ボードレール 「レスボス」  Baudelaire « Lesbos » 1/3 レスビエンヌたちの口づけ

シャルル・ボードレール(Charles Baudelaire)の『悪の華(Les Fleurs du mal)』が1857年に出版された時、反宗教的かつ風俗を乱すという理由で裁判にかけられ、詩集から6編の詩を削除することが命じられた。「レスボス」はその中の一編で、実際に1861年の第二版からは削除された。

現在の私たちの感覚からすると、なぜこの詩が猥褻とみなされたのか不思議な感じがする。そのギャップを知るだけでも「レスボス」を読むのは興味深いのだが、詩の理解を通して19世紀半ばと現代の知識のギャップを知ることができるのも楽しい。

詩の題名のレスボスは、ギリシアのレスボス島のこと。エーゲ海北東部のトルコ沿岸に近いギリシア領の島で、紀元前7世紀後半から6世紀前半、女性の詩人サッフォーが生まれたことで知られている。

ウィキペディアの「サッポー」の項目を見ると、「サッポーは、自分の身のまわりにいた少女たちに対する愛の詩を多く残した。そのため、サッポーと同性愛を結びつける指摘は紀元前7世紀ごろから存在した。」という記述とともに、「ボードレールは『悪の華』初版で削除を命じられた「レスボス」においてレスボスを同性愛にふける島として描き、レズビアニズムの代表としてのサッポーのイメージを決定的にした。」という記述が見られる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%83%E3%83%9D%E3%83%BC#cite_note-yk18-1

19世紀前半のサッフォーのイメージで最も大きかったのは、グリルパルツァーの戯曲『サッフォー』やラマルティーヌの詩「サッフォー」に描かれたような、美少年パオーンとの恋に破れ、レスボス島の断崖から海に身を投げる姿だった。


ボードレールは、まずレスボス島への呼びかけから始める。その第1詩節に関して、『悪の華』裁判で弁護を担当した弁護士は、「詩的な観点から見て、この詩節を手放しで賞賛しないことは不可能です。」と述べている。

Lesbos

Mère des jeux latins et des voluptés grecques,
Lesbos, où les baisers, languissants ou joyeux,
Chauds comme les soleils, frais comme les pastèques,
Font l’ornement des nuits et des jours glorieux ;
Mère des jeux latins et des voluptés grecques,

ラテン的な遊びとギリシア的な官能の母、
レスボスよ、そこで、数々の口づけは、けだるく、あるいは陽気で、
太陽のように熱く、スイカのように冷たく、
栄光に満ちた夜と昼の飾りを作り出す。
ラテン的な遊びとギリシア的な官能の母、

一つの詩節は5行からなるが、1行目の詩句が5行目でそのまま繰り返される。この形式は、15詩節のうち14詩節で共通する。
韻はABABAと交差し、最初が女性韻、次に男性韻が続く。

レスボス島が、母として産み出すものは、「ラテン的な遊び (jeux latins)」と「ギリシア的な官能(voluptés grecques)」。

ラテンというのはローマを中心にした地域を指し、そこでの遊びとは、古代ローマの作家オウィディウスの『恋愛技法』で描かれたような、遊び的な恋愛を指すのかもしれない。

ギリシア的な官能とは、同じオウィディウスが「サッフォーよりファオンへ」で語った物語の中でのように、古代ギリシアの女性詩人サッフォーが詩や音楽を教えていた少女たちと肉体関係を持ったり、美少年ファオンを愛し、最期はリュウカディアの断崖絶壁から海に身を投げて死んだことなどを暗示しているのかもしれない。

ボードレールの描くレスボス島では、昼夜(des nuits et des jours)を問わず、口づけあるいは抱擁(baisers)が行われる。
「レスボス」に関して、1857年の裁判で告発を行った検事は、「女性の同性愛者たちの風俗(les mœurs des tribades)」が細部にわたり描かれていると主張した。つまり、この口づけがレスビエンヌたちものだと、詩を読むに従ってわかってくる。

そうした風俗を乱すと見なされうる話題を展開する以前の第1-2詩節で、ボードレールは、「レスボス」を貫く基本的な原理を提示する。
それを理解するためには、どうしても理屈っぽい読解をする必要が出てくる。そこで、少し退屈な説明になってしまうかもしれないが、ボードレール的思考の仕組みを追っていきたい。

「レスボス」の第1詩節で特に注目したいのは、何気なく見える「あるいは(ou)」という言葉。
「口づけ(baisers)」の属性を示す、「けだるい(languissants)」と「陽気(joyeux)」の間に置かれ、意味が反対の二つの形容詞の「どちらか」を示す。
それに対して、次の詩行の、「熱い(chauds)」と「冷たい(frais)」も意味は反対だが、その間には接続詞はなく、並列に置かれるだけ。
このことが何を暗示するのか知るには、次の詩節を待つ必要がある。


Lesbos, où les baisers sont comme les cascades
Qui se jettent sans peur dans les gouffres sans fonds
Et courent , sanglotant et gloussant par saccades,
Orageux et secrets, fourmillants et profonds ;
Lesbos, où les baisers sont comme les cascades !

レスボスよ、そこで、数々の口づけは滝のようだ、
(それらの滝は)恐れることなく、底なしの深淵へと落ちかかる、
そして、流れていく、途切れ途切れに、すすり泣き、そしてクスクス笑い、
嵐のように騒がしく、そしてひっそりと、蟻のようにごそごそと、そして深々と。
レスボスよ、そこで、数々の口づけは滝のようだ!

第2詩節が第1詩節と密接に関係していることは、第1詩節の最期の行と第2詩節の最初の行の関係が、第1詩節の第1-2行の反復であることによって、形態の上からも示されている。
Mère des jeux latins et des voluptés grecques,
Lesbos, où les baisers (…)

このように、前の行が、続く行の最初に置かれたLesbosと同格の関係になり、しかも、その後、les baisersまでが反復され、二つの詩節のテーマが「口づけ(baisers)」であることが明確にされる。

それに続いて、口づけが「滝(cascades)」のようだとされ、その後、滝の属性が列挙される。

そこで注目しなければならないのは、「そして(et)」という言葉。
第1詩節では反対の意味を持つ形容詞が、最初は「あるいは(ou)」でつながれ、二度目は接続詞なしで並列されたが、今度は「そして」でつながれる。

languissants けだるくou joyeux 陽気で
chauds 暑いなしfrais 冷たい
sanglotant すすり泣きetgloussant クスクス笑い
orageux 嵐のように騒がしくetsecrets  ひっそりと
fourmillants 蟻のようにごそごそとet profonds 深々と

この展開が何を意味するのかを解く鍵は、滝が「身をなげる(se jettent)」、つまり滝の水が落ちていく「底なしの深淵( les gouffres sans fonds)」にある。

「底なし」とは果てがないことであり、「無限(infini)」を連想させる。
現実の世界には常に果てがあり、限りがあり、有限である。とすると、「底なしの深淵」とは非現実の世界、さらには、天上のイデア界とは対極にあるかもしれないが、現実を超えた世界と考えられる。

比喩的に言えば、人間の次元を超えた存在であり、神と対極の悪魔的存在。それがボードレールにおける「深淵(gouffre)」であり、ここでは現実とは違う次元にあることを明確にするために「底なし(sans fond)」とあえて強調されている。

深淵では、現実の次元での善悪や美醜の基準は意味を持たず、対立するものが共存する。「あるいは(ou)」ではなく、「そして(et)」の世界。
それは、「対立するものの一致(coincidentia oppositorum)」の印に他ならない。

ボードレールは、レスボス島で交わされる口づけについて語りながら、まず最初に現実の次元において対立するとみなされるものを「あるいは」で並列し、次に「印なし」にすることで二つの関係を明示せずにおいた。
第2詩節になると、「底なしの深淵」においての視点を示し、対立するものが「そして」によって併存することを示したのだった。
そのことで、彼の歌うレスボス島が、現実の基準で測られる善悪や美醜を越えた島であると伝えられる。


ヨーロッパにおける同性愛に対する反応と
19世紀前半のサッフォーのイメージ

詩を読み進める前に、ヨーロッパにおける同性愛の問題を考えておこう。

現在では多様性が主張され、同性愛だけではなく、性転換なども認められる傾向にあるが、しかし、現実には偏見も強く、LGBTに対する陰湿な攻撃も続いている。

歴史的な事実を辿るのではなく、概念的に考えると、同性愛を断罪する傾向は、キリスト教の方向性と一致する。
『旧約聖書』の神は、アダムとエヴァを最初に創造し、男女を人類の最初に置いた。そして、「人(アダム)は、その父母を離れ、妻(エヴァ)と結び合い、一体となるのである」と述べ、結婚が男女の間で行われることを前提にした。

『新約聖書』でも、聖パウロは、エフェソの信徒たちに対して、「夫たちよ、(中略)妻を愛しなさい」と命じ、「人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」ことの偉大さを語った。
さらに「ローマ人の手紙」では、同性愛が「恥ずべき情欲」であり、「自然に反する行為」だと断定した。

悪徳のために神の怒りにふれ、硫黄と火の雨によって滅ぼされたソドムとゴモラの挿話を思い起こし、ソドミー(男色、獣姦)という言葉の起源がソドムの町から来ていることを考えると、悪徳の一つが同性愛だったことが推定できる。

こうした反同性愛に基づく感情を基礎にした法律が、ヨーロッパの中世には存在した。『狂気の歴史』の著者ミッシェル・フーコーによれば、同性愛の罪を犯した者は生きながら火刑に処せられ、その刑罰は男女に等 しく適用されたのだという。

こうした確認を行うのは決してキリスト教を攻撃するためではなく、同性愛が、性的放埓と同様に、社会の風俗や風紀を乱すとする一般的な考え方のベースを確認するためにすぎない。

興味深いことに、古代ギリシアの時代に遡ると、成人した男たちは美少年好きであり、青少年の美しい裸身を見ることができる体育館に集まっていたということが、プラトンの『パイドロス』などからも読み取ることができる。

そのプラトンが『饗宴』の中で、原初の人間の姿は、現在の人間2人が重ね合わさったものだったという話を、アリストパネスの言葉として伝えている。

最初の人間には背中合わせに顔が二つ、耳が四つ、手足が八本、性器も二つあり、全体は球形をしていた。そして、彼らは非常に強く、神の座を脅かしそうになったため、神が彼らを半分に切断し、人間は現在の姿になったのだという。

切断された人間は、恋(エロース)の力に導かれ、自分の半身を取り戻し、一体化して元の姿に戻ろうとする。
その際、元の組み合わせには、男男、女女、男女があり、男女であった者は異性の相手を求めるが、最初の二つの場合には同性の相手を求める。

この神話によれば、両性具有(ヘルマプロディートス)は人間の原初の姿であるし、同性愛も、異性愛と変わることなく、自分の半身を求める性向にすぎない。

女性詩人サッフォーに関していえば、古代ギリシアの時代には、彼女が同性の女性たちに向けた愛を詩にしたとしてもごく自然に受け入れられたし、プラトンはサッフォーを第10番目の詩の女神(ミューズ)と呼んだ。

しかしキリスト教の時代になると、スキャンダラスな詩人として非難され、彼女の詩は焚書の対象となった。
その対極的な評価も、同性愛に対する対応の変化から見ると、自然なことかもしれない。

そして、その二つの反応が、19世紀前半において、二人のサッフォーがいたという主張と対応するのではないかと考えられる。

一人は、プラトンから10番目のミューズと呼ばれるほど優れた抒情詩人。
彼女はレスボス島のミティリーニで生まれたとされた。

もう一人は、女性の同性愛者でありながら、美少年のパオーンに恋し、最後は断崖から身を投げて死んでしまう遊女。
彼女の出身はレスボス島のエレソスとされ、エレソスで発見されたサッフォーの彫像によって実在が確認されたものと考えられた。

19世紀前半に出版された人名辞典や百科事典は、どれもサッフォー2人説を支持している。

ちなみに、19世紀後半に出版されたピエール・ラルースによる『十九世紀大百科事典』では、サッフォー2人説は否定される。
同じ事柄についても、時代によって異なった概念や定義がなされる一つの例である。

ボードレールが「レスボス」を最初に発表したのは1850年であることを考えると、彼は19世紀前半のサッフォーに関する知識を前提にし、レスボスやサッフォーのイメージを構成したと考えられる。

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