グリム童話の楽しさ 3/3

非現実世界への入り口

グリム兄弟は、童話集第2版の序文の中で、残酷な場面の正当性を主張しているが、その一方で、残酷な行為からリアリティを取り除く民話的な語り口も採用している。

その最初の手段が、物語の入り口に置かれる「昔むかし」という言葉である。この決まり文句は、これから話される出来事が、架空の世界で起こることを予告する役割を果たしている。

「かえるの王様」では、手書きの原稿にはなかったその表現が、初稿で付け加えられる。そして、その有無によって、読者が受ける印象は全く違うものになる。

王さまの末の娘が森へ出かけて行きました。(初稿)

むかしむかしあるところに王さまの娘がいました。この娘が森へ出かけて、冷たい泉のほとりに腰をおろしました。(初版)

この二つの版の語り方を比べると、昔話の冒頭に置かれる決まり文句が虚構世界への入り口となっていることがよくわかる。
初稿は、短編小説の出だしとしてもおかしくない。他方、「むかしむかしあるところに」があることで、初版は、昔話の世界にすぐに入って行く。
その印象は、1857年に出された版になると、さらに強くなる。

むかしむかし、まだ人の願いごとがかなったころ、あるところに王さまが住んでいました。この人の娘たちはみんなきれいでしたが、末の娘がとりわけきれいで、いろいろなものを見てきたお日さまでさえ、その娘の顔を照らすたびに、驚いたほどでした。(第七版)

この出だしを読んで、短編小説だと思う読者はいないだろう。そこに展開するのは昔話の世界であり、読者は最初からすぐに非現実の世界に入って行く。

平面的な語り口

この入り口から入るグリム童話の世界は、様式化され、平面的。登場人物たちは紙芝居の絵のようで、肉体が感じられない。切り裂かれても、血が出てきても、リアルな感じがしない。

「赤ずきん」の最後、猟師が狼の腹を切り裂き、おばあさんと少女を助け出す。
ベッドに寝ている狼を見て、おばあさんが食べられたに違いないと考えた猟師は、おばあさんを助けられるかもしれないと思い、銃で撃つのをやめる。

そこで猟師ははさみを取り、狼のおなかを切り開きました。二、三度チョキチョキやると、赤ずきんがちらっと見えました。もう少し切ると、女の子が飛び出してきていいました。「おお、びっくりした。狼のおなかの中って、なんて真っ暗なんでしょう。」

狼を切り裂いても、ここでは血も出てこない。チョキチョキ切ると赤ずきんが出てくる様子は、ぬいぐるみの狼のような印象を与える。ここには血の通った動物の臭いはないし、生命の感触も感じられない。人形芝居的世界だといってもいいだろう。体を切り裂いても、痛さを感じない世界。

「灰かぶり」に残酷なシーンが出てくることもよく知られているが、そこでの記述も平面的であり、痛々しさはない。
姉たちが足を切る場面はすでに見てきたが、その後、嘘が発覚するときには血への言及がある。

ふたり(姉と王子)がはしばみの木のそばを通りかかると、鳩が二羽木にとまっていて、声高く鳴きました。
「くーくーくーくー、よーく見てごらん。靴の中に血がいっぱい。靴が小さすぎるのさ。ほんとの花嫁、まだうちにいる。」
そこで王子が娘の足に目をやると、血があふでているのが見えました。

足の指を切って、血まみれになっているというのに、ここにも全く現実感はない。絵の上にただ赤い色が塗られているだけのように見える。

二番目の姉のときにも、血が流れる。

王子が娘の足を見おろすと、血が靴から流れでて、白い靴下がうえのほうまでまっ赤になっているのが見えました。


ここでは、白い靴下の上まで血に染まっているという記述が出てくる。しかし、文字通り、血の通った血が流れるわけではなく、現実性は何も変わらない。白い靴下が付け加えられることで、赤と白のコントラストが画面に映えるだけである。
このように、「灰かぶり」でも、残酷な行為からリアリティが除去されている。

様式化された語り口

物語から現実性を失わせる語り口として、次に、様式化を見ていこう。

民話や昔話では、同じ行為が三回繰り返されることがある。しかし、物語の中では誰も前の行為を覚えていないかのように振る舞う。

個々のエピソードの孤立性は、「白雪姫」の毒りんごの場面において、典型的な形で現れる。
白雪姫が森の中の小人の家にいると知った女王は、姫を殺すために、最初に色々な色の紐を渡す。2度目は美しい櫛を、そして3度目に毒りんごを渡す。白雪姫は前に騙されているのに、そのことを全く思い出さない。そして、その度にだまされ、女王の罠にかかる。
現実世界の本当らしさはここにはない。

「灰かぶり」の中で、主人公の娘は、舞踏会に3回参加する。そして、その都度、同じようにドレスをもらいに母のお墓まで行く。そこでは、ほぼ同じ記述が繰り返され、ほとんど同じように展開する。

王子がシンデレラを探して、靴を試す場面も3回ある。最初の2回では姉たちが靴を試す。そして、二人は同様に失敗する。
最初の姉は靴を履くために足の指を切り落とし、靴の中が血まみれになり、本当のシンデレラでないことが発覚してしまう。それにもかかわらず、同じことが二番目の姉の場合にも起こる。

同じ行為が反復されるとき、現実の世界であれば、前のことが参考になり、それを踏まえた上で、次の行為が行われる。しかし、グリム童話の世界では、前とほぼ同じことが繰り返され、前のことが経験として活かされることはない。一つ一つの場面が孤立していて、それが並列されているだけという構成の仕方がされる。

こうした世界では、残酷さの生々しさは感じられない。上の姉が王子の持ってきた靴をはこうとしたときの様子を見てみよう。

年上のほうがその靴を持って自分の部屋に行き、はいてみようとしました。母親もついてきました。でも親指が大きくて、足は入りませんでした。靴が小さすぎるのです。すると母親がナイフを渡して、言いました。
「親指を切っておしまい。お妃になったら、もう足を使って歩くことはないよ。」
娘は親指を切り落として、足を靴の中へおしこみました。それから、歯を食いしばって痛さをこらえながら、王さまの息子のところへ出ていきました。

同じことが下の姉の場合にも繰り返される。ただし、今度はかかとである。

そこで年下のほうが自分の部屋へ行きました。つまさきはうまく靴に入ったのですが、でもかかとが大きすぎました。すると母親がナイフを渡して、言いました。
「かかとを切っておしまい。お妃になったら、もう足を使って歩くことはないよ。」

以下、同じようにかかとを切り落とし、王の息子の前に出る。そして、王子は二度ともだまされて、娘を城に連れて行こうとする。ここで、王子が前の失敗に学ぶことは決してない。

このように様式化された世界では、残酷さは全く感じられない。親指を切り落とそうが、それがかかとになろうが、読者の視点からすると、最初は親指、次はかかと、では三番目は何か、という部分に興味が行くだけで、体の一部を切り落とすリアルさはない。
様式化によって世界が虚構であることが示されているので、いくら痛さをこらえながらと書かれていても、本当の痛みは感じないのである。

残酷さの意味

では、グリム童話の中で、残酷な行為はどのような意味を持っているのだろう?

大人たちの間で語られていた民話では、残酷さも性的な描写もあり、それらは聞いている者たちを引きつける要素だった。悲しいことだけれど、人間は、そうしたものに興味を引かれることがある。それも事実として認めないといけない。

子どものための物語では、真っ先に性的な描写が検閲を受ける。それに対して、残酷さに関しては、ある時代までは許容された。
その理由は、残酷性が、物語の教えをはっきりと示すことに役立ったからだと考えられる。
「悪徳は罰せられる。」と子どもに言っても何のことかわからない。理屈や心理的な説明は子どもには通用しない。そうしたとき、悪いことをしたら罰を受けるということをはっきりとわからせるためには、罰を目に見える形で描くことが、効果的な手段となる。

「灰かぶり」の最後は、文字通り受け取れば、壮絶である。

王さまの息子と灰かぶりの結婚式がおこなわれることになったとき、腹黒い姉たちがやってきました。灰かぶりにとりいって、幸せのおこぼれにありつこうと考えたのです。さて花嫁と花婿が教会へ行くとき、上の姉は二人の右側を歩き、下の姉は左側を歩きました。すると二羽の鳩が飛んできて、それぞれ姉たちの片方の目をつつきだしました。式がすんで、花嫁と花婿が教会から出てきたとき、今度は上の姉が左側を歩き、下の姉が右側を歩きました。するとまた、二羽の鳩が飛んできて、それぞれのもう一方の目をつつきだしました。こうして姉たちは意地悪と腹黒の罰を受け、一生目が見えなくなってしまいました。

灰かぶりは王子と結婚し、悪者の姉たちは目をつつき出される。この結末は、「美徳は報われ、悪徳は罰せられる」という教訓を、子どもたちにわかりやすく語っている。
従って、試練の中で主人公が苦労を重ねても、そうした場面に残酷さは出てこない。主人公が残酷な目にあうことはない。残酷な罰が適用されるのは、必ず主人公の敵対者となる悪人である。

このように考えたとき、子ども用の物語の中の残酷さの役割が明らかになる。残酷な罰は、理屈がわからない子どもに教訓を理解させるための最も効果的な方法なのである。それをはっきりと目に見える形で描くことで、子どもたちは、いいことと悪いことをあいまいさなく理解する。
その上、善と悪のはっきりとしたコントラストが、子どもたちに強い印象を残すことになる。

21世紀のグリム童話

最後に、現代における残酷さの役割について考えてみたい。

グリム兄弟が物語を出版した19世紀と21世紀を迎えた現代では、感受性が大きく変化した。以前は許されていたことも、今では禁止事項になっている。
また、インターネットの発達によって、現実世界と平行して、ヴァーチャルな世界が私たちを取り巻いている。現実と非現実の境目がひどくあいまいになっているといえるのかもしれない
こうした環境の中で、グリム童話を読む際に、以前と同じように、残酷な場面をそのまま子どもたちに読み聞かせてもいいのだろうか。

グリム童話は平面的で現実性が希薄にされている。それを意識してかどうか、グリム兄弟は、健康な精神状態さえ持っていれば、何も手を加えず物語を与えてもいいと考えていた。
他方、ヴァーチャルな世界がこれだけ増殖し、世界が複雑化している中で、子どもたちを取り巻く環境が健康だといえるだろうか。

グリム兄弟は、「印刷された本の中で起こりうることが、実人生の中にもあるのだという錯覚」ということも述べている。物語世界はあくまでも物語なのであり、同じ出来事がそのまま現実とは対応しないと言うのである。ヴァーチャル世界はこの錯覚を作り出す。その意味で、現実とヴァーチャルの境があいまいな世界は錯覚の世界であり、健康とはいえないだろう。

とすれば、いくら記述が平面的で、現実的ではないといったとして、残酷な場面をあえて子どもに伝える必要はないのかもしれない。つまり、グリム童話を子どもたちに与えるとき、現代の子どもにふさわしいようにリライトされたものでもいいし、その方が好ましい可能性もある。
そのように考えると、グリム兄弟が残したままの文を読むのは、大人になってからという選択があるのかもしれない。

ただし、グリム童話の残酷さだけを取り上げ、強調することは意味がない。残酷さや性的な要素は昔話ではごく普通に取り上げられた要素であり、グリム童話の特色ではない。一つ一つの要素が物語全体の中でどのような役割を果たしているのか考えていかないと、ただの悪趣味になってしまう危険をはらんでいる。

私たち大人が、グリム童話を読みながら、そうした問題について考えてみることも、もう一つの読書の楽しみである。

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