
紀友則の有名な和歌「ひさかたの 光のどけき 春の日に しづごころなく 花の散るらむ」には、音と意味のつながりが感じられる。
和歌の分析ではあまり音に意識を向けることはないかもしれないが、フランス語の詩の分析では音と意味の関係に注目することがよくあるので、それに倣ってこの有名な和歌を見ていこう。
まず音に注目すると、語頭にハ行の音の反復が見られる。
ヒさかた ヒかり ハる ヒに ハな (ヒ・ヒ・ハ・ヒ・ハ)
もう一つの反復はノの音。
ひさかたノ ノどけき 春ノ 花ノ
こうした音の反復が、歌の意味に抑揚を与えている可能性がある。
「ひさかたの」は、本来は「日射す方の」や「永く硬い」を意味したらしいが、和歌の中では、日・月・空などにかかる枕詞として用いられる。この和歌では、「(春の)日」にかかる。
そのことは、「ヒ」の音が、「ひさかた」と「日」の間で響き合うことでも示される。
さらに、「ヒ」の音は、その二つの言葉に挟まれる「光」でも共鳴する。
その光は、「のどけき」様子をしている。
のどか(長閑)は、「日がやわらかく照る」を意味する名詞から派生した形容詞。春の穏やかな日の柔らかな日差しに相応しい。
そして、のどかの「ノ」の音は、ひさかたノと、春ノと響き合い、和歌の前半の5/7/5をしっかりと繋いでいる。
さらに、「ノ」の音は最後にも再び出てくる。
「花ノ散るらむ」
そのつながりは、もう一つのハ行の音である「ハ」が、前半の「春」と後半の「花」の間で共鳴していることで、さらに強化される。
このように考えると、ハ行の二つの音とノの音が、「ひさかたの 光のどけき 春の日に / 花の散る(らむ)」を音的に一つの塊にしていることがわかってくる。
これらの言葉の意味を考えると、春の柔らかな日差しの中で桜の花が散っていく場面の情景を描き、一見、客観的な写生のようにも思われる。

ただし、最後に、「らむ」という推量の助動詞が置かれ、「どうして散ってしまうのだろう」という感慨が付け加えられる。
その感情の表現に対応するのが、ハ行の音とノの音のブロックに入らない唯一の詩句「しづごころ(静心)なく」。
この一節だけが主観的な表現であり、他の詩句の写実的な描写とは異なる系列の意味を担っている。
「しづごころ」とは「静かな心」「落ち着いた心」という意味で、「しづごころなく」は、紀友則の心が桜の散る姿を見て何とはなしに騒ぐ心持ちでもあり、その気持ちを散る桜に投げかけているともいえる。
他方で、穏やかな春の日にもかかわらず花を散らす桜の木が、静かな心持ちではないと考えることもできる。
『古今和歌集』の冒頭に置かれた紀貫之の「仮名序」では、「生きとし生けるもの」が歌を詠むとされている。「やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。(中略)
花に鳴く鶯、水にすむ蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける。」
日本的な感性によれば、物にも心があり、歌を歌うことは不思議ではない。
このように、「しづごころなく」の主は、歌人とも桜ともどちらとも見なすことができる。そして、歌人の心の中と外の世界は対応し、調和している。
しかし、完全に一つではない。
その微妙な関係を、紀友則は、散る桜を描く描写の部分と感情を伝える部分で音的な線引きをしているのではないか。
ひさかたの 光のどけき 春の日に (・・・) 花の散る(らむ)
(しづごころなく)
このように考えると、この和歌を構成する言葉の音が、意味を浮き彫りにするために大きな役割を果たしていることがわかってくる。
歌人たちが音と意味の関係を意識して和歌を詠んだのかどうかはわからない。他の和歌に同じような分析が可能かどうかもわからない。
ただ、こうした分析が、「ひさかたの」の歌をよりよく理解するための一つの方法であると考えることはできるだろう。