陰謀論を信じること

陰謀論を信じ、客観的な事実に基づいた証拠を示されても、決してその輪から抜け出せない人たちがいる。
2016年頃には「ポスト真実」という言葉が盛んに使われ、「客観的な事実ではなく、個人の信じることが真実とされる」傾向が強まったことが話題になった。
しかし現代では、「ポスト真実」という語さえも忘れられ、自分たちが信じる「事実」の真実性を問おうとする姿勢すら見られなくなっている。

かつて「言った者勝ち」という言葉があった。
今は、発信して“バズり”、再生回数や「いいね」という承認を得た者が利益を得る時代である。
「ファクトチェック」が意味をなさない時代、と言ってもいいかもしれない。

では、日々接している情報をそのまま信じ、反復し、情報源も事実性も確かめようとしない人々が、なぜこれほど増えているのだろうか。
彼らは決して悪意をもつ人々でも、知的に劣る人々でもないように思われる。むしろ社会的な問題に関心をもち、悪に対して義憤に駆られるタイプの人々のようにも見える。
それなのになぜ? そんな疑問が湧いてくる。

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自由と真実 liberté et vérité

西欧社会では、人間の「自由」に大きな価値を置いている。基本的な人権は自由を認めることであり、自由を認めないことは主権の抑圧と捉えられる。
社会主義的な国では、個人の自由よりも国家の権限が上に置かれ、社会の安定を維持するためであれば、個人の自由を制限することは、かなりの部分で許容される。
日本はその中間にあり、自由は主張するが、ある程度の制限は仕方がないという傾向が見られる。

自由の問題は、誰もが匿名で非人称のコミュニケーション空間にオピニオンを発信できるSNSの時代になり、真実を認定する困難さをますます増大させている。
何を発言し、何を信じるとしても、個人の自由。そうなれば、真実とは一人一人が真実だと思うものであり、他者と共有される必然性はなくなる。
より現実的なレベルで言えば、限定された数の人間がオピニオンを共有すれば、それが他のオピニオンからどんなにFake Newsと言われようと、彼らにとっての真実であり続ける。
その状況は相互的であり、100人のうち70人がAを、30人がBを真実とした場合、どちらが真実と言えるのか?
映像でさえ容易に加工できる時代、言葉だけではなく、映像もそのまま信じることはできない。

現代社会において大きなテーマであり続ける自由と真実について、歴史的な展望を含め、少しだけ考えてみよう。

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芸術のために

芸術の種類

芸術にはどんなものがあるか、思い出しておこう。

映画を第七の芸術と呼ぶことがある。
(1)建築、(2)彫刻、(3)絵画、(4)音楽)、(5)ポエジー(詩、文学)
これらは、物質的な側面の強いものから精神的な側面が強いものへという順番に従って、ヘーゲルが列挙したものである。
(6)ダンス(舞踏)、(7)映画

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