読書と演奏 芸術は人間を根本から支える

読書は誰にでもできる行為。しかし、良い読書をすることは難しい。

読書に良いも悪いもない。それぞれの読者が感じること、考えることが大切なのであり、それに対して優劣をつけるのは意味がないし、傲慢でさえある。
そうした考えが、現代において普通に流通している言葉だろう。

ある意味では民主的で、個人を大切にしたように思えるそうした考え方は、読書感想文と密接につながっている。
読書において大切なのは「感想」。情景を思い浮かべ、登場人物について思うことを書き、感動したことを素直に述べる。

最近では、こうしたことさえも重視されず、実用性を重んじる傾向が強まっている。
文部科学省の「大学入試および高等学校指導要領の『国語』改革」に従い、高校では文学の勉強をせずに、実用文に重きを置いた教育をすることになったという。
感想さえも必要なく、主観性を排除して客観的に意味を解読することが求められる時代。

こうした時代の日本にあって、「芸術は人間を根本から支える」などという言葉はまったく意味をなさないのかもしれない。
この表現は、小澤征爾と大江健三郎の対談集『同じ年に生まれて 音楽、文学が僕らをつくった』(中公文庫、2004年)の中で、大江が提示したもの。
二人の芸術家(指揮者と小説家)の言葉を辿っていると、読書とは音楽の演奏と同様の体験だということがわかり、質(クオリティー)の高低があることがわかってくる。

大江健三郎は、「芸術は人間を根本から支えるか」という問いかけをし、その答えは、個人が納得するほかないものだという。
彼はそれ以上踏み込んで説明していないのだが、その後で、「なぜ古典的な音楽が現在でも聴衆を感動させるのか」と問い続ける。
大江の頭の中では、古典作品=質の高い作品は人間を支える力を持つということが前提としてあり、質の高い作品に触れ、感動する体験が、人間を作り、人間を支えるのだと考えているのだということがわかる。

その際、質の高さは、作品そのものに求められるものであると同時に、音楽作品であれば演奏する側に、文学であれば読書する側にも求められる。
質の高い演奏体験、質の高い読書体験が、その体験をする人間を根底から支える力になる。

まず、大江の言葉に耳を傾けてみよう。
音楽の場合、「古典となった作品がどうして毎日のように演奏されて現代人に感動を与えるのか?」という問いに対して、彼はこう応える。

それは僕たちと同じ時代に生きている演奏家が、古典の音楽を自分でいま生きて見せてくれるから。
(中略)
 バッハがつくった音楽を、いま生きている人間として生きて見せてくれるから僕たちは感動するんだと。聴衆は、演奏家に介添えしてもらって、仲介してもらって、自分もその音楽を生きることができる。だから古典が演奏会でいつも生きている。
 今日の演奏会と、バッハならバッハ、モーツァルトならモーツァルトが生きて演奏した場面は違うと思いますが。音楽も違うだろう。二十世紀の人間が十八世紀の人間と同じように音楽を生きられるかというと、やはり違うと思うんですね。二十世紀の人間は二十世紀らしく生きている。
(中略)
 演奏会の名人芸で、僕たち聴衆が、やはりバッハの音楽を現在生きることができることはある。だから僕たちが感動するんだと。

クラシック音楽に親しんでいない人間でも、カラオケで人が歌うのを聞いたことがあれば、下手な人も上手な人もいることがわかるだろう。
普通は楽譜を見ないが、基本的には楽譜があり、それを歌手が歌う。カラオケでは、その歌が楽譜の代わりになり、それに基づいて各人が歌う。昭和の歌もそのようにして現在でも歌い継がれる。歌う人は、毎回、何とか上手に歌おうとするだろう。

こうした点では、クラシック音楽の演奏と変わらない。
バッハの楽譜がある。
指揮者や演奏家は、譜面を読み込み、自分なりの解釈をして、演奏する。その際には、楽譜が18世紀のものだとしても、演奏は21世紀のものになる。演奏されなければ、音楽にならない。
その演奏には、質の高低がある。アマチュアの指揮者と小澤征爾を比較して、演奏の良い悪いなどないと言い張る人はいないだろう。
そして、その音楽を聞く聴衆がいる。

問題は、その聴衆が質を判断できるかどうか。
もし指揮者や演奏家が自分の身内であれば、下手な演奏でも、感動するに違いない。それは当然のこと。
しかし、だからといって、演奏の質が小澤よりも優れているといったら、問題だろう。
大江と小澤が対談の中で教育について長く語るのは、聴衆にも質を聞き分ける力を養う必要があると考えているからに違いない。

音楽の場合には、楽譜(作曲家)——演奏(指揮者、演奏家)——聴衆という三者の関係がわかりやすい。
しかし、読書の場合には、読書行為が一種の演奏であることは、ほとんど意識されない。

音楽の場合にならって考えると、読書とは、本(楽譜)を演奏し、それを聴く行為。
楽譜は演奏されなければ音楽にならないように、本は読まれなければ本としての意味を持たない。
読者は、読むことで、本に命を与え、それと同時に、本の内容を感知する。
つまり、読者は、演奏家と聴衆の役割を同時に実行していることになる。

大江はこう言う。

 読むことに熟達した人は、本当にいい演奏家を心のなかにもっているわけですね。だからその、他人の書いた文学をいま自分がもう一回生きるという感じを味わえるんですね。(中略)
 その関係を回復させることが聴衆、読者への芸術教育だと思います。

音楽の場合、いい演奏かどうかは、感覚的にある程度理解できる。
もちろん、プロの演奏家の演奏を聴いて、質の高低を決めるのは常に難しい。しかし、カラオケで歌の上手い人と下手の人の区別はそれなりにつくだろう。

他方、文学の場合には、演奏家も聴衆も健在化することはなく、読者の内在的な存在にすぎない。
顕在化することが少なく、会話や書かれたものの中で「演奏=解釈(interpréation)」がわかったとしても、その優劣を決めることはほとんどできない。

そのために、ますます、「それぞれの読者が感じること、考えることが大切なのであり、それに対して優劣をつけるのは意味がない」という言葉が、説得力を持ってしまう。

しかし、バッハの演奏家が勝手に解釈して、感性のままに演奏したら、それがバッハといえるだろうか?
それと同様に、夏目漱石の読者が、小説の言葉を自分の好き勝手に理解したら、それが漱石といえるだろうか?

演奏家が教育を受けるように、聴衆も、優れた演奏が優れているという教育を受けることで、質の高い聴衆に成長する。
読者も、優れた作品の優れた演奏(解釈)を学ぶことで、作家の言葉を生きなおす読者、自分の生にとって価値のある読書体験をする読者へと成長することができる。

そのためには、小説の言葉を尊重すること。
優れた演奏家が丹念に楽譜を読み込むように、言葉を丹念に読むことで、自分の思い込みを投影するのではない読書ができる。
そのことが、熟達した読者への第一歩となる。

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