日本の歴史 超私的概観 (10) 幕末から明治へ

幕末から明治へと移行する中で、政治体制が大きく変化しただけでなく、一般の人々の生活様式を含む文化全体も大きく様変わりした。
この変化を広い視野で捉えると、飛鳥時代以来約1300年間続いてきた中国文化の影響から離れ、西洋の文化圏へと移行したことに他ならない。
別の視点から見れば、東アジアの端にある島国の日本が、もはや欧米列強の世界戦略とは無関係でいられなくなったことを意味している。

19世紀に入り、外国船が日本に頻繁に来航するようになり、とりわけ1853年に浦賀沖に現れたペリーの黒船に象徴される開国の要求以降、江戸幕府は鎖国政策の転換を迫られるようになっていった。
同じ頃、薩摩藩や長州藩などいくつかの藩では、有能な下級武士を登用して藩政改革に成功し、幕府に対抗し得る実力を備えつつあった。
そうした状況の中で、徳川時代を通じて政治の表舞台に立つことのなかった朝廷の存在感が次第に増し、明治維新後には、天皇が政治の中心に位置する国家体制が形成されていくことになる。

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日本の歴史 超私的概観 (9) 幕末から明治へ  植民地化の危機を前にして 

江戸幕府は初期に開始した鎖国政策を継続していたが、19世紀に入ると、西欧諸国によるアジアへの植民地政策に対応を迫られるようになった。

一方では、圧倒的な軍事力を持つ欧米列強に対して断固たる拒否を貫き、攘夷、すなわち夷人(いじん)を攘(はら)い、外国勢力を排除しようとする主張があった。
もう一方では、妥協的な態度を取り、何らかの条約を結ぶという現実主義的な立場があった。
こうした対立が、最終的に江戸幕府を倒し、明治維新をもたらした一つの要因になる。

国内に目を向ければ、幕府および諸藩の財政は恒常的に逼迫しており、農民に対しては年貢を、商人に対しては上納金を過重に課すことで財源の確保を図った。
しかし、その結果として農民一揆が頻発し、都市部においても打ちこわし等の破壊的な民衆運動が勃発するなど、社会的混乱が継続的に生じていた。

このような情勢下において、薩摩藩や長州藩などの一部有力藩では、有能な下級武士を登用し、内部改革に着手することで藩政の再建を図った。
これにより、これらの藩は次第に政治的・軍事的な実力を蓄積し、幕府に対抗し得る勢力として台頭していくこととなる。

明治維新後、国家形成の主導的役割を担ったのは、こうした改革過程において頭角を現した若年層の下級武士たちであり、彼らは新政府の中枢を構成することとなった。

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明治維新を挟んで 同じ年に生まれて 作家や画家など

  明治天皇

1868年の明治維新後、政府は江戸幕府の政治を大きく転換し、近代化政策を押し進めた。
1870年には平民に苗字を名乗ることを許し、1871年には斬髪、廃刀を1872年には洋服の着用を推進。それと同時に、教育制度も改革し、学制を定め、東京師範学校を創立した。

明治時代の文芸や絵画はこうした近代化の影響を大きく受けているが、その一方で、初期には江戸時代の漢学の素養が強く残っていた。
実際、明治の初期に活躍した人々は江戸時代に生まれ、漢籍をすらすらと読むことができる最後の世代であり、西洋文明が流入する中で、二つの文明の葛藤を真正面から受け止めた人々だった。
森鴎外と夏目漱石はその代表的存在に他ならない。

明治維新後に誕生した世代の文学者は芸術家たちは、江戸時代の教育の影響が前の世代よりも弱く、葛藤の度合いが少なくなっているように思われる。
そうした中で、年代的には、西郷隆盛の死で終わる西南戦争の明治10(1878)年と、大日本帝国憲法が発布される明治22(1889)年を区切りと考えてみたい。

彼らを年順に並べていくと、面白いことに気づく。
同じ時代に生まれていても、私たちにとって、遠い過去の存在と感じられる作家や思想家がいる一方で、もっと身近な存在と感じられることもある。
その違いは、死亡した年の違いに由来するようだ。例えば、1912年に死んだ石川啄木と1965年に死んだ谷崎潤一郎が、同じ年(1886年)の生まれだとは感じられない。

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明治維新の主役たち 同じ年に生まれて

現在の日本で常識と思われていることは、明治維新の時代に採用された政策に基づいていることが多い。
日本人の根底に流れる精神性は古代から断絶がないかもしれないが、生活様式や世界観の面では明治時代に大転換があり、それが現在まで続いている。

江戸時代の末期、幕府に反対する勢力は、「尊皇攘夷」、つまり、幕府の上に天皇を置き、外国勢力を排除し鎖国を続ける政策を主張した。
ところが彼らが権力を掌握するや否や、欧米列強に対抗するため、国家の近代化を推し進めた。文明開化、富国強兵、脱亜入欧、等々。
日本をアジアではなく、アメリカやヨーロッパに近づけようとする思想や政策は、征韓論、日清戦争、日ロ戦争へとつながる。

こうした流れは、第二次世界大戦後においてほぼ反復される。
太平洋戦争において「鬼畜米英」という標語でアメリカと戦った日本は、敗戦直後から、明治維新の「攘夷」論者たちと同じように、アメリカに対する姿勢を一転させた。
そして、「富国」政策を取り、1970-80年代にはジャパン・アズ・ナンバーワンと言われるまでの経済成長を遂げ、現在でもG7(アメリカ、イギリス、カナダ、フランス、ドイツ、イタリア、日本)に入るアジア唯一の国という表現がなされるように、「脱亜入欧」意識は残っている。(その表現は、日本がアジアに属するというよりも、欧米の一員であるかのような意識を暗に示すと考えられる。)

明治維新後と第二次世界大戦後の並行関係に気づくと、今の日本の状況を知るために、江戸から明治にかけての歴史に興味が湧いてくる。

ここでは、明治維新で主要な役割を果たした人物たちを出生年順に列挙してみよう。
同じ年代に生まれることは、類似した教育を受け、一つの時代精神を知らず知らずのうちに身に付けることにつながる。それに同化するか反発するかは、各個人の資質の違いによる。

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