マリー・ローランサン 儚さを超えた美の画家

マリー・ローランサンは日本でとりわけ愛されている画家であり、アポリネールが「ミラボー橋」の中で彼女との失恋体験を歌った女性、さらには掘口大學の翻訳で知られる「鎮静剤(le Calmant)」を書いた詩人として、広く知られている。

Plus qu’ennuyée Triste.      退屈な女より もっと哀れなのは 悲しい女です。
Plus que triste Malheureuse.   悲しい女より もっと哀れなのは 不幸な女です。

画家で絵本作家のいわさきちひろは、儚げな女性たちを淡いパステル調で描いたローランサンの絵画をとりわけ好んだという。

このローランサン的な美の世界は、少々甘ったるいと感じる人々がいるかもしれないが、単におぼろげで夢幻的というだけはなく、彼女が20世紀前半の絵画の様々な傾向を吸収し、その上で個性的な表現として結晶化したものに他ならない。

マリー・ローランサンの感受性の素地

マリー・ローランサンは1883年にパリで生まれた。母は刺繍を職業としている女性。父親は別の女性と結婚していて、マリーを認知しなかったが、生活費は渡していたという。
そいうした生活の中で、マリーは高校時代にルーブル美術館に足繁く通い、卒業後はセーブル焼の絵付けを学ぶために専門学校に進んだ。

その選択は、彼女が後に描くことになる絵画が、装飾的であることの基礎になったに違いない。
「装飾的」というのは決して絵画として劣るという意味ではなく、ルネサンス以来用いられてきた明暗法によって人物や物の厚みを表現する画法を取らず、グラフィックアートのように、明確な線と色彩でどちらかといえば平面的な映像であることを意味する。

19世紀後半に芸術の概念が大きく変わる中で浮世絵を中心に日本の絵画が大流行したのは、日本の絵画が本来「装飾的」であることによるし、その影響を受けたロートレックたちによってポスターが生み出されたことを思い出すと、ローランサンもその流れにあることが理解できる。

もう一つ彼女の絵画のベースとなるのは、穏やかさと少しの甘さ。彼女が少女時代に最も好んだ絵画が、マリー・アントワネットの画家と呼ばれたヴィジェ=ルブラン自画像である「ヴィジェ=ルブラン夫人と娘」だと知ると、納得がいく。
ヴィジェ=ルブラン ロココ絵画後期の肖像画家

ローランサンはこの絵を大変に好きだったが、少しセンチメンタル過ぎるとも感じていたという。
その批判は、彼女自身の絵画に対して、当初から投げかけられるものでもあった。

彼女の感受性を明らかにするもう一つの側面は、ボードレールの『悪の華』、その中でも、1857年に初版が出版された時、風俗を乱すという理由で詩集から削除を命じられた「レスボス」を読み、詩作を始めたという逸話によって示される。
ちなみに、レスボスとはギリシアのレスボス島であり、古代ギリシアの女流詩人サフォーが女性に対する愛を歌った詩を多く残したことから、レスボスという名称は女性同性愛者(レスビアン)を連想させる。

マリー・ローランサンはアポリネールとの恋愛だけではなく、数え切れないほどの男性と関係を持つと同時に、同性愛者でもあり、しかもバイセクシャルであることを公にするという、当時としては考えられない大胆さを持っていた。
その強さは、淡いパステル調のタッチが決して儚いだけものではなく、そこに表現された美を永続させる力の源泉といえるかもしれない。

フォーヴィスム、素朴派、キュビスムの中で

マリーはセーブル焼の学校に通うかたわら、デッサンや絵画、版画などの私塾にも通い、最先端をいく前衛的な画家や文学者と知り合いになった。

1907年になると最初の個展を開くことができ、アンデパンダン展にも参加する。
その美術展に出品した「花瓶の中の花」(右)は、豊かな色彩と大胆な筆づかいからフォーヴィスム(野獣派)と呼ばれる絵画の一つとして、それなりの評価を得た。

フォーヴィスムとは色彩を中心にした絵画表現であり、人物や物を現実に忠実に再現するのではなく、アンリ・マチスの「帽子の女性」(左)のように、画面全体の色彩的な統一原理に基づき、色彩豊かな装飾性の強い絵画を指す用語だった。

ただし、「花瓶の中の花」は、男性画家たちの作品に見られる強烈な色彩と激しいタッチはなく、パステル調の淡い色彩が用いられている。そこには、マリー・ローランサン独自の表現がすでに用いられ、時には甘ったるいとか女性的すぎるとかいった非難が加えられる原因でもあった。

1907年の個展の会場では、ピカソに紹介され、芸術家長屋「洗濯船」にも行き、若い画家たちとの交流の機会を得、さらにギヨーム・アポリネールとも出会う。

二人は5月頃にピカソから紹介されたと考えられているが、6月には一緒に暮らし始める。そして、破局を迎える1913年までの間、アポリネールは、あたかもマリーをインスピレーションの源としたかのように次々と詩、小説、美術批評を発表し、現代芸術を推進する中心的な人物になっていく。
一方、マリーも、フォーヴィスム、キュビスム、素朴派と呼ばれる美術運動から様々な要素を吸収し、彼女自身の画風を徐々に作り上げていた。

1908年頃マリー・ローランサンは集合肖像画「アポリネールと友人たち」と題する作品を二枚描いている。
どちらも、絵画の中心にいるのはアポリネール。彼の横にはマリー自身。ピカソと彼の愛人フェルナンド・オリヴィエ、そして愛犬フリッカも共通している。

最初の作品には素朴派を代表するアンリ・ルソーからの影響が感じられ、次の作ではキュビスム的な画風が加えられている。

一作目の「アポリネールと友人たち」(上左)は、マリーの作品の中で初めて買い手が付いた作品だったが、購入したアメリカの美術収集家ガートルード・スタインの意見は、少し装飾的すぎ、十分に現代的になっていないというものだった。

素朴派の画風は、古典的な秩序を持つ画面構成の中で、人物や物の形は単純化され、陰影のない鮮やかな色彩で彩られるというものだった。

そして、ルネサンス絵画以前を思わせるそうした一見素朴な表現が、伝統的な絵画の革新を目指す少数の前衛芸術家たちにアピールした。
アンリ・ルソーの「田舎の結婚式」(下左)や「夢」(下右)を見ると、人間も動物も木々も自然さがなく、比喩的に言えば、絵本の中の世界といった感じがする。

ピカソは数少ないアンリ・ルソーの信奉者であり、1908年には「洗濯船」のアトリエで、ルソーを主役とした宴会を催したことが知られている。もちろん、アポリネールもマリー・ローランサンも参加した。

アポリネールは、絵の買い手のつかない画家のために、自分とローランサンをモデルにした絵を注文したことがある。その結果描かれたのが、「詩人に霊感を与えるミューズ」(下左)。

アンリ・ルソーはモデルであるアポリネールやローランサンの鼻、口、耳、額、身体全体などを正確に測り、その測定値を元に画面の大きさを決めたという。
しかし、そうした正確さとは別に、二人が生きた人間のようには見えないし、面影がなくはないが、あまり似ているようにも思えない。実際、二人の写真の姿と「「詩人に霊感を与えるミューズ」の二人とはずいぶんと違っている。

アポリネールはこの絵について次のように書いている。
「アンリ・ルソーがアポリネールに似せてこの男性を描いたのではないとしても、この男性を見ればすぐにアポリネールであることが誰にでもわかる。」

アポリネールの芸術観に従えば、絵画にとって最も重要なのは、ある対象から出発し、線と色によって再構成される映像が、素材となった対象の本質を表現すること。
絵の中のミューズは、現実のマリーの外見にそれほど似ていなくても、詩人に霊感を与える女神としてのマリーを的確に表現しているのだ。

マリー・ローランサンがこの時期に描いた「狩りをするディアーナ」(下左)、「アポリネールの肖像」(下中)、「ジャン・ロワイエールの肖像」(下右)は、素朴派的といっていい。

ここで一枚目の「アポリネールと友人たち」にもう一度目をやると、色彩感覚やタッチではアンリ・ルソーとは違っているが、古典的で破綻のない構図に基づき、鮮やかな色彩で人物や事物が平面的に表現されているという点で、素朴派的な側面を持っていることがわかるだ。

二作目の「アポリネールと友人たち」になると、最初に感じられた装飾性が減少し、幾何学的な形態による表現が強く打ち出される。
実際、色彩をある程度押さえ、輪郭線を明確にすることで、直線や曲線を用い幾何学的に対象を表現するキュビスム的な表現がみられる。

キュビスムは、しばしばセザンヌの言葉とされる、「自然の中の全ての事物は、幾何学的形式 — 円柱、球、円錐で構成されている」によって象徴的に表現される絵画の様式。
ジョルジュ・ブラックの「レスタックの風景」(下左)と「レスタックの水道橋」(下右)を並べると、色彩中心のフォービズムと幾何学的形態で対象を捉えるキュビスムの違いを一目で見て取ることができる。

ブラックはマリー・ローランサンとも親しく、1908年に描かれた「レスタックの水道橋」を見た可能性がある。
もしかすると、このレスタックの水道橋を二作目の「アポリネールと友人たち」の中に移動し、アポリネールの左奥に架け、ミラボー橋に見立てたのかもしれない。

その橋は彼らの愛の象徴であり、二人が別れた後、アポリネールが痛切な詩の中で次のように歌うことになる。

Sous le pont Mirabeau coule la Seine
Et nos amours

ミラボー橋の下 セーヌ河が流れる
そして 私たちの愛も

(参考:アポリネール 「ミラボー橋」の美を探る

ちなみに、1956年、マリー・ローランサンが心臓発作で亡くなり、ペール・ラシェーズ墓地に葬られる時、白いワンピースを纏い、手には一本のバラを持ち、心臓の上にはアポリネールの手紙が置かれた。

「アポリネールと友人たち」の橋の左に描かれた3人の女性の優美な姿は、ボッティチェッリの「春」などに描かれた輪舞を踊る三人の女神たちを連想させる。
彼女たちは魅力、美貌、創造力の女神であり、そこには、アポリネールへの愛とともに、絵画にかけるマリー・ローランサンの思いが込められているのかもしれない。

マリーは、当時の前衛的な画法であるフォーヴィスム、素朴派、キュビスムなどを吸収し、自分なりの絵画世界を作り上げつつあった。
1911年には二回目の個展が開かれ、「少女たち」(下左)が高額で売れ、彼女はパリの社交界だけではなく、ドイツでも知られるようになる。

その「少女たち」や「優雅な舞踏会」(下右)からは、アポリネールと一緒だった頃の彼女の絵画の一つの到達点が見えてくる。

1913年に出版された美術批評『キュビスムの画家 美学的考察』の中で、アポリネールはマリー・ローランサンに言及し、彼女の絵画、デッサン、水彩画は初期の頃から自然なシンプルさがあり、近いうちに世界の優美さや魅力を表現することになるだろうと予測する。そして、次のように続ける。

 芸術家としてのローランサン嬢は、ピカソと税関吏ルソーの間に位置づけることができる。その指摘は、序列を示しているわけではなく、単に類縁性を確認したにすぎない。彼女の芸術は、(中略)ピカソの芸術と(中略)ルソーの芸術の間で、サロメのように踊っている。(中略)
 ローランサン嬢の最も柔和な絵画の一つである「少女たちの装い」について、ロダン氏の秘書であり、サフォー、ソフォクレス、プラトンの翻訳者でもあったマリオ・ムニエ氏が、面白いエピソードを伝えたことがある。彼が彫刻家にフォービズムの絵画の写真を何枚か見せた時、その中にたまたまローランサン嬢の作品の写真も入っていた。それを見た有名な老人は、こう言ったのだ。「少なくとも、一人の女性は、単なるフォーヴェット(ムシクイ鳥)にすぎないということはない。彼女は優美さとは何かを知っている。彼女は蛇のようにクネクネとしている。」
 女性的な芸術であるローランサン嬢の芸術は、自然を注意深く観察することによって人間化した幾何学的な模様(アラベスク)になろうとしている。そのアラベスクは表現豊かであり、単なる装飾からは遠ざかるのだが、しかし気持ちのよさはそのままに留まる。

アポリネールによれば、彫刻家ロダンは、「少女たちの装い」(上中)を写した写真を見ながら、フォービスムとフォベット(ムシクイ鳥)の音の類似による言葉遊びをし、ローランサンは単なるフォービスムの画家ではないと言い、彼女の絵画には優美さがあり、その魅力はクネクネとした体の曲線にあるとした。

そうした体の動きを、アポリネールは、ヘロデ王に洗礼者ヨハネの首を要求したサロメの魅惑的なダンスに喩えたに違いない。
また、様々な体の動きを見せる少女たちを描いた絵画全体を、人間の体の組み合わせが作り出すアラベスク模様だとみなす。それは装飾的ではあっても、決してそこに留まるものではなく、絵画としての表現性に優れている。

深くマリーを愛したアポリネールの言葉が、彼女の絵画の本質をついているとしても不思議ではない。

マリー・ローランサン・スタイルの
成立

マリー・ローランサンは1913年にアポリネールと完全に訣別し、1914年にはドイツ人の男爵オットー・フォン・ヴェッチェンと結婚する。
それとほとんど同時に第一次世界大戦が勃発し、夫妻はフランスに留まることができなくなる。その際、フォン・ヴェッチェン男爵はフランスと闘うことを拒み、ドイツに戻らず、スペインで暮らす決心をする。

しかし、バルセロナやマドリッドでの亡命生活の中で夫婦生活は破綻してゆき、そうした中で、マリーは、「退屈な女より/もっと哀れなのは/悲しい女です」で始まる「鎮静剤」を書いたのだった。
また、この詩を翻訳した掘口大學とスペインで出会い、大學は彼女に好意を寄せたらしいということも言われている。

1918年11月に第一次世界大戦が終結し、フォン・ヴェッチェン男爵夫妻はドイツに戻るが、二人の関係はすでに破綻し、1921年に離婚が成立した。
そして、マリー・ローランサンはパリに戻り、狂乱の時代と呼ばれる活気に満ちたパリの社交界で、流行の肖像画家として活動をすることになる。

1923年作とされる「ココ・マドモワゼル・シャネルの肖像」(下左)や「黒いスカーフをしたバルグー男爵夫人の肖像」(下中)、1924年作の「自画像」(下右)は、その時代のローランサンの画風がどのようなものだったかを伝えている。

「ココ・マドモワゼル・シャネルの肖像」に関して、注文主であるシャネルが受け取りを拒否したことがよく知られている。
その理由は明らかではないが、似ていないからというのではなく、マリー・ローランサンとの絵画表現の違いから来ているのかもしれない。

1923年に撮影されたココ・シャネルの写真、その年に彼女が描いた「1920年代のファッション」のデザイン画、そして1924年のマリーの写真を見ると、モデルと似ているか似ていないかという問題と絵画表現の問題を考える手掛かりになる。

モデルと似ているか似ていないかという問題に関して言えば、アポリネールは『キュビスムの画家 美学的考察』の中で、「似ているということは何の重要性をも持たず、芸術家は、色と線の組み合わせによって作り出される高次の自然を表現することが求められる。」と主張した。
モデルから出発はするが、モデルを実物そっくりに描くのではなく、絵画としての美を目指すことが、現代芸術の革新なのだ。

マリー・ローランサンもアポリネールの主張する現代的芸術観に基づき、モデルの存在を前提にしながら、絵画としての美を追究したのだろう。
1912年と1928年に撮影された写真と同じ年に描かれた「自我像」からは、モデルと絵画の関係がよく見えてくる。線と色で構成された絵画は、モデルの面影を残しながらも、モデルをありのままに再現することを目指してはいない。

アンリ・ルソーの「詩人に霊感を与えるミューズ」に関して、アポリネールが、「アポリネールに似せてこの男性を描いたのではないとしても、この男性を見ればすぐにアポリネールであることが誰にでもわかる。」と言った意味も、こうした比較から理解できる。
マリーがこの絵に激怒したなどという記述を見ることがあるが、そうした証言はどこにもなく、彼女は服の黒い色に魅了されたというアポリネールの言葉が残されているだけである。

1924年、ローランサンは、バレエ・リュスの「牝鹿」の舞台装置と衣裳を担当した。
ロシア人のダンサー兼振付師ブロニスラヴァ・ニジンスカの作品で、音楽はフランシス・プーランク。
内容は、精神的に解放された若い娘たちの優雅な祭り(フェット・ガラント)で、上流階級の社会に対する皮肉も含まれていた。

1923年の「牝鹿」(下左)とバレエのために描かれた衣裳のデッサン(下右)は、マリー・ローランサンのスタイルがこの時点で確立したことを示している。

次のyoutubeのビデオで見られる公演は、1924年の「牝鹿」の上演を再現したものだという。

1929年の世界大恐慌まで続く狂乱の時代、第二次世界大戦、戦後の復興期を通して、マリー・ローランサンの画風にそれほど大きな変化は見られない。

1927年の「口づけ」、1936年の「舞台稽古」、1941年の「扇を持つ少女」、1953年の「三人の少女」、それらの作品すべてが、「牝鹿」と変わらないローランサン・スタイルで描かれている。

このマリー・ローランサン・スタイルは、1913年にギヨーム・アポリネールが予見したものと言えないだろうか。

女性的な芸術であるローランサン嬢の芸術は、自然を注意深く観察することによって人間化した幾何学的な模様(アラベスク)になろうとしている。そのアラベスクは表現豊かであり、単なる装飾からは遠ざかるのだが、しかし気持ちのよさはそのままに留まる。

装飾的ではあっても、決してそこに留まらず、表現豊かに人間の本質を伝える。そうしたマリーの意図をアポリネールが見抜いていたに違いない。
だからこそ、1956年の死に際して、遺骨の心臓の上にアポリネールの手紙を置いてほしいと、マリー・ローランサンは遺書に書き残したのだろう。


マリー・ローランサンはフランスでは忘れられた画家の一人だったが、1975年にジョー・ダッサンが「小春日和(L’été indien)」の中で、「長いドレスを着た君は、マリー・ローランサンの水彩画のようだった。」という言葉を使ったことで、人々の記憶に甦ってきたらしい。

日本では、加藤和彦が歌う「あの頃、マリー・ローランサン」というオシャレな歌がある。


日本におけるマリー・ローランサンの人気は高く、世界にただ一つのマリー・ローランサン美術館があった。
東京のタクシー会社・グリーンキャブ創業者である高野将弘が収集した個人コレクションをもとに、ローランサンの生誕100周年にあたる1983年、長野県・蓼科に開館した。しかし、2011年に閉館。
収蔵品を2017年に東京・紀尾井町のホテルニューオータニに移転して再オープンしたが、そこも2019年に閉館した。
http://marielaurencin.jp

一方、展覧会はしばしば開催され、2023年には「マリー・ローランサンとモード」が東京と京都で開催される。
https://www.fashion-press.net/news/92932

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