ネルヴァル 「オリーブ山のキリスト」 Nerval « Le Christ aux Oliviers » 3/5 神は死んだ? 近代的な個人の苦しみ

「オリーブ山のキリスト」の三番目のソネットでも、主イエスの独白が続く。

その中で、まず最初に、「運命(Destin)」と「必然(Nécessité)」と「偶然(Hasard)」に対する呼びかけが行われる。

III

« Immobile Destin, muette sentinelle,
Froide Nécessité !… Hasard qui, t’avançant
Parmi les mondes morts sous la neige éternelle,
Refroidis, par degrés, l’univers pâlissant,

III

「不動の「運命」よ、お前は無言の見張りだ、
冷たい「必然」よ!・・・ 「偶然」よ、お前は進んでいく、
永遠の雪に覆われた死の世界の中を、
そして、じょじょに宇宙を冷やし、宇宙は色を失っていく。

(朗読は1分37秒から)
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ネルヴァル 「オリーブ山のキリスト」 Nerval « Le Christ aux Oliviers » 2/5 神は死んだ? 近代的な個人の苦しみ

「オリーブ山のキリスト」の2番目のソネット(4/4/3/3)は、主イエスの独白によって構成される。従って、「私(je)」が主語であり、一人称の語りが続く。
言い換えると、三人称の物語ではなく、個人的な体験談ということになる。

第1のソネットで明かされた神の死の「知らせ(la nouvelle)」を受け、「私」は確認のため、神の眼差しを求め、宇宙を飛び回る。
その飛翔の様子は、すでに見てきたジャン・パウルの「夢(le songe)」 の記述をベースにしている。しかし、ここでも前回と同じように、最初は読者がそうした知識を持たないことを前提し、詩句を解読していこう。

II

Il reprit : « Tout est mort ! J’ai parcouru les mondes ;
Et j’ai perdu mon vol dans leurs chemins lactés,
Aussi loin que la vie en ses veines fécondes,
Répand des sables d’or et des flots argentés :

II

主は言葉を続けた。「全ては死んだ! 私はあらゆる世界を駆け巡った。
銀河の道を飛翔し、彷徨った、
はるか彼方まで。生命が、豊かな血管を通して
金の砂と銀の波を拡げていくほど彼方まで。

(朗読は1分から)
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ネルヴァル 「オリーブ山のキリスト」 Nerval « Le Christ aux Oliviers » 1/5 神は死んだ? 近代的な個人の苦しみ

現代の読者がジェラール・ド・ネルヴァルの「オリーブ山のキリスト(Le Christ aux oliviers)」を読み、詩の伝える内容を理解し、詩句の味わいを感じ取ることができるのだろうか?

こんな風に自問する理由は、ネルヴァルという作家・詩人は作品の根底に、彼が生きた19世紀前半に流通していた数多くの知識を置いたため、そうした知識がないと理解に達することが難しいと思われるから。
もし知識がなければ理解できないとすると、彼の作品を現代の読者が味わうことは不可能ということになる。

では、知識なしで、彼の作品を味わうことはできるのか? 
「オリーブ山のキリスト」の場合、題名からは、扱われているのがイエス・キリストであることはわかる。
しかし、”オリーブ山のキリスト”となるとどうだろう?

ネルヴァルのことを知らず、キリスト教への興味もない場合、この詩を手に取ろうとは思わないだろう。
それでも一歩前に踏みだし、最初の詩句を読み始めると、興味が湧いてくるだろうか?

そんなことを考えながら、5つのソネット(4/4/3/3)からなる「オリーブ山のキリスト」を読み進めていこう。

Le Christ aux oliviers

Dieu est mort ! le ciel est vide…
Pleurez ! enfants, vous n’avez plus de père !
Jean Paul.

I

Quand le Seigneur, levant au ciel ses maigres bras
Sous les arbres sacrés, comme font les poètes,
Se fut longtemps perdu dans ses douleurs muettes,
Et se jugea trahi par des amis ingrats ;

オリーブ山のキリスト

         神は死んだ! 天は空っぽだ・・・
         泣くがいい、子どもたちよ、もう父はいない!
                            ジャン・パウル

I

主は、痩せ細った腕を天に向けて上げ、
神聖な木々の下で、ちょうど詩人たちのように、
長い間、声も出ないほどの苦痛の中に沈み込んでいた、
そして、恩知らずな友たちに裏切られたと思った時、

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サルトル 『言葉』 Sartre Les Mots 事物と概念 実存主義の基礎

ジャン・ポール・サルトルの自伝的作品『言葉(Les Mots)』(1963)の中で、日本人にとってはわかりにくい一つのテーマが扱われている。
それは、目に見え、手で触れることができる現実の「事物」と、その反対に、見ることも触れることもできない「概念」という、二つの異なった認識の次元に関わる問題。

例えば、猫に関して、ここにいる「一匹の猫」は存在するが、「猫一般」、あるいは「猫という概念」は存在しないとする立場と、逆に、概念そのものが実在するという立場がある。

普通、そんな違いを日本人は考えないので、わかりにくいし、どうでもいいようにも思われる。
ところが、サルトルが自分の幼い頃の思い出として語る一つのエピソードを読むと、私たちにとっては遠い世界の思考法がクリアーに理解できてくる。

その結果、サルトルの提示した哲学の根本的な土台が、「事物」と「概念」の関係をどのように考えるかということにあることがわかり、実存主義の理解にもつながる。
さらに、その二分法になじまない日本的な思考の特色も見えてくる。


『言葉』の中には、サルトルが小さな頃からお祖父さんの書斎に置かれた多くの本に囲まれて育ったが、その中でもとりわけ「ラルース大百科事典」に大きな興味を示したという思い出を語る部分がある。

Mais le Grand Larousse me tenait lieu de tout : j’en prenais un tome au hasard, derrière le bureau, sur l’avant-dernier rayon, A-Bello, Belloc-Ch ou Ci-D, Mele-Po ou Pr-Z (ces associations de syllabes étaient devenues des noms propres qui désignaient les secteurs du savoir universel : il y avait la région Ci-D, la région Pr-Z, avec leur faune et leur flore, leurs villes, leurs grands hommes et leurs batailles) ;

ところで、私にとって、「ラルース大百科事典」が(他の本)全ての代わりになっていた。適当に一巻を手に取る。机の後ろにある棚の、下から二番目の段にある、A-Belloの巻だったり、Belloc-Chの巻、Ci-Dの巻、Mele-Proの巻、Pr-Zの巻だったりする。(それらの音の組み合わせは固有名詞となり、普遍的な知識の分野を指し示していた。Ci-Dの地区、Pr-Zの地区があり、その中に、動物相や植物相、街があり、偉人がいて、彼らの戦があった。)

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マラルメ 「聖女」 Mallarmé  « Sainte »  詩=音楽

ステファン・マラルメは、20世紀以降のフランス文学に対して大きな影響を及ぼし、21世紀の現在でも文学批評の中で主題的に語られることがしばしばある。
その一方で、彼の詩は理解するのが難しく、詩そのものとして味わいを感じる機会はそれほど多くない。

マラルメは詩における音楽性の重要性を強調した。そして、彼の詩句が生み出す美の大きな要素は、言葉の奏でる音楽から来る。

その音楽は、日本語の翻訳では決して伝わらない。
また、たとえフランス語で読んだとしても、通常の言語使用を故意に混乱させ、意味の流通を滞らせることを意識した詩的言語で構築されているために、一般のフランス人読者だけではなく、文学研究を専門にするフランス人でも、マラルメの詩は難しいとこっそり口にすることがある。

そうした中で、日本の一般の読者がマラルメの詩を読むことの意義がどこにあるのかと考えることも多々あるのだが、しかし、せっかくフランス語を読むことができ、フランスの詩をフランス語で読む楽しみを知る読者であれば、難しい課題に挑戦し、少しでもマラルメの詩句の音楽性を感じられれば、それは大きな喜びとなるに違いない。
そんな期待をしながら、「聖女(Sainte)」を読んでみたい。

この詩では、音楽の守護聖女である聖セシリア(Sainte Cécile)が取り上げられ、詩の音楽性が主題的に歌われている。

まず最初に、意味は考えず、詩句の奏でる音楽に耳を傾けてみよう。

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ボードレール 「高翔」 Baudelaire « Élévation » ロマン主義詩人としてボードレール 

「高翔(Élévation)」には、ボードレールの出発点であるロマン主義精神が屈折なく素直に表現されている。

ロマン主義の基本的な図式は、二元的な世界観に基礎を置いている。
ロマン主義的魂にとって、現実は時間の経過とともに全てが失われる空しい世界であり、その魂は、彼方にある理想の世界(イデア界)に上昇する激しい熱望にとらわれる。
その超現実的な次元に対する憧れが、美として表現される。

Élévation

Au-dessus des étangs, au-dessus des vallées,
Des montagnes, des bois, des nuages, des mers,
Par delà le soleil, par delà les éthers,
Par delà les confins des sphères étoilées,

Mon esprit, tu te meus avec agilité,
Et, comme un bon nageur qui se pâme dans l’onde,
Tu sillonnes gaiement l’immensité profonde
Avec une indicible et mâle volupté.

小さな湖のはるか上に、谷間のはるか上に、
山々の、森の、雲の、海のはるか上に、
太陽の彼方に、空間を満たす液体の彼方に、
星々の煌めく天球の境界の彼方に、

我が精神よ、お前は動いていく、軽々と,
そして、波の間で恍惚となる素晴らしい泳ぎ手のように。
お前は陽気に行き交う、奥深い広大な空間を、
言葉にできない男性的な官能を感じながら。

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デカルト 神の存在 『方法序説』第4章 Descartes Discours de la méthode chapitre 4 Dieu existe

ルネ・デカルト(René Descartes, 1596-1650)は、人間の本質に理性を置き、合理主義の思考の基礎を築いた哲学者と考えられることが多い。

1637年に出版された『方法序説(Discours de la méthode)』の有名な言葉「我思う、故に我在り(Je pense, donc je suis.)」は、全ての人間には良識(bon sens)=理性(raison)が備わり、それに導かれることで真理(vérité)に到達できることを原則として思想の表現として、21世紀の現在でもよく知られている。

ところが、『方法序説』の第4章において、デカルトが、真理を保証するものとして「神(Dieu)」の存在を持ち出していることは、比較的忘れられている。
そこで、ここでは、デカルトが神についてどのような考察をし、神の存在を証明し、神が存在することがどのような意味を持つと考えたのか、探ってみることにしよう。

ただし、17世紀前半のフランス語は現在のフランス語とそれほどの違いがないとはいえるが、しかし、表現の仕方などで違いもある。例えば、動詞と代名詞の位置、構文の複雑さ、接続法の多用など。
そこで、フランス語自体の説明もやや詳しくするために、記述がかなり煩雑になってしまうことを予め断っていきたい。

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ランボー 「わが放浪(ファンテジー)」 Rimbaud « Ma Bohême (Fantaisie) » 放浪する若き詩人の自画像

「わが放浪(ファンテジー)Ma Bohême (Fantaisie)」は、1870年10月に、年長の友人ポール・デメニーに預けた手書きの詩22編の中の一編。

翌1871年6月にデメニーに手紙を書き、全ての詩を燃やしてくれと依頼した。しかし、幸いなことに、デメニーは要求に従わなかった。そのおかげで、私たちは、16歳を直前にしたランボーの書いた詩を読むことができる! 

当時のランボーは、「詩人になる」という目標を掲げ、模索していた。
1870年5月24日に高名な詩人テオドール・ド・バンヴィルに送った3編の詩(「感覚(Sensation)」を含む)は、ロマン主義的な傾向をはっきりと示していた。
その1年後、1871年5月に書かれた「見者(le Voyant)の手紙」では、ロマン主義の詩を真っ向から否定し、「あらゆる感覚を理性的に狂わせ、未知なるものに達する」という詩法を展開した。

その中間時点にあるデメニーに託した詩群は、ロマン主義から出発して「見者の手紙」の詩法へと歩みを進めつつある段階にあった。
そのことは、放浪と詩作のつながりをテーマとする「感覚」と「我が放浪」 を並べてみるとよくわかる。

「感覚」では、全ての動詞が単純未来に活用され、まだ実現されていない希望が理想として思い描かれる。

夏の真っ青な夕方、ぼくは小径を歩いて行くだろう
Par les soirs bleus d’été, j’irai dans les sentiers

ランボー 「感覚」 Rimbaud « Sensation » 自然を肌で感じる幸福

理想との対比を強調するために、「わが放浪」では動詞は過去時制で活用される。

Je m’en allais, les poings dans mes poches crevées ;
Mon paletot aussi devenait idéal ;
J’allais sous le ciel, Muse ! et j’étais ton féal ;
Oh ! là ! là ! que d’amours splendides j’ai rêvées !

ぼくは出掛けていった、破れたポケットに拳骨を突っ込んで。
ハーフコートも同じように、理想的になっていた。
大空の下を歩いていたんだ、ミューズよ! ぼくはお前の僕(しもべ)だった。
あーあ! なんて数多くの輝く愛を、ぼくは夢見たことだろう!

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ランボー 「感覚」 Rimbaud « Sensation » 自然を肌で感じる幸福

「感覚(Sensation)」は、15歳のランボーが、高踏派を代表する詩人テオドール・ド・バンヴィルに宛てた1870年5月24日付けの手紙の中に同封した詩の一つ。

その手紙でランボーは、16世紀の詩人ロンサールを起源とし、ロマン主義から高踏派へと続く、「理想の美(la beauté idéale)」を追い求める詩人たちを真の詩人と見なし、その系譜の中に自分を位置づけている。
「感覚」はその言葉を証明するために同封された詩だった。

「感覚」の中で使われる動詞が全て単純未来で活用されるのは、「私(je)」の感じる幸福感が、これから実現されるはずの「理想」であり、15歳の少年詩人がその感覚に「美」を見出したことを示している。

Par les soirs bleus d’été, j’irai dans les sentiers,
Picoté par les blés, fouler l’herbe menue :
Rêveur, j’en sentirai la fraîcheur à mes pieds.
Je laisserai le vent baigner ma tête nue !

夏の真っ青な夕方、ぼくは小径を歩いて行くだろう、
麦の穂にちくちくさされながら、細い草を踏んで。
夢見心地の中で、草のひんやりとした感覚を感じるだろう、ぼくの足に。
風が浸すままにしておくだろう、帽子をかぶらないぼくの頭を!

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ヴェルレーヌ「シテール島」Verlaine « Cythère »と音楽 クープラン ドビュシー サティ プーランク

ポール・ヴェルレーヌの「シテール島(Cythère)」は、1869年に出版された『艶なる宴(Fêtes galantes)』の中の一編で、ロココ絵画の雰囲気を19世紀後半に再現している。

19世紀前半、ルイ15世やルイ16世の時代の装飾様式をロココ(rococo)と呼ぶようになったが、ロココは時代遅れ様式というニュアンスを与えられていた。
そうした中で、一部の人々の間で、18世紀の文化全体を再評価する動きが生まれ、ロココ絵画に言及する美術批評や文学作品も現れるようになる。

アントワーヌ・ヴァトーの「シテール島の巡礼(Le Pèlerinage à l’île de Cythère)」は、18世紀の前半に、「艶なる宴(fête galante)」という絵画ジャンルが生まれるきっかけとなった作品だが、19世紀前半のロマン主義の時代、過去への追憶と同時に、新たな美のモデルとして、文学者や評論家によって取り上げられるようになった。

美術評論家シャルル・ブランは、「艶なる宴の画家たち(Les peintres des Fêtes Galantes)」(1854)の中で、以下のように述べている。

Éternelle variante du verbe aimer, l’œuvre de Watteau n’ouvre jamais que des perspectives heureuses. (…) La vie humaine y apparaît comme le prolongement sans fin d’un bal masqué en plein air, sous les cieux ou sous les berceaux de verdure. (…) Si l’on s’embarque, c’est le Départ pour Cythère.

「愛する」という動詞の果てしない変形であるヴァトーの作品は、幸福な光景しか見せることがない。(中略) そこでは、人間の生活は、野外で、空や緑の木立の下で行われる仮面舞踏会の、終わりのない延長のように見える。(中略) もし船に乗って旅立つとしたら、それは「シテール島への出発」だ。

こうした記述を読むと、愛の女神ヴィーナスが誕生後に最初に訪れたといわれるシテール島が、恋愛の聖地と見なされていたことがわかる。

ヴェルレーヌも、ロココ美術復興の動きに合わせ、彼なりの『艶なる宴』を作り出した。
そこでは仮面舞踏会での恋の駆け引きが音楽性豊かな詩句で描き出され、「シテール島」においても、無邪気で楽しげな恋の場面が目の前に浮かび上がってくる。

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