グリム童話の楽しさ 2/3

口頭伝承から読み物へ

1819年に出版された『子どもと家庭のための昔話(メルヒェン)集』第二版の序文で、グリム兄弟は、自分たちの集めた物語を出版するにあたって、なによりも忠実さと真実性を重視したと言う。
そして、個々の表現については修正した部分もあるが、基本的には何一つ加えず、美化することもせず、聞いた通りを再現しようとしたと主張している。

しかし、1812年の第一版から1857年の第七版までを比べてみると、彼らの主張とは別の事実が見えてくる。
私たちが一般的に手に取るのは、最後に出版された第七版であり、それだけ見たのではわからないが、前の版と比べると、かなり訂正が加えられていることがわかる。
その比較を通して見てくるのは、「話される物語」から「読まれる物語」へと変わっていく過程である。

ここでは、「かえるの王様」の最初の部分を取り上げ、グリム兄弟がクレメンス・ブレンターノに渡した原稿(1810年)、1812年の初稿、1819年の第二版、そして、最後に出た第七版と四つの版を比較検討してみよう。

ブレンターノに渡した原稿(1810年)

王さまの末の娘が森へ出かけていきました。そして冷たい泉のほとりに腰をおろしました。それから金のまりをとりだして、それで遊びました。

ここには、「昔むかし」という昔話の決まり文句がない。また、出てくるのは筋の運びだけで、描写や、行動の説明といった要素もない。出来事をぐいぐいと前に進めていくシンプルな語り口である。

初版(1812年)

むかしむかしあるところに王さまの娘がいました。この娘が森へ出かけて、冷たい泉のほとりに腰をおろしました。姫は金のまりを持っていました。これが姫の大好きな遊び道具でした。そのまりを空高く投げあげてはまた受け止めていました。姫はその遊びが好きでした。

最初に印刷本として出版されたこの版では、昔話を開始する常套句が付け加えられ、語られる物語が昔話であることがわかるように加工されている。
金のまりについては、それが姫のお気に入りの遊び道具だという説明が加えられ、まりで遊ぶときの様子も描かれる。

このように、原稿から印刷本になった時点で、すでに多くの手が加えられ、一般に考えられている昔話に近づいていることがわかる。

第二版(1819年)

むかしむかし、あるところにひとりのお姫さまがいました。お姫さまは退屈で、何をしたらいいのかわかりませんでした。そこで、いつも遊んでいる金のまりを持って、森の中にはっていきました。この森の奥には、すんだ、冷たい水をたたえた泉がありました。お姫さまはそのそばに腰をおろして、まりを上へ投げ上げては、落ちてくるのをうけとめ、楽しく遊びました。

この版になると、お姫様は退屈しているという心理的な要素が付け加えられ、森の中に入っていった理由が説明される。
また、泉の描写も出てきて、描かれる世界の具体性が増している。

第七版(1857年)

むかしむかし、まだ人の願いごとがかなったころ、あるところに王さまが住んでいました。この人の娘たちはみんなきれいでしたが、末の娘がとりわけきれいで、いろいろなものを見てきたお日さまでさえ、その娘の顔を照らすたびに、おどろいたほどでした。この王さまの城の近くに大きな暗い森があって、森のなかの古い菩提樹の木のしたに泉がわいていました。暑くてしかたがない日には、末の姫は森の中に出かけていって、冷たい泉のほとりに座ることにしていました。退屈すると、金のまりを出して、高く投げあげては、また受け止めて遊びました。これが姫の大好きな遊びでした。

第七版になると、「まだ人の願いがかなった頃」というフレーズが加わり、この話が別世界で展開することを予告し、単に、「むかしむかし」だけのときよりも、はるかに神秘的な感じが出てくる。
主人公の美しさの描写、姉との比較や太陽への言及は、いかにも昔話っぽい様子を醸し出す。森の木は菩提樹という名前が出され、具体性を増す。暑くてしかたがない日だったという状況は、具体性を強めるだけではなく、姫が泉のほとりに行く理由を説明することにもなる。

こうした細かな説明や描写は、物語を耳で聞くときには煩雑な要素になりかねないが、本を手にとって読んでいくさいには、大きな効果をあげることになる。

このように、「かえるの王様」の原稿から最終稿までを比較すると、同じ話が異なった種類の物語へと変形されていく様子がはっきりとわかる。あらすじだけをぐいぐいと語っていく物語から、読み物として完成度の高い作品へと、姿を変えていったのである。

こうした文芸性をよく表している例として、ヘンゼルとグレーテルが森の中でたどり着く家を取り上げてみたい。
ペローの「親指小僧」では、人食い鬼の家だった。グリム童話の中でそこに住むのは人を食べる魔女で、子どもたちが食べられそうになるという物語は同一である。
しかし、グリム童話では、魔女が住むのはお菓子の家であり、非現実性を増すだけではなく、ファンタジーの世界につながる。実際、その描写や、そこでかわされる会話は、素朴さからはほど遠い。ヘンゼルは、パンで作られ、屋根はビスケット、窓は白い砂糖でできた家を食べ始める。

ヘンゼルは手を上にのばすと、屋根をちょっとかいて、どんな味がするか試してみました。グレーテルは窓ぎわへよって、ガラスをぼりぼりかじりはじめました。そのとき、やさしい声が部屋のなかから聞こえてきました。
「かじるぞ、かじるぞ、ぼりぼりかじる、わたしの家をかじるのは、だれだ。」
子どもたちが返事をしました。
「風だよ、風だよ、天の子だ」
でも、ふたりは、そんなことはおかまいなしに、食べつづけました。

家の持ち主と二人の子どもの掛け合いは、民話というよりも、文学作品だといえる。とりわけ、子どもが自分たちを、風であり、天の子だという返事は、たいへんに詩的である。

グリムたちは採集した物語を美化するようなことはしないと書いている。しかし、実際には、素朴な民話に彼らが手を加え、文芸作品的な色合いを持った物語へと改変していった。どちらがいいとか悪いということではなく、それが一つの事実である。

物語の役割

グリム童話は基本的には民話を語り直したものであり、物語の大筋では元の形のままである。従って、基本構造の「欠如—試練—充足」という流れにそって展開している。

この構造は、「死と再生のドラマ」と対応しており、「試練」から「充足」への動きは、「象徴的な死」から「再生」という、自然や人間の「生命の動き」を表してもいる。

グリム兄弟がこの物語の動きに重きを置いたことは、「赤ずきん」の最後に救出劇を付け加えたことからもよくわかる。
ペローでは赤ずきんちゃんが死んで終わる警告の物語であり、「充足」「再生」はなかった。しかし、グリムたちにとって、一つ一つの物語は「死と再生のドラマ」でなければならなかったに違いない。


「かえるの王さま」「狼と七匹の子やぎ」「ヘンゼルとグレーテル」「灰かぶり(シンデレラ)」「ブレーメンの音楽隊」「いばら姫」「白雪姫」等、誰にでも知られている物語はすべて試練を克服する物語であり、この構造に従っていない物語を探すことが難しい。
そのことは、ハッピーエンドの物語が好まれていること証拠だといえる。

それと同時に注意したいことは、ハッピーエンドの裏側には、悪い者が罰せられる物語が平行しているということである。
赤ずきんを食べた狼は、狩人にお腹をさかれ、石を詰め込まれた上で、井戸の中に投げ入れられる。シンデレラの姉たちは、鳥に目をつつきだされる。
「美徳は報われ、悪は罰せらる」世界なのだ。

「三つの願いごと」をベースにした「漁師とそのおかみ」でも、グリム童話が善と悪の均整を好むことが確認される。
一般にこの物語は、神から三つの願い事を許された主人公が、愚かなことばかり願い、結局何も得られないという話である。
グリム童話の場合には、正しい行いの主人公には三つの願いを有効に使うことができ、食べ物と家と魂の救済を得ることができる。他方、神を敬わない登場人物は、馬に死んでしまえばいいと悪態をつき、妻に馬の鞍の上に股がっていろと言い、実現してしまう。最後は、妻が鞍から離れられるように願い、結局は、馬を失っただけで終わる。
このように、いい者と悪い者を対比的に描き、物語の基本構造を浮き出させながら、美徳は報われ、悪徳は罰せられるという基本的な教訓を明確に伝えることが、グリム童話の思想である。

グリム童話は子どもたちに肯定的な世界観をはっきりと伝える。主人公は、どんなに苦労しても、最後は報われ、幸せになる。そのおかげで、読者である子どもたちは、いい行いをすればいつかはいいことがあるということを学ぶ

もちろん、物語の世界と現実の世界が直接対応し、単純な平行関係が説かれている訳ではない。
グリム兄弟が再話する物語とは、第二版の序文で言及される「災害の後にかろうじて残された麦の穂」と同じであり、ひっそりと人間を支えることを究極の目的としているといってもいいだろう。

残酷さ

グリム童話の残酷さが話題になることがある。しかし、残酷さはグリム童話の特色というよりも、民話では当たり前のこと。
グリム童話の残酷さがクローズアップされる理由は、子供向けの童話では、性的な要素と残酷な要素が削除される傾向にあるにもかかわらず、グリム童話では残酷さが色濃く残っているからだろう。ちなみに、性的な要素は残されていない。

では、なぜグリム兄弟は残酷さを残したのだろうか?

最初に考えられるのは、残酷さに関する感受性の違いである。19世紀初頭、罪人の処刑は民衆にとっては見せ物であり、子どもも含めてみんが喜んで見ていた。そうした時代には、ある程度の残酷さであれば、子ども用の本の中でも許容範囲であったに違いない。

ただし、それは程度の問題であり、1812年に初版が出版されたとき、アヒム・フォン・アルニムは、ある母親の言葉として、「子どもたちが屠殺ごっこをした話」のような残酷な話は子ども向きではないと批判した。

この話の中で、子どもたちは一人の友だちを豚に仕立て上げ、豚屋役の子どもがその豚を殺してしまう。小さなナイフでのどをかききり、料理番が小さな器で血を受けるという具体的な記述もある。
その後、子どもは、裁判長が片手に金貨を、もう一方の手にりんごを持ち、どちらかを選ぶという裁判にかけられる。金貨を取ったら死刑、りんごの場合は無罪。子どもはりんごを選び、罰を受けずに終わる。

アルニムの批判からは、当時の感受性でも、子どもに対する残酷さの許容範囲が狭められていたことが推測できる。そこでグリム兄弟は、第二版では、「子どもたちが屠殺ごっこをした話」をはじめ、残酷な物語の幾つかを削除するのだが、次のような反論もしている。

ヴェルヘルム・グリムは、子どもの頃に聞いた残酷な話のおかげで、遊ぶときにそんなことをしないように気をつけるようになった。
ヤコブ・グリムは、子どもも家族の一員であり、子どもに隠し事をする必要はないと考える。もし子どもに悪いことを見せないというのであれば、一日中見張っていなければならない。その上、子どもにはしっかりとした人間的センスが備わっているのだから、物語に出てくるような残酷な行為をそのまま真似るような馬鹿なことはしないはずである。

さらに、物語集第二版の「序文」の中では、民話に残っている手触りの大切さも強調する。
物語に求めるのは、「正直な物語の真実のなかにある純粋性」であり、「日常生活の中でいつも起こり、けっして隠しておくことができないようなある種の状態や事情と関係あるものを、心配のあまりすべて除去することによって得られる純粋性」ではないと言う。
残酷さを消し去ることで物語を純粋にしようとは思わない。むしろ、物語の真実、別の言葉で言うと、物語に息づいている詩を大切にすると主張し、次のように続ける。

とはいえ、わたしたちは、子どもたちにふさわしくない表現は、この新版では用心深く削除しました。それでも、いくつかの話が両親を当惑させるとか、不快であるという批判があり、この本をすぐに子どもたちの手に渡したくない、というようなことがあるかもしれません。個々のケースについては、こういう気づかいがもっともであることもあるでしょう。その場合には選集のほうをつかっていただければいいと思います。全体としては、ということは、健康な状態の場合には、もちろんそんな必要はないでしょう。

初版から第二版への改変の理由の一つが、一部の人々から批判された物語に残る残酷な部分であることがわかる。その一方で、グリム兄弟自身は残酷な物語や描写が残っていても、子供はそうした要素を消化してきたし、消化できると考えていた。その理由を以下のように説明している。

私たちをもっともよく弁護してくれるのは、これらの花や葉を、このような色と形で成長させた自然そのものです。なんらかの特別な供給があって、花や葉が気にくわない人がいても、それだからといって、花や葉が別の色を持ち、別の形を持つべきだと要求することはできません。あるいは、こうもいえるでしょう。雨と露は地上にある全てのものの上に、恵みとして降り注ぐ。もし誰かが、自分の植物はとても敏感で、雨にやられるかもしれないと思って、雨露の下りる外へ出さず、むしろ、室内において、ぬるま湯をやるとしても、その人は、それだからといって雨とか露に、なくなってくれと要求することはできません。自然なものはすべて栄えることができるのであり、わたしたちは、それを目指さなければなりません。

このように、グリム兄弟は、残酷さに対する批判を十分に意識した上で、子どもたちの心の健康さを信頼すれば、問題はないとしている。
民話とは花や雨と同じように自然に属するものであり、自然によって作られたものはそれだけで正当性を持っている。残酷さを隠すことで、自然をいびつな形にする必要はないというのが、彼らの主張である。

この点については、21世紀の現在でも問題になる点であり、後でもう一度取り上げることにする。

——— 続く ———

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