
一見うまくやっているように見えながらも、どこか周囲の雰囲気になじめない。はっきりとした理由や特別な原因があるわけではないのに、漠然とした居心地の悪さを感じる。自分自身であることさえ、時に違和感を覚える。── そうした人々が、社会の中には一定数存在する。
彼らは、表面的には決して社会から排除されているわけではない。けれども心の奥では、自分の価値観と社会一般の価値観とのズレを常に感じている。そして、社会からの圧力に押しつぶされそうになる中で、周囲との温度差に擦り切れ、苛立ち、言葉にならない悪態をつき、時には自らの無力さに疲れ果てて、爆発しそうになることさえある。
「蜜柑」と「沼地」は、そうした人間を代表する「私」(わたくし)が、偶然に遭遇した出来事を語るという形式を取った短編作品である。
どちらの作品でも、起承転結のある物語が展開されるわけではない。「蜜柑」では、汽車の中で出会った少女の振る舞いを目撃した出来事が語られるのみであり、「沼地」では、展覧会で出会った美術記者とのやり取りが記されるにすぎない。
しかしそこからは、社会の一般的な価値観と葛藤する「私の肖像」が描き出され、その肖像を通して、「私にとって価値あるもの」が浮かび上がってくる。
「蜜柑」と「沼地」に共感を寄せる読者は、その「価値あるもの」を、芥川龍之介と共有することになる。







