モンテスキュー 『ペルシア人の手紙』 新しい時代精神の確立

モンテスキューは1689年に生まれ、1755年に死んだ。
その時代には、1715年のルイ14世の死という大きな出来事があった。
大王の死後、オルレアン公フィリップの執政時代(1715-1723)、次いでルイ15世が1723年に国王としての実権を握るといった政治の動きがあった。

それと同時に、時代精神も大きな転換期を迎えていた。
ルネサンスから17世紀前半にかけて成立した合理主義精神が主流となり、神の秩序ではなく、人間の秩序(物理的な現実、人間の感覚や経験)に対する信頼が高まっていた。

そうした時代の精神性は、18世紀前半に生まれたロココ美術を通して感じ取ることができる。
そこで表現されるのは、微妙で繊細な細部の表現であり、見る者の「感覚」に直接訴えてくる。17世紀の古典主義芸術の壮大さ、崇高な高揚感に代わり、ロココ芸術では、軽快で感覚的な魅力に満ちている。
非常に単純な言い方をすれば、神を崇めるための美ではなく、現実に生きる人間が幸福を感じる美を追求したともいえる。

モンテスキューは、17世紀の古典主義的時代精神から啓蒙の世紀と呼ばれる18世紀の時代精神へと移行する過程の中で、新しい時代精神の確立を体現した哲学者・思想家である。

モンテスキューの本名は、シャルル=ルイ・ド・スゴンダ。
1689年にボルドーの近郊で生まれ、7歳の時、母の死に際して、領地を継承し、ラ・ブレード男爵となる。
ボルドー大学で法学を学んだ後、1709年からパリで生活。文学者、知識人、旅行者たちと交わり、見聞を広めた。
1714年になると、父の死後、後を継いでボルドー高等法院の参事官となる。

1821年、『ペルシア人の手紙』を出版。
批判精神のために出版禁止になるのを恐れ、匿名とし、アムルテルダムでの出版だった。
この書簡体小説は大評判となり、モンテスキューはパリのサロンにしばしば出入りするようになる。

彼はもともと旅行記を好んで読んでいたが、1728年から1831年にかけては、彼自身でもヨーロッパの各地を訪れる。ハンガリー、イタリア、オランダなどの他、イギリスには一年半滞在した。

その旅行の後には職を辞し、ラ・ブレードの城に引きこもり、歴史の研究に没頭。1734年に『ローマの隆盛と衰退の原因についての考察』を執筆する。
さらにそれ以降も研究と思索を継続し、1748年に出版される『法の精神』へと至る。

『法の精神』も匿名で出版され、大評判になるが、しかし宗教的、政治的な側面から攻撃の対象となり、出版が禁止される。絶対主義王政やキリスト教などの制度化された宗教を批判し、人間の自然な感情に基づく自然宗教あるいは理神論を支持したためだと考えられる。

モンテスキューの批判精神は、理性に基づき、現実の事象を観察し、合理的な判断を下そうとする姿勢に現れている。
その観点から、政治や宗教だけではなく、幸福のテーマを中心に、自由、美徳、多様性など、様々なテーマのついて考察を行った。

その具体的な記述を知るために、書簡体小説『ペルシア人の手紙』を読んでみよう。

ペルシア人の手紙

『ペルシア人の手紙』は、現在のイランの都市エスファハーンでの政争を逃れたペルシアの貴族ユズベクが、友人のリカと二人でフランスに向かい、パリに長い間期滞在する間に、友人、愛妾、召使いたちと交わした161通の書簡によって構成されている。

書簡1−23:エスファハーンを出発してパリに到着するまでの旅の間(1711年から12年)
書簡24-91:ルイ14世治下のパリ(1712年から15年)
書簡92-146:執政時代のパリ(1715年から20年)
書簡147-161:エスファハーンの後宮の問題(1717年から20年)

Théodore Chassériau, Intérieur de harem

最後の部分に置かれたハーレムでの混乱に関する部分は、ヨーロッパにおけるオリエントに対する性的な幻想と関係しているのではないかと考えられる。

18世紀の前半、フランスではアントワーヌ・ガランによる『千一夜物語』の翻訳が大流行し、ヨーロッパの男性の読者にとって、オリエントのハーレムは独特の魅力を持っていた。
社会を他者の目で見た考察がたとえどんなに興味深いとしても、二人の男がパリの状況を故郷に報告するだけよりも、ペルシアの後宮での愛妾ログザーヌの死に至る混乱した過程が語られた方が、当時の読者の期待の地平に応えることになっただろう。

しかし、小説の中心はあくまでも、異国人の目を通したフランス社会の観察と批判的考察。
王や教皇の絶対的な権威、フランス人にとっては当たり前になっている風習や風俗、当時に人々の間で交わされていた話題など、様々な事柄が取り上げられ、モンテスキューから見た社会の記述と批判が繰り広げられる。

彼の根本的な姿勢は、理性に基づき、現実を観察し、合理的な結論を導くこと。
ただし、全てに対して真面目くさった哲学的な議論をすることはしない。普段見過ごしていることを異国人の目を通して見ることで、フランス人にとっては当たり前なことを違った風に見せ、皮肉やユーモアを交えて語る。
真正面から批判するのではなく、驚きとして表現することで、読み物として楽しく、読みやすいものになっている。

1721年の発売後一年もしないうちに10版を重ねるほどのベストセラーになったのは、そうした読み物としての楽しさのおかげだろう。

(1)異邦人の視点

24番目の手紙は、二人の異国人がパリに着いて最初に書き送った手紙。リカがスミルヌにいる友人のイバンに送ったものだが、二人の旅行者の基本的な姿勢を知る上で大変に興味深い。(1712年5月4日付)

 私たちは1ヶ月前からパリにいます。ここに着いてから、ずっと継続的な動きの中にいました。住まいに落ち着く前にやることが沢山あり、声を掛けないといけない人々を見つけなければなりませんでした。必要なものが何もなかったので、それらを手に入れる必要もありました。
 パリはエスファハーンと同じくらい大きな町です。家々はとても高く、天文学者たちが住んでいるのではないかと思うほどです。考えてみて下さい。町は空中に立てられているようで、6つか7つの建物が積み重なっていて、沢山の人が住んでいます。みんなが道に下りてしまうと、大変な混雑になります。
 たぶん信じてもらえないと思うのですが、ここに着いて1ヶ月しても、私はまだ誰かが歩いている姿を見ていません。この世で、フランス人ほど上手に機械を利用している人々はいません。彼らは走り、空を飛んでいます。アジアの馬車は遅いし、ラクダの歩みは整然としています。フランス人だったら、気絶してしまうかもしれません。

a. 異邦人の判断基準 

新しい事態に出会うと、私たちは自然にそれまでの自分の馴染んできた事物を参照し、既知のものから新たなものを測定する。

リカも、パリが大きな町だという時に、ずっと暮らしてきたエスファハーンの町を例に出す。
「パリはエスファハーンと同じくらい大きな町です。」

乗り物に関しては、故郷の馬車やラクダの速度が基準となり、パリの馬車の速さを体感する。

このように、自国の人間には当たり前になり過ぎていることを、外国人の視点から改めて気づかせるという手法は、日本のテレビで外国人コメンテーターを使うことと共通している。

b. 驚きとユーモア

モンテスキューは、異国人によるパリの観察の中で、驚きとユーモラスを浮き上がらせていく。

パリでの生活のリズムがあまりにも速いために、「ずっと継続的な動き」の中にいるように感じられる。アジアのゆっくりとしたリズムに慣れた人間には、それは大きな驚きだったに違いない。

パリに立つ建物が高いと指摘する時には、天文学者を持ち出し、空中に建てられているようだという印象を、面白おかしく語る。

パリを走る馬車があまりにも速く走るという際には、驚きなのか、ユーモアなのかわからないような表現が使われる。
「ここに着いて1ヶ月しても、私はまだ誰かが歩いている姿を見ていません。」
なぜ見えないのかと言えば、人々の動きがあまりにも速いからだ。

さらに、もしフランス人がオリエントの遅い馬車やラクダに乗ったら、気絶するかもしれないと付け加え、ユーモラスな印象を読者に与える。

異邦人の素朴な驚き、それをユーモラスに語る語り口。その二つの要素は、ペルシア人の手紙を楽しい読み物にするというだけではなく、王権や教会を批判する際のクッションとして働く効果を持っている。

c. 観察結果

リカがパリで最初に観察したことは、人口が密集していること、そして、全ての速度が速いことの2点。

建物が高いという観察は、そこに多くの人々が住み、パリの町が混雑しているという考察につながる。
この点は、17世紀にしばしば語られた「パリにおける困り事」と共通している。

動きの速さは、活気の表現でもある。
しかし、それと同時に、18世紀前半において、人間が神の次元である永遠を離れ、直進する時間が現実を支配する傾向の強まりを示している。

芸術的な表現であれば、理想は古代ギリシア・ローマの古典に置かれるのではなく、新しいものが古いものよりも優れているという考え方が優位に立つようになる。(「新旧論争」)

科学的な思考が強まり、「進歩」の概念が確立する。新しい技術の方が古い技術よりも優れている。それが当然のことと考えられるようになる。

「速さ」に関しては、99番目の手紙の中で、服装の流行(モード)という視点から、より具体的な観察および考察が行われる。(リカが、ヴェニスに住むレディに送った手紙、1717年4月8日。)

 私は、フランス人たちのモードの気まぐれさにびっくりしています。彼らは今年の夏どんな服装をしていたのか、忘れていました。冬にどんな服を着るのか、まだわかっていません。とりわけ、妻が流行に合わせるために、夫がどのくらいの出費をしいられるか、わかっていないかもしれません。
 ですから、彼らの服や装身具を正確に描写したとしても、何の役に立つというのでしょうか。新しい流行が来たら、私の書いている作品全体が破壊されてしまうでしょう。彼らの職人たちの作品と同じです。君がこの手紙を受け取る前に、全ては変わってしまうでしょう。

この手紙の日付が1717年であることに注目すると、この考察が、モードから政治へと移っていく理由が理解できる。

1715年、ルイ14世が死去し、アンジュー公がルイ15世として即位する。しかし、まだ5歳にしかならず、ルイ14世の甥のオルレアン公フィリップ2世が摂政として権力を握るが、政治状況はかなり混乱した状態にあった。
そうした状況を踏まえたかのように、リカの手紙は政治体制に話題を移す。

生活の様式や流儀も、モードと同じです。フランス人たちは王の年齢に応じて風俗を変えます。君主は国民を厳かにできるでしょう。そうしようと企てたとすれば、ですが。王子は、彼の精神の特色を宮廷に刻み込みます。宮廷は町に。町は田舎に。君主の魂が一つの型になり、あらゆる人間の魂に形を与えるのです。

Antoine Watteau, La fille capricieuse

ルイ14世の晩年は、度重なる戦争のために財政は破綻状態にあり、民衆は重税に喘いでいた。また、王と秘密裏の内に結婚したマントノン侯爵夫人の影響もあり、宗教的な抑圧が強い時代でもあった。「国民を厳かにする」という指摘は、そうした雰囲気を指しているのだと考えられる。

5歳のルイ15世の時代になると、ロココ様式から感じられる軽やかで気まぐれな感じが一気に広まったものと思われる。

モードでも気まぐれなフランス人は、王に対しても気まぐれで、本質を捉えることなく、外見だけを求める。しかも、その外見もその場その場で容易に変えてしまう。

このように見てくると、1712年のパリ到着直後に感じたフランス人の生活様式の「速さ」の指摘が、5年後にはモードや政治とつながり、17世紀から続く外見の文化に対する批判になっていることが理解できる。

外見だけで判断するパリの住民たちの様子は、30番目(1712年12月6日)の手紙で生き生きと描かれている。

リカは、パリに到着時には、祖国の服を着ていたために好奇心の的になった。しかし、ヨーロッパ風の服を着ると、誰の注意も引かなくなる。
そうなった時の心持ちをリカは「恐ろしい虚無に突然入った。」と表現する。つまり、匿名の存在になったのだった。

そんな中で、リカはペルシア人だと教えられた人が、こんな風に言うのを、リカは耳にする。
「えっ! この方がペルシア人? びっくりしますね! どうしたらペルシア人になれるのでしょう?」

ペルシア人であることの判断は、目に見える服だけ。それほど外見の文化が強い中で、服の流行がめまぐるしく変わっていくとしたら、本質や真実などどうやって捉えられるだろう。

24番目の手紙で指摘された「速さ」の指摘は、滞在が進むに連れて、フランスの文化や精神性についての具体的な考察へとつながっていく。

(2)幸福と美徳 洞窟人の寓話

パリに到着する前、ウスベクはエスファハーンに留まるミルザと手紙をやり取りし、人間が幸福であるためには、感覚の喜びに身を任せる方がいいのか、美徳を守って生きる方がいいのか、という質問を受ける。(10番目の書簡)

そして、「美徳が幸福を生み出す」という自説を証明するため、4通の手紙(11−14)を費やし、「洞窟人」の寓話を語る。

11番目の書簡では、悪い洞窟人の例が語られる。


 かつてアラビアに「洞窟人」と呼ばれる小民族がいた。彼らは古代の洞窟人の末裔で、歴史家の言を信じるとしたら、人間よりも動物に似ていた。古代の洞窟人は彼らほど身体が歪んではいなかった。熊のように毛むくじゃらでもなかった。鋭い声を建てることもなかった。目は二つあった。他方、あの「洞窟人」たちは、意地が悪く、獰猛で、彼らの中には平等と正義の原則が全くなかった。
 彼らは外国から来た王を持ったことがあった。王は彼らの気質から来る意地悪さを改善しようと望み、厳しく対処した。しかし、彼らは王に対して陰謀を企て、王を殺害し、王族を皆殺しにしてしまった。
 それをやり遂げた後、彼らは集まって、一つの政府を選んだ。その後、数多くの争いをしながら、役人たちをこしらえた。しかし、選ぶとすぐに耐えがたくなり、役人たちもまた殺してしまった。
 この民族は、新しい軛から自由で、もはや相談するものといったら、彼ら自身の野蛮な性質だけだった。個人一人一人が決めたのは、誰にも従わないこと、そして、自分の利益だけを考え、他人の利益は顧みないということだった。
 満場一致でなされたこと決定が全ての人を満足させ、彼らはこう言うのだった。「自分に関係のない人のために何かして、自分が死ぬなど、何の役に立つのだろう? 私は自分のことしか考えないようにしよう。そうすれば、幸せに生きられるだろう。他の人々が幸福かどうかなどどうでもいい。私は自分が必要なものを手に入れるだろう。それを手に入れさえすれば、他の洞窟人たちが悲惨な状態にあったとしてもかまわない。」

悪い洞窟人は、人間よりも動物に似ているという。
最初は身体付きに関する記述だが、次には「悪」が何かに言及される。
彼らには、平等の観念も正義感もなく、自分の利益しか考えない。というのも、幸福を得るためには、個人の利益だけを追求するしかないと考えているからだ。

従って、社会制度あるいは政治制度は、彼らにとって意味をなさない。なぜなら、政治や社会は個人ではなく、個人の集合によって成立するものだからである。
この手紙の日付は1711年になっており、その時代にはまだルイ14世が存命中だった。悪い洞窟人たちであれば、太陽王でさえも殺害してしまったかもしれない。

彼らの原則は、「自分の利益だけを考え、他人の利益は顧みない」ということになる。
では、その原則に従って生きることで、幸福を得られるのだろうか?

寓話の続きは、悪い洞窟人たちの末路を描いている。

彼らが住む小さな国には、険しい山の地方と、川が流れる平地の地方があった。
日照りで水不足の年には、山側の収穫は悪く、平地側は豊かな収穫がある。別の年には雨が多く、収穫が逆になる。
どちらの年にしても、困った方が飢えに苦しむだけで、お互いに助け合うことはない。

こうした例がいくつか語られた後、最後に疫病のエピソードが付け加えられる。
国全体が病気に襲われた時、隣の国から医者がやってきて、病を治してくれる。その医師が報酬を要求すると、誰一人支払おうとしない。
翌年、また同じ病がその地方を襲い、人々は医師に助けを求めにやってくる。すると医師はこう言う。

「やれやれ、不当な人々よ! お前たちの魂には毒がある。お前たちが直したいと望んでいる毒よりももっと致命的な毒だ。お前たちは、この「大地」に場所を占めるに値しない。お前たちには人間性というものがない。公正さの規則を知らないのだ。神々がお前たちを罰しようとしているのだから、神々の裁きに反対するようなことをすれば、私は神々に背くことになってしまう。」

この医師の言葉の中に含まれる「人間性」や「公正さ」こそが、人間の幸福を生み出す原理だというのが、ウスベクを通したモンテスキューの主張である。

22番目の手紙の中では、よい洞窟人についての記述によって、この点がより明確に示される。

 親愛なるミルザよ、どんな風にして洞窟人たちが意地の悪さにために死に絶え、彼ら自身の不公正の犠牲になったのかわかったと思います。数多くの中から二家族だけが、民族の不幸から逃れました。その国で、二人の男だけが他の人とは違っていたのです。二人は人間性があり、正義とは何かを知り、美徳を愛していました。彼らは、真っ直ぐな心持ちを持っていたことと、他の人々の心は堕落していために、二人だけ結びつき、みんなの悲惨な状況を目にし、哀れみの気持ちを抱いきました。それが新しい結束の動機でした。彼らは共通の利益のために、同じ気持ちで働きました。諍いがあってとしても、それは彼らの穏やかで優しい友情から生まれたものでした。遙か遠くの地方で、彼らと一緒にいるのに相応しくない同国人たちから離れて、幸福で平穏な生活を送りました。大地は自ずから作物を作り出しました。美徳の手によって耕されていたからです。

よい洞窟人に付与されている特性は、「人間性」「正義」「美徳」という言葉によって明記される。
彼らは他人の不幸に「哀れみ」を抱き、たとえ多少の相違があったとしても、「共通の利益」のために働く。

「大地は自ずから作物を作り出す」という記述は、ヨーロッパの伝統の中で古くから続く理想世界である「黄金時代」を思わせる。

その理想が、パリに到着する以前のオリエントの人間によって描き出されたことは、ウスベクがどのような視点からパリの現実を観察するかを示す上でも興味深い。

(3)宗教感情と理性

よき洞窟人たちの生活は、別の視点から見ると、自然な宗教感情の表現ということもできる。
モンテスキューにとって、合理的な根拠がなく、政治でいえば絶対王政、宗教でいえばキリスト教やイスラム教の細々とした儀式のように、予め押しつけられた秩序は、人間を幸福にするものではなかった。

46番目のウスベクの手紙(1713年8月8日)は、そうしたモンテスキューの宗教感情に基づいて書かれている。

その手紙の後半は、キリスト教、イスラム教、ヒンズー教など、様々な宗教の儀式の例を挙げ、様々な矛盾点を突き合わせ、個別の宗教を批判する。

それに対して、前半では、彼が考える宗教のあり方を紹介する。その核となる言葉は、よき洞窟人と同じ「人間性」である。

 私がここ(パリ)で見ている人々は、宗教について絶え間なく論争しています。将来宗教を実践しそうもない人々とも、争っているように思えます。
 彼らは単によいキリスト教徒というだけではなく、よき市民であり、そのことが私の心を打ちます。というのも、どんな宗教を生きていようと、法律を守り、人々を愛し、両親に対して敬虔であることが、宗教の最初の行為だからです。
 実際、宗教的な人間の最初の目的は、神に気に入られることではないでしょうか? 神は神が言葉にした宗教を確立したのですから。そして、神に気に入られるための最も確実な方法は、社会の規範を守り、人間としての義務を果たすことです。なぜなら、どんな宗教を生きようと、一つの宗教があるとしたら、神が人間を愛していると考えないといけないからです。神が宗教を作ったのは、人間を幸福にするためです。神が人間を愛しているとしたら、人間は人間を愛することで、神の気に入られることを確信できます。つまり、人々に対して慈悲と人間性の義務を発揮すること。そして、人々が自分たちの法律を犯さないこと。
 そのようにすることで、これこれの儀式を遵守するよりも、神に気に入られることは確かです。

ウスベクの言葉の中で、まず最初に、「どんな宗教を生きていようと」という言葉に注目したい。
彼が宗教というとき、話題にしているのは、キリスト教、イスラム教といった個々の宗教ではないことが、その言葉から理解できる。
個別の宗教を超えた「宗教感情」が、彼の興味の対象なのである。
だからこそ、彼は、その感情を論じる時に、キリスト教徒やイスラム教徒ではなく「宗教的な人間」という言い方をする。

宗教的な人間が最も心掛けることは、「神に気に入られること」。

「気に入られる(plaire)」は、17世紀において最も重視された振る舞いであり、宮廷社会で最も基本的な行動だった。
ウスベクはその行為を神につなげ、神の次元と人間の次元を繋げる。

彼によれば、神に気に入られるためには、よき市民でなければならない。よき市民とは、「法律を守り、人々を愛し、両親に対して敬虔であること。」

神は人間を愛している。そこで、慈悲と人間性を持って人間に接することで、神に愛される存在になることができる。
それこそが、人間の幸福なのである。
「神が宗教を作ったのは、人間を幸福にするためです。」 この言葉が全てを要約している。

こうした宗教のあり方は「自然宗教」と呼ばれることがあるが、漠然とした宗教感情を持つ日本人には、制度化された宗教よりもわかりやすいのではないだろうか。

さらにここで注目したいのことは、「自然宗教」が決して「理性」と対立するものではないということ。

ウスベクは、ヨルダンの山に住むイスラム教の僧に送った97番目の手紙の中で、デカルト以降の哲学者や物理的な法則に基づく様々な原理について語り、それが宗教と類似的な関係にあることを示す。

ウスベクによれば、パリの哲学者たちは、オリエント的叡智の頂点にまでは到達していない。しかし、沈黙のうちに瞑想し、人間の理性の痕跡を辿っている。

理性という道案内が彼らをどこまで運んでいったのか、あなたは信じられないかもしれません。彼らは「混沌」をほぐし、単純な力学で、神の構築物の秩序を解明しました。自然の主が物質に動きを与えたのです。それ以上のものを必要とせずに、驚くほど多彩な効果を生み出したのです。私たちは、それらを宇宙の中で目にしているのです。

宇宙を神の摂理としてではなく、物理法則で説明する。十八世紀の初頭、こうした考えは、キリスト教の側からは異端として攻撃の対象になった。『ペルシア人の手紙』が禁書に指定されるのは、王権だけではなく宗教に対するこうした問い直しが理由となっている。

しかし、モンテスキューにとって、「単純な力学」は「自然の鍵」なのだ。
いくつかの原則を解明すれば、そこから一気に結果を導き出すことができる、とウスベクは言う。

宗教者と哲学者の違いは、一方が神秘を神秘として受け取るのに対して、他方は分析的な解明に努めるという点にかかっている。

聖なるお方、あなたは一般的な法則をお信じになるでしょうか? おそらく、「永遠なる神」のお導きに従い、神秘的な出来事の崇高さに驚かれるでしょう。理解することを予め止め、褒め称えることだけをお考えになるのです。

哲学者に関しては、どのようなことを述べるのだろうか。

5つか6つの真実の知識が哲学を奇跡に満ちたものにし、数々の驚くべきことや魅惑に満ちたことを作り出しました。その数は、聖なる預言者たちについて伝えられていることと同じほどです。

自然の現象について、奇跡と見なすか、観察と科学と合理的な思考によって一般的な法則を解明するか、違いは、それに向き合う姿勢にかかっている。
ウスベクがその両者を並列して語るとしたら、宗教と科学を対立させるのではなく、むしろ和解させようという精神に基づいている。

モンテスキューが批判の対象とするのは、個別の宗教が恣意的に定めた各種の規則や儀礼であって、宗教感情を非難しているのではないことが、こうした記述から理解できる。

宗教も科学も人間を幸福にするためのものであり、モンテスキューの考察は常に幸福の問題に帰着すると考えてもいい。


モンテスキュー『ペルシア人の手紙』田口卓臣訳、講談社学術文庫、2020年。

モンテスキュー『法の精神』井上堯裕訳、中央公論新社、2016年。

モンテスキュー『ローマ人盛衰原因論』岩波文庫、田中 治男、栗田 伸子訳、1989年。

モンテスキューについて
ポール・アザール『モンテスキュー その生涯と思想』古賀 英三郎、高橋誠訳、法政大学出版局 叢書・ウニベルシタス, 1993年

17世紀から18世紀にかけての時代精神について
ポール・アザール『ヨーロッパ精神の危機』野沢協訳、法政大学出版局 、1973年。

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google フォト

Google アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中