閑さや 岩にしみ入る 蝉の声 —— 俳句の音と意味

芭蕉が『奥の細道』の中で詠んだ俳句の中で、最も有名なもの一つに、「閑(しづか)さや 岩にしみ入る 蝉の声」がある。

普通に考えれば、蝉がミンミン鳴いていれば、ひどくうるさいはず。
それなのに、なぜ芭蕉が静かだと思ったのか疑問に思うのが自然だし、そんな疑問を持てば、句の説得力がなくなるはず。
それにもかかわらず、誰もが知る俳句として人々に親しまれている。

その理由の一つには、この句を構成する言葉の音に、静かさを感じさせる要素が含まれているからではないか?

俳句を声に出して読むと、言葉の一音一音毎に強弱が自然に付いくるのに気づく。
日本語では、2音毎に軽い区切りがあり、2音の塊の幾つかのまとまりに対して助詞が付く、という規則があることを考慮すると、「閑さや」の強弱のアクセントは次のようになる。(強いアクセントの音を太字で示す。)

づ・さ・や/ わ・に・み・る/み・の・

アクセントの付く音の中で、サ行の音が3度出てくる。
そして、サ行の音、つまり [ s ] や[ ʃ ]は、「シッ、静かに!」とか、「シーンと静まりかえる」とか、「雪がシンシンと降る」など、静寂を感じさせる。

この句でも、「シずかさ」が「シみいる」と「シ」が連続することで、私たちは、何かを考える前に、静けさを感じる。それが「閑寂」な雰囲気を作り出す秘密なのだ。

芭蕉はこうした音の効果を最大限に利用し、蝉の騒々しい鳴き声に言及しながら、俳句の中に「閑さ」を生み出したといえるだろう。


『奥の細道』には、この俳句が詠われる背景が記されている。
芭蕉たちが山形まで来た時、立石寺(りっしゃくじ)といふ山寺があることを聞き、日が暮れる前に、山上にあるお堂まで登ることにする。

岩に巌(いわほ)を重(かさ)ねて山とし、松柏(しょうはく)年旧(としふ)り、土石老(お)いて苔(こけ)滑(なめ)らかに、岩上(がんじょう)の院々扉を閉ぢて物の音聞こえず。
岸をめぐり、岩をはひて、仏閣を拝し、佳景(かけい)寂寞(じゃくばく)として心澄みゆくのみ覚ゆ。

閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声

立石寺のあるのは、岩が重なり、樹齢を重ねた松や柏が生い茂り、石は苔むしている山の上。
芭蕉が登っていった時には、僧院の扉も閉まり、静まりかえっていた。
そうした中で、山寺に参拝し、辺りを見渡すと、ひっそりとしていて物寂しい様子をしている。
その素晴らしい風景を目にして、心が澄みきってくるのを感じる。

芭蕉が立石寺を訪れたのは元禄2年5月27日、太陽暦だと7月13日になり、ニイニイゼミやヒグラシ、アブラゼミなどが鳴いていた可能性がある。
しかし、『奥の細道』の記述では、蝉の鳴き声には一切触れられず、物音は聞こえず、辺り一帯は「寂寞」としている。
たとえ現実には蝉の鳴き声が聞こえていたとしても、芭蕉の意識はその音を捉えていなかったことになる。

こう言ってよければ、彼に聞こえたのは「静寂」の音だった。
それは、「寂寞」とした景色の音と言ってもいいだろうが、その「寂しさ」は、風景だけに由来するのではなく、芭蕉の心持ちにも由来する。
ここでは、目に見える景色と見る人の心が溶け合っている。
だからこそ、「静かさ」ではなく、「閑さ」なのだ。門を閉じた時のようなしずかさで、ひっとりとし、物寂しい。

その「閑さ」は切れ字「や」によって、その以降の部分と切り離されていると考えられる。
しかし、「シ」の音の反復によって、「閑さ」がしみ入る感覚が音として私たちの耳に届く。その結果、私たちの心の中に「閑さ」がしみ込む感じが伝わってくる。

その時、意識を現実に移せば、外の世界では蝉が耳をつんざくような勢いで鳴いているのが聞こえるだろう。
物理的に考えると、その声は岩にぶつかり、反響する。
実際、芭蕉は最初、「山寺や 石にしみつく 蝉の声」と詠んだという。
この句は、現実の風景をそのまま写している。

しかし、芭蕉の心の世界では、蝉の声さえも岩にしみ入り、寂寞の中へと溶け込んでいく。「蝉の声」も「閑さ」の一部なのだ。
そう感じられるほど心が澄み切る時、自然と心が一つになった心象風景が一つの俳句として結晶化する。
「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」

シの音が、その風景の入り口を開く。

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