Kiss my ass トランプ大統領が関税の交渉に来る他国に対して使った表現

一方的に関税を引き上げることを宣言したアメリカのトランプ大統領が、交渉を希望する他国に対して使った表現 « Kiss my ass »を、ChatGPTに様々なレベルで翻訳してもらいました。

(1)日本語に翻訳してください。

「Kiss my ass」はかなり強い口調のスラングで、日本語に訳すときには文脈に応じていくつかの言い方があります。直訳すれば:

  • **「俺の尻にキスしろ」**ですが、

これはそのまま使うと非常に露骨で、不自然です。日本語らしい言い方にすると:

  • 「ふざけんな」
  • 「バカにすんなよ」
  • 「なめんなよ」

などが一般的な意訳になります。状況に応じて、もっと柔らかくしたり、逆にもっと攻撃的にもできます。どんな場面で使いたいですか?それに合わせて調整できますよ。

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日本の歴史 超私的概観 (6) 江戸時代 前期 封建制度の確立

織田信長と豊臣秀吉によって戦国時代にほぼ終止符が打たれ、戦国大名が各地で勢力を振るった時代から、再び幕府が全国を支配する中央集権制度が確立する時代へと移行する。

その過程において最も大きな転機となったのは、1600年に起こった関ヶ原の戦いだった。
豊臣秀吉の死後、徳川家康を総大将とした東軍と、毛利輝元を総大将とした西軍が、現在の岐阜県に位置する関ヶ原を初めとして各地で戦闘を繰り広げ、最終的に東軍が勝利を収めた。
その結果、強大な権力を掌握した徳川家康は、1603年、京都の朝廷から” 征夷大将軍 “に任命され、江戸に幕府を創設する。

江戸時代の前期、幕府が最も力を尽くしたのは、徳川家が代々世襲する将軍が、各地の藩を統治する大名たちと封建的主従関係を結び、”幕藩体制”と呼ばれる支配体制を確立することだった。

徳川政権が採用した様々な施策は、政治体制だけではなく、庶民の日常生活や精神性、そして芸術の分野にも大きな影響を及ぼし、私たちが現在 “日本的”と感じる多くの要素の源になっている。

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社会的人間関係の相対性と党派性 — 福沢諭吉『文明論の概略』の一節から

明治維新直後、福沢諭吉は、混乱する日本が欧米の侵略に抗して独立を保つため、欧米から何を学ぶべきかを考究したのだが、その中で、日本及び日本人のあり方についても鋭い洞察を行った。

ここでは、上下関係に基づく社会的な人間関係についての考察を取り上げ、現在の私たちにも関係する人間関係について考えてみよう。

『文明論の概略』第9章「日本文明の由来」では、社会的な上下関係によって態度を変える人間の様子が描かれている。

政府の吏人(りじん)が平民に対して威を振るふ趣(おもむき)を見ればこそ権あるに似たれども、此の吏人が政府中に在りて上級の者に対するときは、其の抑圧を受ること平民が吏人に対するよりも尚(なお)甚(はなはだ)しきものあり。(中略) 甲は乙に圧せられ乙は丙に制せられ、強圧抑制の循環、窮極(きゅうきょく)あることなし。

福沢諭吉の時代には、官vs民の上下関係は揺るがしようがなく、役人が一般の庶民に対して権力を振るうのが当たり前だった。
また、役人たちの中にも上下があり、庶民に威張り散らしていた人間が、上司からは威張り散らされる。
そんな風に、社会的な人間関係はその場その場の上下関係によって循環するのだと福沢は言う。

2025年には「財務省解体デモ」があり、Xの投稿に導かれた人々が中央官庁の官僚に対して抗議するメンタリティーも醸成されているが、こうした動きがエリートvs庶民という構図に基づいていることは、明治維新直後と変わりがない。
もしかすると、デモ参加する群衆の中には、自分たちよりも弱い立場にいる人間、例えば外国人労働者に対しては、排斥を訴えている人がいるかもしれない。

もしも福沢がそうした様相を目にすることがあれば、「強圧抑制の循環、窮極あることなし」と言うに違いない。

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智力 — 福沢諭吉『文明論の概略』の一節から

福沢諭吉は、『文明論の概略』(明治8(1875)年)の中で、「智力」の有無を、野蛮(非文明)と人文(文明)を区別する基準としている。

その説の根拠を知ることは、SNSやYoutubeでフェイク情報や陰謀論が飛び交い、大手マスメディアにおいても無責任なコメントが日々発信され、「表現の自由」という名の下で、無関係で無責任な人間たちによって無差別的な誹謗中傷さえ平然と行われる現代社会において、私たちが今まさに何を目指すべきかを考え直すきっかけになる。

では、野蛮と人文の違いは何か? 福沢諭吉は以下のような対比を提示する。

結局、野蛮の世には、人間の交際に唯(ただ)恩威(おんい)の二箇条あるのみ。即(すなわ)ち、恩徳(おんとく)に非(あら)ざれば暴威(ぼうい)なり、仁恵(じんけい)に非ざれば掠奪なり。此の二者の間に智恵の働きあるを見ず。

人文(じんぶん)漸(ようや)く開化し、智力(ちりょく)次第に進歩するに従いて、人の心に疑ひを生じ、天地間の事物に遇(あ)ふて軽々(けいけい)之れを看過(かんか)することなく、物の働きを見れば其の働きの源因を求めんとし、仮令(たと)ひ或は真の源因を探り得ざることあるも、既に疑ひの心を生ずれば、其の働きの利害を撰(えら)びて、利に就(つ)き害を避(さ)るの工夫を運(めぐ)らす可(べ)し。

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日本の歴史 超私的概観 (5) 鎌倉時代から江戸時代へ (その2)

安土桃山時代:1573年 – 1603年

室町時代の後期、各地を支配する領主が室町幕府の統制から自由になり、勢力争いを繰り広げる時期が、15世紀末から16世紀末まで約100年間続いた。
その戦国時代の最後に戦乱を制したのが、織田信長と、彼に続く豊臣秀吉だった。

しかし、安土桃山時代と呼ばれるその時期は30年程度で終わり、1600年の関ヶ原の戦いの後、1603年には徳川家康によって江戸幕府が開かれる。

その安土桃山時代、日本は初めて西欧と接触を持ち、その影響が天下統一に大きな役割を果たすことになった。
また、戦さの時代が終焉を迎えることで、例えば城の形体が、戦闘時の防御拠点となる山城(やまじろ)から、平地に築かれ、川や沼、人工的に造られた掘りなどを防御施設とする平城(ひらじろ)へと変わり、城下町が作られるなど、文化的な面でも大きな変化が見られるようになる。

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短期的な視点の罠 — ドル円と物価高

2025年3月7日の日経新聞に”円高”という記事が見られる。

1ドル147-148円で円高という認識。実際、2024年6月には1ドル160円以上になった時期があり、2024年の平均でも152円程度だったので、それと比較すれば円高という表現は間違いではない。

しかし、視野を拡げると、1ドル147円が円高と言えるだろうか?という疑問が湧いてくる。 2015年から10年間という期間に視野を広げると、全く違う事実が見えてくる。

2015年には1ドル121円、2019年では107円平均だった。そこから見たら、147円はとてつもない円安だ。

この一覧表を見ると、2022年から円が急激に、しかも極端に安くなったことがわかる。2021年から見ると、147円は考えられない円安なのだ。

こうしたドル円の変化が物価高に直結していることを、アップル社のmacbook airを例に取って示してみよう。

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「疑う」ことの難しさ

昭和15(1940)年8月、小林秀雄は、日本が日支事変、つまり日中戦争に突入していく中で、「事変の新しさ」という記事を書き、次のように記している。

前に、事変の本当の新しさを知るのは難しいと申しました。何か在り合わせ、持ち合わせの理論なり方法なりえ、易しく事変はこういうものと解釈して安心したい、そういう心理傾向から逃れることは容易ではないと申しました。つまり疑うという事は、本当に考えてみますと、非常に難しい仕事なのであります。
      (小林秀雄「事変の新しさ」『小林秀雄全集 13』新潮社、p. 117.)

実際、自分がごく当たり前だと思うことを一端カッコに入れ、疑ってみることは、思っている以上に難しい作業だといえる。
その理由は、視野がある一点に向かうと、それだけを見て納得してしまうということがしばしばあるからだと思われる。

その例として、最近の国際情勢を見ていきたい。

アメリカがウクライナに対する軍事支援を中止する動きがトランプ大統領によって示されて以来、少なくともヨーロッパ・アメリカを中心とする世界において、平和に関する議論が変化しつつある。
そうした中で、核兵器に関する話題も取り上げられているのだが、日本とフランスで全く違った議論がなされている。

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判断力を養うために — 先入観と早呑込みの危険性を意識する

SNSで流れてくる情報に容易に動かされる現代社会において、最も必要とされるのは、「判断力」の育成だといえる。たとえAIで精巧に作られた情報に接したとしても、正しく判断すれば、真偽はそれなりに推測できるはずである。

16世紀フランスの思想家ミッシェル・ド・モンテーニュは、「子どもの教育について」というエセーの中で、様々な知識に触れる必要性を説きながら、その目的は知識を通して「判断力を形成すること」だと言った。

教師は、生徒に、全てのものを濾し布に通すようにさせ、単なる権威や信用だけを頼りにしたものは、頭の中に何も残っていないようにさせてください。(中略)生徒には多様性のある判断を提示してください。生徒は、選択できるのであれば、選択するでしょう。できなければ、疑いの状態に留まるでしょう。愚か者だけが、確信し、決めてかかるのです。  (モンテーニュ『エセー』)

この言葉は、21世紀の情報社会にそのまま当てはまる。フェイクの情報や陰謀論が大量に流通し、一部の人々はそれを容易に信じ、拡散する。彼らは受け取った情報をそのまま「確信し、決めてかかる。」

では、「確信し、決めてかかる」ことなく、判断力を養うためにはどうしたらいいのだろう?

そのヒントを丸山真男の『「文明論之概略」を読む』(岩波新書)から得ることができる。
丸山は古典を読む際の注意事項として二つの項目を挙げるのだが、それこそが、判断力を養う際の基礎になる。
その二つとは、 「先入観の排除」と「早呑込みの危険性」。

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違う角度から見た世界地図

コロナが終わり、久しぶりに日本からフランスに向かった。飛行時間は14時間以上! その理由は戦争でロシア上空を飛行できないため。
座席のテレビに映る世界地図の上の飛行機の航路を見て、それを実感することになった。

私たちがしばしば目にする世界地図は日本が真ん中にあるものか、あるいはヨーロッパ中心のもの。それに対して、KIXからParisに向かう航路が描かれたこの世界地図は、全く異なる角度から世界を見せてくれる。

そして、そのことは、ロシアとウクライナの戦争だけではなく、それを巡る考え方にも異なった視点をサジェストしてくれる。

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大和心と相対主義 本居宣長 vs 上田秋成 日の神論争

同じ出発点に立っても、正反対の考えに進むことがある。
それが世界における日本のあり方という問題に関わると、国論を二分するような議論が生まれることもある。

江戸時代の後半にさしかかった18世紀の末頃、古代から続いてきた大陸文化の影響の他に、ポルトガルやオランダといった西欧文化との接触を通して、日本古来の土着的世界観、つまり、仏教や儒教の影響を受けない日本独自の世界観を解明しようとする動きが出てきた。

その中心となったのは、本居宣長(もとおり のりなが:1730-1801)。
宣長は、『古事記』や『源氏物語』などの語学的研究を通して、日本固有の世界観は日常的な感覚に密着したもの、つまり「人の情(こころ)のありのまま」であり、「大和心」は、外来の「漢意(からごころ)」とは異なるものであると考えた。

『雨月物語』の作者である上田秋成(うえだ あきなり:1734-1809)も、日本は他の国とは違うという認識を本居宣長と共有していた。

その二人が、1786年頃に論争することになる。「日の神論争」と呼ばれるその議論の争点は、「違いに対してどのような姿勢を取るのか?」ということだった。
本居宣長は日本の特異性を優越性につなげ、上田秋成は相対主義的な思考へと進む。

私たちは、二人のうちのどちらが正しいのかという視点ではなく、どちらに賛同するかという視点を取ることで、自分自身の感受性、思考の型、世界観を知ることになる。

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