古典主義絵画の美意識 1/2 アカデミー系の画家たち プッサン ル・ブラン 等

ヨーロッパ芸術は、16世紀後半から18世紀半ばまで、バロック様式が主流となった。それ以前のルネサンス様式の特色が均整と調和だとすると、バロックは情動性と運動性によって特色付けられる。
フランス古典主義は、バロックの時代にあって、ルネサンス様式への回帰を模索し、理性によって情念を制御することで、秩序ある空間表現を美の基準とした。

ルネサンス→バロック→古典主義の流れを視覚的に把握するために、3つの時代の代表的な作品を比べてみよう。

ルネサンス→バロック→古典主義

古典主義絵画を代表するニコラ・プッサン、フィリップ・ド・シャンパーニュ、シャルル・ル・ブランの作品。
1631年、1652年、1689年の作だが、どれも、秩序ある画面構成が行われ、ある情景の最高の一瞬を永遠に留めているという印象を与える。

バロック絵画を代表するカラヴァッジョの作品。動きの激しさと明暗のコントラストが目に飛び込んで来る。

ルネサンスの代表はラファエロ。均整が取れ、穏やかでありながら威厳がある。

17世紀フランスの古典主義が美の理想としたのは、ラファエルだった。
そうした美意識が絵画だけではなく建築にも及んでいたことは、フランソワ・マンサール(1598-1666)の設計したラ・フィットの館や、ピエル・パテルの描くヴェルサイユ宮殿の全体像からも見て取ることが出来る。

アカデミー系の画家たち

17世紀フランスの宮廷社会では、王と貴族の力が拮抗していた。そんな中、1624年、ルイ13世はリシュリューを宰相に登用し、王権の強化を図っていった。
その文化政策の一環として、辞書と文法書の編纂を主な目的とした「アカデミー・フランセーズ」が1635年に設立され、言語統制の政策が行われた。

1643年に5歳で即位したルイ14世の時代の初期にも政治的な混乱は続いていた。その一方、芸術の分野では、1648年に「王立絵画彫刻アカデミー」という組織が発足し、美の規範が定められる体制が出来上がりつつあった。
そして、1663年には、王室付きの画家は王立絵画彫刻アカデミーに所属することという通達が、ルイ14世から出されるまでになる。

17世紀前半でもう一つ注意しておきたいのは、ルネ・デカルトの存在によって象徴される「理性」の時代が到来しつつあったこと。
人間の本質を理性と考え、人間の正しい行動は、理性によって情念を制御することだと見なされる。物事の正しい理解のためには、確実だと思っていることを疑い、分析や総合という知的な操作を行い、真理に到達することが求められる。
この思想が17世紀の時代精神に大きく影響し、王権による貴族の統制や、王立絵画彫刻アカデミーにおける美の規範を定義する動きとも対応した。
小さなことでは、アカデミー会員たちは、品方方正な「紳士」としての振る舞いが求められた。

シモン・ヴーエ「ルイ13世の肖像」

「王立絵画彫刻アカデミー」を設立した時に中心的な役割を果たしたのは、シャルル・ル・ブランだが、まず、彼以前に位置する3人の画家について見ておこう。

17世紀前半を代表する画家の一人が、シモン・ヴーエ(1590-1649)。
彼はトルコのイスタンブールやイタリアに15年以上滞在し、イタリアのバロック絵画をフランスに伝え、1627年にフランスに帰国すると、ルイ13世によって「国王第一の画家」に任命された。

「受難の道具を持つ天使たち」の迫力のある動きや激しい光のコントラスト、「豊穣の寓意」の中心を占める女神の力強さは、バロック絵画の典型だといえる。


ヴーエの友人であったクロード・ヴィニョン(1593-1670)もイタリアに留学し、バロック絵画の代表的画家として活躍した。
「サロモンとシバの女王」や「自害するクレオパトラ」は、聖書や古代にテーマを取りながら、闇と光を巧みに配合し、劇的な雰囲気を作り出している。

ニコラ・プッサン 自画像

ニコラ・プッサン(1594-1665)は、ヴーエやヴィニョンとほぼ同じ時期にローマに滞在し、二人と同じようにバロック絵画を学ぶところから出発した。

1624年にローマでの留学を開始した後、詩人、宗教家、思想家など多くの知己を得ながら活動を続けた。その結果、彼の名声は大きなものになり、1640年にはルイ13世によりフランスに呼び戻され、ヴーエに続き「国王第一の画家」に任命される。
しかし、フランスには2年しか留まらず、ローマに戻り、生涯の最後までイタリアに留まった。

従って、イタリア・バロックの影響は大きいはず。初期作品を見ると、左右が非対象で、肉体は不自然なほどよじれたり引き伸ばされたりし、一見、激しい動きがあるように見える。
実際、「聖エラスムスの殉教」にしても、「幼児たちの虐殺」にしても、構図や身体の形はバロック的な印象を与える。

しかし、よく見ると、登場人物たちの劇的な身体の形は固定していて、ちょうど劇場の舞台の上で役者たちが演じる演技の最高の瞬間を捉え、その場面を永遠に固定したかのようでもある。
ヴーエの「受難の道具を持つ天使たち」とプッサンの「無垢な子供たちの虐殺」を見比べてみると、動きの有無がはっきりとわかる。

1640年のフランス帰国直前に描かれた「アルカディアの牧人たち」は、古典主義を代表する作品であり、この一枚を見れば古典主義が理解できるとさえいえる。

左右にバランスよく配置された4人の人物の構図は均整が取れ、安定している。跪く二人が指で示すのは、ラテン語で記された「我(死)、アルカディアにも在り」と刻まれた文字。そこは、透視遠近法の「消失点」でもある。
その「消失点」を中心にした構図の中で、人間も事物も不動で、「常に死を思え」という格言を発見した時の驚きの「瞬間」が、「永遠」に留められている。

「階段の聖母」や「ソロモンの審判」では、マリアとソロモンを頂点とした三角形の構図が形作られ、人物たちの動きは演劇的な身振りの最高の瞬間が捉えられている。

連作「季節」においても、透視遠近法を用いた安定した構図の中で、四季それぞれの光景が見事に表現されている。

17世紀フランスの古典主義絵画はニコラ・プッサンによって代表される。彼が画家としてのほとんどの期間をローマで過ごしたことを考えると皮肉にも思えるが、1641年から1665年の間、彼は「国王第一の画家」の地位を占め、フランスからの注文に応じて画業を行っていた。彼がブルボン王朝の「よき趣味」の形成に大きな働きをしたことは、大きな意味を持っている。


シャルル・ル・ブラン(1619-1690)はプッサンに続き、1664年から1690年まで「国王第一の画家」の地位にあった。また、1648年の「王立絵画彫刻アカデミー」の設立を働きかけ、実現したのも彼である。

日本でシャルル・ル・ブランの名前はあまり知られていないが、フランスに旅行をしたことがあれば、彼の作品を一度は目にしているはずである。というのも、17世紀の主要な建築物の多くを手がけ、ルーブル宮殿(現在の美術館)やヴェルサイユ宮殿の装飾も彼によるものだからである。

初期の作品は、ローマ留学時に学んだバロック様式を色濃く反映している。「ヨハネの殉教」や「ダイダロスとイカロス」のアンバランスな構図と身体のねじれは、そのことをよく示している。

シャルル・ル・ブランは、こうしたバロック的な要素をどこか残しながら、理性によって情念が制御され、華やかでありながら落ち着きもある、ルイ14世の時代を代表する古典主義絵画を描いていった。

ル・ブランの絵画は、「王立絵画彫刻アカデミー」が制度化しつつあった美学理論の基礎となったと考えられる。

1)絵画は知的な視覚芸術であり、価値のある主題を選び、その意味を最も的確に表現することが重要となる。

2)絵画の題材には序列がある。 静物画→肖像画、風俗画→神話画、宗教画、歴史画

3)絵画表現の中心は線(素描)。
素描は現実を再現する役割を果たし、物事の本質(魂)を描くことができる。他方、色彩は光によって変化する偶発的なものにすぎず、表面的な技術に留まる。
その二分法は、精神と物質、頭脳と手、心と眼、規則性と規則的でないものという二分法ともつながり、ル・ブランたちは、素描が物事の本質を再現すると主張した。
ただし、線vs色の評価に関しては意見が分かれ、色彩を重視するルーベンス派と素描を重視するプッサン派が両立していた。

以上の美学理論が、17世紀後半のフランス絵画の美の表現を規定していくことになったことは、古典主義美学を理解する上で重要である。

アカデミーに関してとりわけ注目に値するのは、1663年にルイ14世によって創設された「ローマ賞」という制度。
一年に一度行われるコンクールで、建築、絵画、彫刻、版画の部門に分かれ、王立アカデミーによって優秀者が選出された。
上位2名には奨学金が出され、ローマの高台にあるメディチ家の館(ヴィラ・メディチ)に寄宿し、イタリアの芸術を学び、実践する機会が与えられた。
「ローマ賞」の制度は、1968年に廃止されるまで続き、フランスの名だたる芸術家の多くはこの賞の受賞者だった。
そのことは、アカデミーの影響力の大きさを示している。


1648年の「王立絵画彫刻アカデミー」設立時に会員となった画家に、ルナン兄弟がいる。
アントワーヌ、ルイ、マチューという3人の兄弟が共同で絵画制作にあたり、とりわけ農民の家族を取り上げた風俗画を数多く描いた。

「幸福な家族」「祖母の訪問」「農民の家族」「荷車」を見ても、描かれた人物全てが静止し、絵画全体に静謐な雰囲気が作り出されている。

卑俗なテーマではないジャンル、つまり宗教画や神話画を手がけることもあったが、雰囲気はほどんど変わらない。

3兄弟は「王立絵画彫刻アカデミー」の会員に選ばれたが、その直後にアントワーヌとルイが死んでしまい、マチューだけが残された。
そのためもあってかルナン兄弟の作品は17世紀後半には評価が低くなり、卑俗なテーマを高貴とはいえない手法で描いたと非難されたり、一般市民の生活情景をやや滑稽に描いたバンボッチャンティ(Bamboccianti)と呼ばれる風俗画に分類されたりもした。

ルナン兄弟の再評価は、19世紀後半の写実主義作家シャンフルリーによってなされるまで待たなければならなかった。


フィリップ・ド・シャンパーニュ(1602-1674)も、「王立絵画彫刻アカデミー」の創立メンバーだった。

ベルギー生まれで、1620年頃にはパリでニコラ・プッサンと共にリュクサンブール宮殿の装飾を手がけ、その後は時の権力者であるリシュリュー枢機卿の庇護を得てフランスで仕事を続けた。
当時、彼はリシュリューが枢機卿の服装をした姿を描くことができる唯一の画家だった。さらに、ルイ13世の母であるマリー・ド・メディシスをモデルにした宗教画も描いている。

フィリップ・ド・シャンパーニュが古典主義の画家の代表であることは、彼の宗教画がラファエル的な印象を与えることからも読み取ることができる。イエス、マリア、聖エリザベス、ヨハネが描かれた「聖家族」は、ラファエルの模写である。「寺院でのイエスのお披露目」も構図が整い、ルネサンス絵画を思わせる。

1642年、一人息子の死という出来事があり、フィリップ・ド・シャンパーニュはジャンセニストの思想に近づき、ポール・ロワイヤル修道院の画家となる。

「1662年の奉納画」は、修道女となった娘のカトリーヌ・ド・シャンパーニュが足を病み歩けなくなりながら、奇跡的に回復したことを感謝するために描かれた。
「ヴァニタス」は晩年の作品で、「人生の空しさ」の寓意を、髑髏と砂時計と花を並行に並べることで、見事に描いている。


ピエール・ミニャール(1612-1695)は、肖像画と建造物の装飾画を多く手がけ、シャルル・ル・ブランの競争者でもあった。1690年、ル・ブランの死で空席になった「国王第一の画家」のポストは、彼に与えられた。

ミニャールの絵画は構図が明瞭で、静謐な印象を与え、古典主義様式の特徴をしっかりと備えている。
その一方で、衣服の線がかなり細かな曲線で描かれ、これまで見てきた画家たちの整然とした線とは異なっている。
その点で、次の時代に到来するロココ様式の準備をしているようにも見える。
「ラ・ヴァリエール侯爵夫人の肖像」やルイ14世の弟一家を描いた「ルイ14世の王太子の家族」の衣服に付けられたレース飾りの表現を見ると、ル・ブラン、ルナン兄弟、フィリップ・ド・シャンパーニュたちとの違いがよくわかる。

ロココ様式に向けて

1650年代以降に生まれた画家たちは、古典主義からロココ様式に向かう中間地帯にいるといってもいい。ロココ絵画の画家として紹介されることも多くある。

整った構図や静止した身体表現は古典主義の様式を引き継いているが、細部の表現では柔らかな曲線が多用され、ふわりとした穏やかさがロココ的だといえる。

ニコラ・ド・ラルジリエール(1656-1746)は、17−18世紀を通して最も名高い肖像画家の一人だった。

彼はパリで生まれたが、家族の関係でベルギーのアントワーペンで子供時代を過ごし、フランドル地方の絵画から色彩表現や明暗法を学んだ。
その後ロンドンで過ごし、1679年にパリに戻って来た時、シャルル・ル・ブランに認められ、フランスでの活動を開始した。

多くの場合、彼の肖像画に描かれるのは裕福な市民階級の人々であり、「美しいストラスブールの女性」や「マルグリットド・ラルジリエール」のように、モデルの個性が見事に表現され、大変に美しい肖像画になっている。

イアサント・リゴー(1659-1743) も肖像画を専門としたが、彼の場合には、モデルとなった人物を偉大で気高く表現することに特色がある。その典型がルイ14世を描いた一枚。誰もが一度は目にしたことがあるだろう。
ルイ15世の肖像画もほぼ同様のスタイルで描かれ、王の権威を気品高く、偉大に表すことに成功した作品といえる。

アントワーヌ・コワペル(1661-1722) は、端正な画面構成の古典主義的な作風から、明暗法や豊かな色彩で優美さを描き出すといった作風を変化させ、古典主義からロココへの橋渡しをした画家だとみなされる。
素描vs色彩の論争では、ルーベンス派を支持し、感覚的な色彩に重きを置く絵画を作成した。

「豊穣」と「レダと白鳥」を比較すると、その移行を見て取ることができる。

興味深いことに、ピエール・ミニャールが1695年に死んだ後、空席になっていた「国王第一の画家」のポストが、1716年にコワペルに与えられた。理性的な思考から感覚論へと時代精神が移行するのと対応して、絵画表現も変化したことの証だといえるだろう。


以上のように、「王立絵画彫刻アカデミー」を軸として17世紀絵画を考察すると、ニコラ・プッサンを頂点とした古典主義絵画が、理性的な構築物としての絵画表現を探求し、瞬間を永遠として捉え、理想の美を作り出すことを目的にしたことがわかってくる。

17世紀前半の画家たちの絵画表現の違いは、古典主義美学の枠の中での違いだった。
それに対して、1650年以降に生まれた画家たちは、感覚に訴えかける表現を求め始め、18世紀のロココ絵画への道を切り開いていった。



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