芥川龍之介 「桃太郎」 読解の3つのレベル  1/3  鬼征伐は侵略

黒い背景に対する男性のモノクロ写真。手を顎に当て、思索にふける表情を浮かべている。

「桃太郎」と聞けば、私たちは、桃から生まれた桃太郎がきび団子を持ち、犬、猿、キジを連れて鬼ヶ島へ向かい、鬼を征伐して宝物を持ち帰る、といった物語を思い浮かべる。

こうしたイメージが広く定着した背景には、明治期以降、桃太郎を題材にした唱歌が繰り返し歌われ、また小学校の国語教科書にも取り上げられてきたことがある。その中でも、明治44年(1911年)の『尋常小学唱歌』に収録された「桃太郎」は、現在でもよく知られている。

猿と犬と一緒に旗を持つ少年のイラスト。背景には鳥が飛んでいる。

1.桃太郎さん、桃太郎さん、お腰につけた黍団子、一つわたしに下さいな。
2.やりましょう、やりましょう、これから鬼の征伐に、ついて行くならやりましょう。

私たちはこの歌詞をなんとなく口ずさむことができるが、歌うときに、「なぜ鬼の征伐に行くのか」と考えることはない。鬼とは、もともと人間に悪さをする怖い妖怪であり、鬼退治をする桃太郎は、勧善懲悪のヒーローとして描かれるものだと、私たちは自然に受け止めているからだ。

ところが、芥川龍之介の「桃太郎」では、鬼の島は平和な楽園のような場所として描かれ、桃太郎は部下たちとともにその島を侵略し、富を奪って故郷に戻る存在として描かれている。その上、芥川は、その桃太郎を「天才」に属する人物としている。

この物語は大正13年(1926年)に発表されたものだが、芥川龍之介によって語り直された昔話は、私たちに何を考えさせてくれるのだろうか。ここでは、三つのレベルの読解を提示してみよう。

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François Villon フランソワ・ヴィヨン Ballade des pendus 絞首刑にされた者たちのバラード 2/2

中世の絞首刑のシーンを描いたイラスト。数人の人物が絞首刑にされ、周囲には鳥が飛び交っている。

第1詩節の10行を読むだけで、現代フランス語と中世フランス語の違いの大きさは十分に理解できたに違いない。ここでも、活用された動詞の前に主語代名詞が置かれないことや、現代とは異なる語彙が用いられていることなどを頭に置きながら、「絞首刑にされた者たちのバラード」(Ballade des pendus)を読み進めていこう。

また、ここでもやはり、ジェラール・フィリップの朗読に耳を傾け、中世のフランス語の音とリズムを心と体に刻んでいこう。

第2詩節

第1詩節の冒頭で、絞首台に吊るされている死体を見物している人々に向かい「Frères humains(人類の兄弟たちよ)」と呼びかけたように、第2詩節でも再び frères という言葉が使われる。そして、この詩節の前半では、処刑台の上の死者と下から見ている生者が、実は近い存在であることが示される。

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François Villon フランソワ・ヴィヨン Ballade des pendus 絞首刑にされた者たちのバラード 1/2

立っている男性の木版画、帽子をかぶり、マントを着用しており、手に何かを持っている。周囲には植物が描かれている。

フランソワ・ヴィヨンの名前は、日本では太宰治の『ヴィヨンの妻』によって広く知られている。あるいは、芥川龍之介の「フランソア・ヴイヨンだけは彼の心にしみ透つた。彼は何篇かの詩の中に「美しい牡」を発見した」(「或阿呆の一生」)という一節から、この中世フランスの詩人に興味を持った人もいるかもしれない。

芥川や太宰に愛され、本国フランスでもヴェルレーヌやランボーらに愛読されたことを知れば、どうしてもヴィヨンの原詩を直接読んでみたくなる。

しかし、中世のフランス語は現代フランス語とは大きく異なっているため、少し努力しないとなかなか読み解くことができない。ここでは「それでも原語でトライしてみたい」という読者の存在を期待して、綴り字は現代風に補正しつつも、単語や構文は中世フランス語のまま、ヴィヨンの最もよく知られた詩「絞首刑にされた者たちのバラード」(Ballade des pendus)を読み解いていくことにする。

歴史的な図版で、3人の人物が描かれている。彼らは異なる服装をしており、立っている。

フランソワ・ヴィヨンは、中世末期の百年戦争の混乱期に生まれ、何度か牢獄に投獄され、実際に死刑宣告を受けたこともあった。そうした極限状態のなかで、絞首台に吊るされた者たち(pendus)の姿を想像し、その死体を見物する生者たちへ語りかけるという構図を着想したのだろう。

実際、この詩の正式な題名は「ヴィヨンが、彼自身と仲間たちが絞首刑に処されるのを待ちながら書いた、バラード形式の墓碑銘」(l’Epitaphe en forme de ballade que fit Villon pour lui et ses compagnons s’attendant à être pendus avec eux)というものである。

この題名の中でバラード(Ballade)という言葉が使われているが、中世の定型詩法において、その形式は厳密に規定されていた。
この「墓碑銘」が属する「大バラード(la grande ballade)」は、「1行10音節」「1詩節10行」の本体が3つ、さらに「1詩節5行」の結句(envoi)が1つ、計4つの詩節で構成される。
韻の構成は、10行の詩節ではababb / ccdcd、5行の結句ではccdcdという定型が決まっていた。

「絞首刑にされた者たちのバラード」は、この厳格な定型を守り抜いているだけでなく、詩句の音楽性も見事に工夫されており、死者と生者のために捧げる祈りとしての効果を最大限に高めている。

その高い詩的達成を知れば、ヴィヨンがいくら無頼で放浪の人生を送ったとしても、キリスト教が絶対的だった中世において、乱暴な言葉で詩を綴ったとは考えられないことがわかるだろう。
従来の日本語訳では無頼漢らしい粗野な口調が用いられることも多いが、ここでは提示する日本語は、できる限りフランス語の語順に忠実に、そして神や聖母マリアに捧げる切実な祈りにふさわしい言葉遣いを心がけることにする。

男性の肖像写真。顔が正面を向いており、優しい表情を持っている。背景は淡いピンク色。

また、この詩の内容は「キリスト教の教え(leçon)」、「絞首台の死者たちの描写(description)」、「神への祈り(prière)」という3つの要素に分かれるため、各部分を色分けし、ブロックごとに読み解いていく。

名優ジェラール・フィリップによる素晴らしい朗読をYouTubeで聴くことができる。彼の声に耳を傾け、15世紀フランス語の音楽的な詩句に身を委ねていると、中世フランス語への抵抗感も自然と消えていくに違いない。

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太平洋戦時中のヒットラー像 

「変なはなしだと思われるかも知れません。まったく変なはなしです。しかし、それを変だと思わないほど、ぼくは日常そのことに慣れっこになっていたんです。いや、そうじゃない。今でこそ変だといいますけど、そのときには別に何とも思っていなかったんです。」

机の前に座る男性と積まれた本の画像

これは、昭和13年(1938年)に発表された石川淳の「マルスの歌」に登場する人物の言葉だ。
後から考えればおかしい、あるいは間違っていたと思えることでも、その渦中にある時には慣れてしまっていて、変だと思うことも疑問を持つこともない。そうしたことはしばしばあるし、むしろそれこそが普通なのだろう。

逆に言えば、それほど当たり前だと思っていることや常識を問い返すことは難しく、さらに言えば、後から振り返って「変だ」「間違っている」と言い、過去の当たり前や常識を批判することほど易しいこともない。かつての当たり前を非難する際に「今の常識も実は変かもしれない」と疑うことは難しいのに対し、今の常識とは異なる過去のものを批判することは容易だからだ。

そうした視点から第二次世界大戦中の日本におけるヒトラー像を振り返ると、当時の日本の「当たり前」が見えてくる。

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太宰治「十二月八日」 昭和16年  真珠湾攻撃当日の日記

黒と白の肖像写真で、髪型が少し乱れている中年男性の顔を捉えています。

21世紀の今の時点から第二次世界大戦のことを考える時、どうしても現在の視点からしか見たり、考えたりすることができない。戦争のない今では、戦争に反対することが当たり前であり、当時の日本人たちは本心では反戦だったけれど、声を上げることができなかったに違いないと思ってしまうのは、自然な反応ではないだろうか。

しかし、その時代に生きていた人間たちは、その時代に当たり前とされていたことの中で生きていたのであり、それは現在の「当たり前」とは違っている。

明治時代の後半から大正時代、そして昭和の初年にかけて、日本は日清戦争、日露戦争、満州事変、日中戦争へと戦争や軍事的緊張が続く時代を経験していた。昭和13年(1938年)には国家総動員法が成立し、昭和15年(1940年)頃になると、やがてアメリカとの決戦をも視野に入れる方向へと進んでいた。
そして、昭和16年(1941年)12月8日未明、大日本帝国海軍が、オアフ島の真珠湾にあったアメリカ海軍太平洋艦隊の基地を奇襲攻撃した。日本はその後、アメリカとイギリスに対して宣戦を布告し、太平洋戦争に突入する。

太宰治の「十二月八日」は、作家の妻がまさにその日の出来事を綴った日記形式の短編作品で、昭和17年(1942年)2月1日発行の『婦人公論』に発表された。
そして、そこには、いかにも太宰治らしいユーモアを通して、当時の日本人が戦争をどのようにとらえ、受け入れていたのかが、淡々と綴られている。

若い女性のモノクロ肖像写真で、伝統的な服装を着ており、穏やかな表情をしている。

太宰治は、この作品の中で、100年後の読者を想定し、こんなふうに書いている。
ちなみに、語り口も女性のものになっているのだが、もしかすると、昭和13年(1938年)に太宰と結婚した美知子という女性の視点を借りて、太宰自身が語っているのかもしれない。

昭和十六年の十二月八日には日本のまずしい家庭の主婦は、どんな一日を送ったか、ちょっと書いて置きましょう。もう百年ほど経たって日本が紀元二千七百年の美しいお祝いをしている頃に、私の此(こ)の日記帳が、どこかの土蔵の隅から発見せられて、百年前の大事な日に、わが日本の主婦が、こんな生活をしていたという事がわかったら、すこしは歴史の参考になるかも知れない。

2026年の今、私たちは約80年後の読者にすぎないのだが、多少は太宰の望みに応えることにもなることを期待しながら、戦争の歴史の参考にさせてもらうことにしよう。

本文は「青空文庫」で読むことができる。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/253_20056.html

YouTubeに朗読もアップされている。

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徒然草「仁和寺にある法師」―吉田兼好が私たちに伝える教訓

法師が杖を持ち、和服を着ている伝統的な日本の絵画

『徒然草』第52段で、兼好法師は、仁和寺(にんわじ)の僧侶の話を取り上げ、現代にも通用する一つの教訓を提示している。

その挿話を、兼好の語り(1)、仁和寺の法師の言葉(2)、教訓(3)という、三つの部分に分けて、読み解いていこう。

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「おもてなし」とは何か ― 日本の良き伝統と「和」の精神

雲の中に和服を着た女性が座っている古い日本の浮世絵。

「おもてなし」は、日本的な美徳として、とりわけ接客の分野で語られることが多いのだが、もともとの意味が見失われていたり、現実の言動と矛盾していても、それに気づかなかったりする場面も散見される。

「おもてなし」が「もてなし」に「お」を付けて丁寧にした表現であることはわかるのだが、「恩を持って事を成す」とか、「物を持って成し遂げる」といった説明が語源として語られても、今一つピンとこない。

言葉遊びのように「表なし」とされ、表裏のない心でお客様を迎えることが「おもてなし」の語源だという説明が見られることもある。

また、歴史的な例が提示されることもある。聖徳太子の「十七条憲法」の第一条に「和を以て貴しと為す」とあり、そこから「もてなす」という言葉が派生したとする説明である。

ネット上のこうした説明をそのまま信じるのは少し不安なので、岩波書店の『古語辞典』に手を伸ばし、「もてなし(持て成し)」の項目をのぞいてみる。

そこでわかるのは、「モテ」が接頭語であり、「対象の性質や様子を変えずに維持して……する」、「対象を大事にし、また特に相手にして……する」という意味を持つことである。
そして、「持て成し」は、「相手の状態をそのまま大切に保ちながら、それに対して意図的に働きかけて処置する」というのが、最も根本的な意味だとされている。

つまり、まず最初に、対象となる相手を尊重する気持ちがあり、そのうえで相手に対して何かを行う。これが、日本古来の「もてなし」に通じる精神だったことがわかる。

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加藤周一 「日本文化の雑種性」とその土壌

加藤周一(1919-2008)は、フランス留学のため、1951年11月に羽田空港から出国し、1955年3月、貨物船で神戸港に帰国した。彼は本来医師であり、アメリカへの留学も視野に入れていたのかもしれない。しかし、一高時代から「フランスに行きたい」という思いが強く、フランス政府の留学生試験を受け、フランスで文学研究を行う道を選んだ。

フランス留学を経て帰国した加藤は、敗戦から10年を経た日本を、ヨーロッパでの生活体験を踏まえて見つめ直し、日本の文化について思索をめぐらせ、その成果を次々と発表していった。

1955年6月に発表された「日本文化の雑種性」は、明治維新以降に近代化された日本のあり方を問い直すものであり、翌1956年9月の「果たして『断絶』はあるか」の一節では、日本が外国の文化を受容する土台について論じている。

ここでは、この二つの日本文化論を通して、加藤周一が提示した日本文化のあり方を探っていこう。

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ネルヴァル 「ノートルダム・ド・パリ」 Nerval  « Notre-Dame de Paris »

ジェラール・ド・ネルヴァルが「ノートルダム・ド・パリ」(Notre-Dame de Paris)という短い詩を発表したのは、1832年のことだった。ヴィクトル・ユゴーが歴史長編小説『ノートルダム・ド・パリ』を出版した1831年の翌年である。

今では想像しにくいことだが、当時のノートルダム大聖堂は、廃墟のような状態にあった。
というのも、1789年のフランス革命に続く混乱の中で、ノートルダム大聖堂も襲撃を受け、歴代の王の彫像をはじめ、数々の彫刻や装飾が破壊されていたからである。

その後、1804年にナポレオンの戴冠式が行われた際には、内部が石灰で白く塗られ、装飾が施されるなどした。
しかし、1830年の7月革命の頃には、取り壊しが検討されるほどの状況になっていた。

そうした中で、ヴィクトル・ユゴーは、ノートルダム大聖堂そのものを主役にしたと言ってもいい小説を発表し、人々の熱狂を引き起こすことに成功したのである。(参考:ヴィクトル・ユゴー 『ノートルダム・ド・パリ』―ロマン主義的創造主 2/3)

当時、ネルヴァルは、ユゴーを中心としたロマン派の文学グループの一員でもあり、ユゴーの小説がやがてノートルダム大聖堂の復興に大きな役割を果たすことになると予言するかのような詩を発表したのだと考えられる。

Notre-Dame est bien vieille : on la verra peut-être
Enterrer cependant Paris qu’elle a vu naître ;
Mais, dans quelque mille ans, le Temps fera broncher
Comme un loup fait un bœuf, cette carcasse lourde,
Tordra ses nerfs de fer, et puis d’une dent sourde
Rongera tristement ses vieux os de rocher !

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ジャック・ボニ教授の語るネルヴァル

ジャック・ボニ教授は、ネルヴァルを純粋にひとりの「作家(écrivain)」として提示し、彼の紡いだ言葉を誠実に読み解こうとした研究者だった。
そのボニ教授が « Nerval, La folie d’écrire » と題してネルヴァルを語る映像は、まるで教授の講義を受講しているかのような臨場感をもたらしてくれる。