坂口安吾 「桜の森の満開の下」フランス語訳の試み その3 Ango SAKAGUCHI , « Sous la pleine floraison de la forêt de cerisiers», essai de traduction -3

七人の女房は今迄に見かけたこともない女の美しさに打たれましたが、女は七人の女房の汚さに驚きました。七人の女房の中には昔はかなり綺麗な女もいたのですが今は見る影もありません。女は薄気味悪がって男の背へしりぞいて、
「この山女は何なのよ」
「これは俺の昔の女房なんだよ」
と男は困って「昔の」という文句を考えついて加えたのはとっさの返事にしては良く出来ていましたが、女は容赦がありません。
「まア、これがお前の女房かえ」
「それは、お前、俺はお前のような可愛いい女がいようとは知らなかったのだからね」
「あの女を斬り殺しておくれ」
 女はいちばん顔形のととのった一人を指して叫びました。

Les sept épouses furent frappées par la beauté de la femme, une beauté qu’elles n’avaient jamais vue jusque-là, tandis que la femme fut surprise de la laideur des sept épouses.

Parmi elles, il y en avait qui, autrefois, avaient été assez jolies, mais à présent, elles n’étaient plus que l’ombre d’elles-mêmes. 

Saisie d’un malaise, la femme se recula derrière le dos de l’homme et dit :

« Qu’est-ce que c’est que ces femmes de la montagne ? »

« Ce sont mes anciennes épouses », répondit l’homme, embarrassé. Avoir ajouté ce mot “anciennes” n’était pas mal pour une réponse improvisée, mais la femme ne le ménagea pas.

« Ah bon, ce sont donc tes épouses ? »

« C’est que, vois-tu, je n’avais pas su qu’il puisse exister une femme aussi charmante que toi. »

« Tue-moi celle-là d’un coup de sabre », cria la femme en désignant du doigt celle dont les traits étaient les plus réguliers.

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坂口安吾 「桜の森の満開の下」フランス語訳の試み その2 Ango SAKAGUCHI , « Sous la pleine floraison de la forêt de cerisiers», essai de traduction – 2

山賊は女の亭主を殺す時から、どうも変だと思っていました。いつもと勝手が違うのです。どこということは分らぬけれども、変てこで、けれども彼の心は物にこだわることに慣れませんので、そのときも格別深く心にとめませんでした。

Le brigand, dès le moment où il tua le mari de la femme, eut le sentiment que quelque chose clochait.

Tout se passait différemment de d’habitude.

Il ne savait pas précisément quoi, mais c’était étrange ; pourtant, comme il n’était pas habitué à s’attarder aux choses, il ne le prit pas particulièrement à cœur, même sur le moment.

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坂口安吾 「桜の森の満開の下」フランス語訳の試み その 1 Ango SAKAGUCHI , « Sous la pleine floraison de la forêt de cerisiers», essai de traduction – 1

坂口安吾の「桜の森の満開の下」は、峠に住む残忍な山賊と美しい女性との屈折した関係を中心に展開する怪奇小説であり、残酷な場面も多く見られる。しかし、複雑な人間のあり方を通して、読者一人ひとりが自らの生きる道を考えるきっかけとなる作品でもある。そして、そこでは、桜の開花が特別な役割を担っている。

Sous les fleurs de la forêt de cerisiers en pleine floraison, de Sakaguchi Ango, est une nouvelle fantastique qui se déploie autour de la relation tourmentée entre un brigand cruel vivant dans un col de montagne et une femme d’une grande beauté ; on y rencontre de nombreuses scènes d’une violence saisissante. Néanmoins, l’œuvre constitue aussi, à travers la complexité des figures humaines qu’elle met en jeu, une invitation adressée à chaque lecteur à réfléchir sur sa propre manière de vivre. Et là, la floraison des cerisiers y assume un rôle tout particulier.

ここでは、坂口安吾の独特な文体をできるかぎりフランス語に移植することを目指し、フランス語を母語とする読者にも『桜の森の満開の下』の魅力が伝わるような翻訳を試みたい。

Ici, nous tenterons de transposer en français, autant que possible, le style singulier de SAKAGUCHI Ango, afin de faire percevoir aux lecteurs francophones tout le charme et la puissance de Sous les fleurs de la forêt de cerisiers en pleine floraison.

桜の森の満開の下

桜の花が咲くと人々は酒をぶらさげたり団子をたべて花の下を歩いて絶景だの春ランマンだのと浮かれて陽気になりますが、これは嘘です。なぜ嘘かと申しますと、桜の花の下へ人がより集って酔っ払ってゲロを吐いて喧嘩して、これは江戸時代からの話で、大昔は桜の花の下は怖しいと思っても、絶景だなどとは誰も思いませんでした。近頃は桜の花の下といえば人間がより集って酒をのんで喧嘩していますから陽気でにぎやかだと思いこんでいますが、桜の花の下から人間を取り去ると怖ろしい景色になりますので、能にも、さる母親が愛児を人さらいにさらわれて子供を探して発狂して桜の花の満開の林の下へ来かかり見渡す花びらの陰に子供の幻を描いて狂い死して花びらに埋まってしまう(このところ小生の蛇足)という話もあり、桜の林の花の下に人の姿がなければ怖しいばかりです。

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日本の自然観 源氏物語絵巻 東屋(一)(二)を通して

『源氏物語絵巻』東屋(一)を見ると、平安貴族たちがいかに自然と親しみ、自然の中で生きていたかが見えてくる。

私たちは一般に、この絵画を『源氏物語』第50帖「東屋」の一場面であることを前提に鑑賞する。そのため、つい女性たちに目が向き、左端で本を見ている女性が浮舟(うきふね)であり、その前で長い髪を梳いてもらっているのが中君(なかのきみ)である、といった具合に、物語の内容に即して解釈しがちである。

しかし、あらためて場面そのものに目を向けると、中央を占めているのは几帳に描かれた風景であり、その背後の襖にも自然の光景が大きく描かれていることに気づく。そのうえで物語を思い起こせば、浮舟が見ているのは、女房が読む「詞書(ことばがき)」に対応する「物語絵」であることがわかる。つまり、この室内には三つの風景が取り込まれていることになる。

「東屋」の物語が旧暦の八月から九月にかけて、すなわち秋に設定されていることを頭に入れた上で、当時の色彩に復元された画像を見てみよう。

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日本の自然観 大伴家持とベルナール・ド・ヴァンタドゥールの雲雀 Deux alouettes pour penser la nature au Japon

日本の自然観をフランスで紹介しようと考えたとき、まず思ったのは、それが何に由来するのかということだった。そこで行き着いたのが、和歌の伝統である。和歌には季語があり、季節に応じてさまざまな風景が立ち上がってくる。

そんなふうに考えていたとき、ふと、和歌に詠まれた雲雀と、十二世紀フランスの詩に歌われた雲雀の姿を思い出した。どちらも人間の感情を託された鳥である。しかし、その現れ方はまったく異なり、むしろ対照的だと言ってよい。
雲雀 万葉集の和歌とトゥルバドゥールの詩を通してみる日仏の美的感性

この二つの雲雀を手がかりに、日本では人間と自然がどのような関係にあったのか、そしてその関係が今もなお保たれていることを、フランス語で短くまとめてみた。ここではまず、その大まかな内容を日本語で紹介し、続いて元となったフランス語の文章を転載することにする。

(1)フランス語文の概要

空へ舞い上がる雲雀を詠んだ二つの詩がある。一つは大伴家持の和歌で、春の寂しさがそのまま息づいている。もう一つは十二世紀南フランスのトルバドゥール、ベルナール・ド・ヴァンタドゥールの恋の歌である。

家持の歌はこうだ。

うらうらに 照れる春日に ひばり上がり 心悲しも ひとりし思へば

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感情的即断(感情ヒューリスティック)の時代

マーケティングの世界では、「感情(情動)ヒューリスティック」という言葉がよく使われる。人の感情に訴えることが、ビジネスの成功につながる重要な要素だと考えられているからだ。

しかしその一方で、SNSで見られる攻撃的な言動と、この「感情(情動)ヒューリスティック」が結びついている可能性について語られることは、あまり多くない。

「感情ヒューリスティック」は Affect Heuristic を日本語化した表現だが、「ヒューリスティック」というカタカナ語は少しわかりにくい。
そこでここでは、これをもっと身近な言葉である「即断」と言い換え、「感情的即断」と「攻撃性」の関係について、少しだけ考えてみたい。

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Sainte-Beuve Les Rayons jaunes サント・ブーヴ 韻文詩「黄色い光線」 4/4

孤独と死への思いを具体的なイメージとして夢想したことを終点として、自分の内面を見つめる場面は終わりを迎え、意識は外に向く。夜が来たことに気づき、そして、部屋から下に降り、通りに溢れる群衆の中へと入って行く。

— Ainsi va ma pensée, et la nuit est venue ;
Je descends, et bientôt dans la foule inconnue
J’ai noyé mon chagrin :
Plus d’un bras me coudoie ; on entre à la guinguette,
On sort du cabaret ; l’invalide en goguette
Chevrote un gai refrain.

(朗読は5分18秒から)

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Sainte-Beuve Les Rayons jaunes サント・ブーヴ 韻文詩「黄色い光線」 3/4

愛しい伯母の死が語られた後、思いは母へとつながっていく。母はまだ生きており、「ぼく」を愛してくれている。しかしすぐに、彼女もまた、いつかは死んでいく存在であるという未来へと、連想は進んでいく。

Elle m’aimait pourtant… ; et ma mère aussi m’aime,
Et ma mère à son tour mourra ; bientôt moi-même
Dans le jaune linceul
Je l’ensevelirai ; je clouerai sous la lame
Ce corps flétri, mais cher, ce reste de mon âme ;
Alors je serai seul ;

(朗読は3分9秒から)

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Sainte-Beuve Les Rayons jaunes サント・ブーヴ 韻文詩「黄色い光線」 2/4

子ども時代の教会の思い出は、まず祈りの場面から始まり、そこから伯母の死へと連想がつながっていく。

Oh ! qui dans une église, à genoux sur la pierre,
N’a bien souvent, le soir, déposé sa prière,
Comme un grain pur de sel ?
Qui n’a du crucifix baisé le jaune ivoire ?
Qui n’a de l’Homme-Dieu lu la sublime histoire
Dans un jaune missel ?

(朗読は25秒から)

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Sainte-Beuve Les Rayons jaunes サント・ブーヴ 韻文詩「黄色い光線」 1/4

日本は言うまでもなく、フランス本国においてさえ、フランス・ロマン主義文学に親しむ人は今ではごく少数になっている。サント・ブーヴ(Sainte-Beuve)の詩を読む人となると、なおさら少ないだろう。
そうした中で、彼の代表的な韻文詩の一つとはいえ、なぜ「黄色い光線(Les Rayons jaunes)」を取り上げるのかと、少し意外に思われるかもしれない。

今回この詩を取り上げるのは、その主題である「黄色(jaune)」という色が、現代人の心の動きとどこかで重なって見えるからだ。
ネット社会の中で、私たちは日々、多くの情報に囲まれて過ごしている。その流れに身を任せながら、ときどき理由もよく分からないまま、ふと気持ちが沈むことがある。何かを信じたいと思いながら、どこかで信じきれない気持ちが残る。楽しい時間を過ごしているはずなのに、それをあらかじめ「思い出作り」と言葉にしてしまう。そうした感覚に、心当たりのある人も少なくないのではないだろうか。

「黄色い光線」は一八二九年に発表された詩で、今からおよそ二百年前の作品である。それでも、この詩には、時代を超えて今の日本人の感覚にそっと触れてくる何かがあるように思われる。

そのことは、詩の冒頭に置かれたエピグラフからも感じ取れる。そこには、古代ローマの詩人ルクレティウスの『物の本質について』から、「さらに、あらゆるものは陰鬱で不気味な様相を帯びてくる」という一節が引かれている。
この言葉は、サント・ブーヴの詩の世界に静かな陰影を与えると同時に、読む側の心にもゆっくりと染み込んでくるように思われる。

また、せっかくフランス語で詩を読むのだから、その形式にも目を向けておきたい。
一つの詩節は六行からなり、最初の二行は十二音節、三行目は六音節である。続く三行も同様に、十二音節の二行と六音節の一行が反復される。
韻の構成は、最初の二行が平韻(AA)で、次の四行は抱擁韻(BCCB)となっている。
このように形式が非常に整っているので、フランス語詩特有の音とリズムの美しさを感じ取ることができる。

Les Rayons jaunes

Les dimanches d’été, le soir, vers les six heures,
Quand le peuple empressé déserte ses demeures
Et va s’ébattre aux champs,
Ma persienne fermée, assis à ma fenêtre,
Je regarde d’en haut passer et disparaître
Joyeux bourgeois, marchands,

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