芸術の種類
芸術にはどんなものがあるか、思い出しておこう。
映画を第七の芸術と呼ぶことがある。
(1)建築、(2)彫刻、(3)絵画、(4)音楽)、(5)ポエジー(詩、文学)
これらは、物質的な側面の強いものから精神的な側面が強いものへという順番に従って、ヘーゲルが列挙したものである。
(6)ダンス(舞踏)、(7)映画
これら以外にも、芸術、アートに属すると考えられるものはまだまだある。
(8)演劇、(9)写真、(10)ファッション、(11)食文化、(12)デジタル・アート。
フランスであれば、(13)バンド・デシネがアートと考えられることもある。
芸術の目的
芸術作品は、人間の持つ様々な機能に訴えかけてくる。
(1)五感 ー 視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚
(2)感情、情動
(3)直感
(4)知性
こうした機能を通して、芸術は人間に「真実」や「美」を伝えることを目的としてきた。

黄金比率に則って建造されたと言われることもあるパルテノン神殿は、完璧な均整を持ち、調和の取れた美の典型とされている。
プラトン的「真ー善ー美」という表現に従えば、パルテノン神殿は、人間に黄金比率という「真実」を教え、「善きもの」であり、美の典型でもある。
古代ギリシアから続くこうした伝統は、ヨーロッパ芸術の中で、長い間保たれてきた。



19世紀の半ば以降、「美」のみを芸術の目的だと主張する芸術家たちが現れた。「美」は有益であってはならず、何かの役に立つものは「美」ではない。
こうした主張の代表者が、「芸術のための芸術」を掲げたテオフィル・ゴーティエや、『悪の華』の詩人シャルル・ボードレールである。
それ以来、普遍的な美ではなく、独創的な美も受け入れられるようになり、20世紀、21世紀の芸術の主流となっている。



私たちはこうした作品に触れることで、感覚や情感、直感、知性に働きかけを受け、感覚や感情がより繊細になり、良質なものを見分ける直感が働き、真実を見抜く知性が磨かれる可能性がある。
芸術(作り物)の価値
芸術作品は、ある意味では、現実を模倣した作り物にすぎない。
現実が本物だとすると、その模造品、コピーであり、生きていく上で必要不可欠なものではない、と考えることもできる。嗜好品であり、娯楽にすぎない。
では、芸術は本当に余剰なものであり、人間にとって本質的な価値はないものなのだろうか。
大岡昇平は、ある小説の中で、次のようなエピソードを描いたことがある。東南アジアに戦争に駆り出された日本人の兵士たちが、餓えに耐えきれず、小さな村を襲う。そこで最初に手にするのは、食料ではなく、煙草。
理性的に考えれば、飢えた兵士たちは食べ物に飛びつくはずである。しかし、彼等の欲求は、生命の維持ではなく、嗜好品へと向かった。喜びを直感的に選んでしまうのだ。
このエピソードは、人間にとって本質的な価値が、生命の維持と同程度か、あるいはそれ以上に、余剰品にもあることを暗示している。
では、芸術作品という作り物の価値はどこにあるのだろう。
アリストテレスは『詩学』の中で、歴史家と詩人を対比させる。
歴史家は、過去に起こった事実を語る。
詩人は、起こる可能性のあることを語る。
歴史は、一回限りの出来事を対象にし、個別的な出来事の集成である。
詩(作り物、フィクション)は、起こる可能性のあることを、真実らしく、あるいは必然性を持たせて語る。従って、普遍的であり、一般性を持つ。
この視点に立つと、芸術の価値の一つがわかってくる。
私たちが日常生活を生きる上で、日々の出来事は一回一回異なり、私たちはその時々をその場その場で生きている。その際には、多くの場合、個別的な視点しか持たず、一般性を理解することは難しい。
それに対して、優れた芸術作品、作り物、フィクションは、個々の現実を超えた普遍に基づき、多くの事実を貫く一般性を内包している。
アリストテレス的に言えば、これから起こるかもしれないことを、予め告げているのである。
私たちが個人的な体験だけでは感じられないこと、理解できないことを、ひっそりと暗示する。それが、優れた芸術作品の価値だといえる。
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