうした事件の後からも、中原と小林の交友関係は続き、死の直前、故郷山口に戻る決心をした中原は、二冊目の詩集となる『在りし日の歌』の原稿を小林に託すほどだった。

昭和40(1965)年、中原家の近くにある公園に中也の記念碑が建てられた。その碑面には、「帰郷」の一節「これが私の古里だ/さやかに風も吹いている/ああ、おまえは何をして来たのだと/吹き来る風が私にいふ」という詩句が掘られている。その文字を認めたのは、小林秀雄だった。

こうした事実以上に、二人の文学的な感性は最も深い部分で共鳴していて、お互いが理解し合い、嫉妬し合い、評価し合っていた。

中原中也が昭和12(1937)年10月22日に死んだ後、『文學界』昭和12(1937)年12月号に、小林秀雄の詩「死んだ中原」が掲載された。

その中で、小林は中原の葬儀に立ち会い、お骨を拾い、友に最後の別れを告げた時の様子を中心に、泰子との出来事に触れ、最後に、祈りの言葉を重ねている。

     死んだ中原

君の詩は自分の死に顔が
わかつて了(しま)つた男の詩のやうであつた
ホラ、ホラ、これが僕の骨
と歌つたことさへあつたつけ

僕の見た君の骨は
鉄板の上で赤くなり、ボウボウと音をたててゐた
君が見たといふ君の骨は
立札ほどの高さに白々と、とんがつてゐたさうな

ほのか乍ら確かに君の屍臭を嗅いではみたが
言ふに言われぬ君の額の冷たさに触つてはみたが
たうたう最後の灰の塊りを竹箸の先で積もつてはみたが
この僕に一体何が納得出来ただろう

夕空に赤茶けた雲が流れ去り
見窄(みすぼ)らしい谷間ひに夜気が迫り
ポンポン蒸気が行く様な
君の焼ける音が丘の方から降りて来て
僕は止むなく隠坊の娘やむく犬どもの
生きてゐるのを確かめるやうな様子であつた

あゝ、死んだ中原
僕にどんなお別れの言葉がいえようか
君に取り返しのつかぬ事をして了つたあの日から
僕は君を慰める一切の言葉をうつちやつた

あゝ、死んだ中原
例へばあの赤茶けた雲に乗って行け
何んの不思議な事があるものか
僕達が見て来たあの悪夢に比べれば

この詩には大げさな悲しみの言葉はないが、しかし、痛切な悲しみが溢れている。
私たちは、そこに連ねられた言葉を辿りながら、何が書かれているかを理解する以上に、死んだ友に対する小林の心からの悲しみに触れているように感じる。

語りたいことは山ほどあったに違いない。しかし、言葉にすればするほど、感情を偽ることも出てくる。だからこそ、お骨が焼ける音が聞こえてきた時には、「僕は止むなく隠坊の娘やむく犬どもの/生きてゐるのを確かめるやうな」ことをするだけに留める。涙は見せない。

「死んだ中原」という詩を読む時、私たち読者が触れるのは、そうした言葉が発散する感覚なのだ。「理解」の前に「感触」がある。

その感触に触れると、小林秀雄と中原中也の最も大きな違いを感じることにもなる。
中也は歌った。しかし、小林は歌わない。というか、歌うことができない。
「死んだ中原」は、痛切な悲しみを感じさせるが、詩句は散文に近い。

中也は歌うことを知っている。

愛するものが死んだ時には、/自殺しなけあなりません。
愛するものが死んだ時には、/それより他に、方法がない。(「春日狂想」)

この詩句を読めば、詩が歌うとはどういうことか、はっきりと感じられる。

次の二つの詩の断片を読んだだけで、歌う詩句と散文的な詩句の違いを体感できる。

君の詩は自分の死に顔が/わかつて了(しま)つた男の詩のやうであつた
ホラ、ホラ、これが僕の骨/と歌つたことさへあつたつけ

ホラホラ、これが僕の骨だ、/生きていた時の苦労にみちた
あのけがらわしい肉を破って、/しらじらと雨に洗われ、ヌックと出た、骨の尖(さき)。

私たち読者は、まず最初に言葉の音色、リズム感、口調を感じている。
理解を優先してしまうとその感覚をカッコの中に入れたままにしてしまうが、意識されないだけで、常に理解の底に横たわっている。

別の言い方をすると、知的なアプローチは常に感触に基づいている。文体といってもいいが、私たちはそれぞれの作家の文体を感じ、味わう。
文学体験は、まさにそこから始まる。

小林秀雄で言えば、彼は歌を生み出す才能を持たないことを、中也の存在によって、はっきりと自覚させられたのだろう。だからこそ、彼は詩人にならず、散文を使う評論家になった。

そして、彼の散文は、歌うことはないが、「死んだ中原」以上の詩情が溢れている。
昭和24(1949)年8月号の『文藝』に掲載された「中原中也の思い出」は、小林の散文が醸し出す詩情を強く感じさせる。

その一部を読んでみよう。小林は、中原が死ぬ少し前に、鎌倉の彼の許を訪れた時のことを中心に語る。

        中原中也の思い出 

 中原が鎌倉に移り住んだのは、死ぬ年の冬であった。前年、子供をなくし、発狂状態に陥った事を、私は知人から聞いていたが、どんな具合に恢復し、どんな事情で鎌倉に来るようになったか知らなかった。久しく殆ど絶交状態にあった彼は、突然現れたのである。私は、彼の気持ちなど忖度しなかった。私は、もうその頃心理学などに嫌気がさしていた。ただそういう成行きになったのだと思った。無論、私は自分の気持ちなど信用する気にはならなかった。嫌悪と愛着との混淆、一体それは何の事だ。私は中原との関係を一種の悪縁であったと思っている。大学時代、初めて中原と会った当時、私は何もかも予感していた様な気がしてならぬ。尤も、誰も、青年期の心に堪えた経験は、後になってからそんな風に思い出し度がるものだ。中原と会って間もなく、私は彼の情人に惚れ、三人の協力の下に(人間は憎み合う事によっても協力する)、奇怪な三角関係が出来上り、やがて彼女と私は同棲した。この忌わしい出来事が、私と中原との間を目茶々々にした。言うまでもなく、中原に関する思い出は、この処を中心としなければならないのだが、悔恨の穴は、あんまり深くて暗いので、私は告白という才能も思い出という創作も信ずる気にはなれない。驚くほど筆まめだった中原も、この出来事に関しては何も書き遺していない。たゞ死後、雑然たるノオトや原稿の中に、私は、「口惜しい男」という数枚の断片を見付けただけであった。夢の多過ぎる男が情人を持つとは、首根っこに沢庵(たくわん)石でもぶら下げて歩く様なものだ。そんな言葉ではないが、中原は、そんな意味のことを言い、そう固く信じていたにもかかわらず、女が盗まれた時、突如として僕は「口惜しい男」に変った、と書いている。が、先きはない。「口惜しい男」の穴も、あんまり深くて暗かったに相違ない。

 それから八年経っていた。二人とも、二人の過去と何んの係わりもない女と結婚していた。忘れたい過去を忘れる為、めいめい勝手な努力を払って来た結果である。二人は、お互いの心を探り合う様な馬鹿な真似はしなかったが、共通の過去の悪夢は、二人が会った時から、又別の生をうけた様な様子であった。彼の顔は言っていた、彼が歌ったように——『私は随分苦労してきた。それがどうした苦労であったか、語ろうなぞとはつゆさえ思わぬ。またその苦労が、果たして価値のあったものかなかったものか、そんな事なぞ考えてもみぬ。とにかく私は苦労して来た。苦労して来たことであった。』(注:『わが半生』) しかし彼の顔は仮面に似て、平安の影さえなかった。

 晩春の暮方、二人は石に腰掛け、海棠(かいどう)の散るのを見ていた。花びらは死んだ様な空気の中を、まつ直ぐに間断なく、落ちていた。樹蔭の地面は薄桃色にべっとりと染まっていた。あれは散るのじゃない、散らしているのだ、一とひら一とひらと散らすのに、屹度順序も速度も決めているに違いない、何んという注意と努力、私はそんな事を何故だかしきりに考えていた。驚くべき美術、危険な誘惑だ、俺達にはもう駄目だが、若い男や女は、どんな飛んでもない考えか、愚行を挑発されるだろう。花びらの運動は果しなく、見入っていると切りがなく、私は、急に厭な気持ちになって来た。我慢が出来なくなって来た。その時、黙って見ていた中原が、突然「もういいよ、帰ろうよ」と言った。私はハッとして立上り、動揺する心の中で忙し気に言葉を求めた。お前は、相変らずの千里眼だよ」と私は吐き出す様に応じた。彼は、いつもする道化た様な笑いをしてみせた。

 二人は、八幡宮の茶店でビールを飲んだ。夕闇の中で柳が煙っていた。彼は、ビールを一と口飲んでは、「ああ、ボーヨー、ボーヨー」と嘆いた。「ボーヨーって何んだ」「前途茫洋さ、ああ、ボーヨー、ボーヨー」と彼は眼を据え、悲し気な節を付けた。私は辛かった。詩人を理解するという事は、詩ではなく、生れ乍らの詩人の肉体を理解するいう事は、何んと辛い想いだろう。彼に会った時から私はこの同じ感情を繰返し繰返し経験して来たが、どうしても、これに慣れる事が出来ず、それは、いつも新しく辛いものであるかを訝った。彼は、山盛りの海苔巻を二皿平げた。私は、彼が、既に、食欲の異常を来している事を知っていた。彼の千里眼は、いつも、その盲点を持っていた。彼は、私の顔をチロリと見て、「これで家で又食う。俺は家で腹をすかしているんだぜ。怒られるからな」、それから彼は、何んとかやって行くさ、だが実は生きて行く自信がないのだよ、いや、自信などというケチ臭いものはないんだよ、等々、これは彼の憲法である。食欲などと関係はない。やがて、二人は茶店を追い立てられた。

 中原は、寿福寺境内の小さな陰気な家に住んでいた。彼の家庭の様子が余り淋し気なので、女同士でも仲よく往き来する様になればと思い、家内を連れて行った事がある。真夏の午後であった。彼の家がそのまま這入って了う様な凝灰岩の大きな洞窟が、彼の家とすれすれに口を開けていて、家の中には、夏とは思われぬ冷たい風が吹いていた。四人は十銭玉を賭けてトランプの二十一をした。無邪気な中原の奥さんは勝ったり負けたりする毎に大声をあげて笑った。皆んなつられてよく笑った。今でも一番鮮やかに覚えているのはこの笑い声なのだが、思い出の中で笑い声が聞こえると、私は笑いを止める。すると、彼の家の玄関脇にはみ出した凝灰岩の洞窟の縁が見える。滑らかな凸凹をしていて、それが冷たい風の入口だ。昔ここが浜辺だった時に、浪が洗ったものなのか、それとも風だって何万年と吹いていれば、柔らかい岩をあんな具合にするものか。思い出の形はこれから先きも同じに決まっている。それが何が作ったかわからぬ私の思い出の凸凹だ。

 中原に最後に会ったのは、狂死する数日前であった。彼は黙って、庭から書斎の縁先きに這入って来た。黄ばんだ顔色と、子供っぽい身体に着た子供っぽいセルの鼠色、それから手足と足首に巻いた薄汚れた繃帯、それを私は忘れることができない。

この散文から私たちは、詩人と評論家の交友の現実を知ることができる。しかし、それ以上に、小林の中也に対する痛切な思いを感じる。
こう言ってよければ、私たちは小林の悲しみに直接触れる。

文学作品を読む第一歩は、そこから始まる。

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