自由と真実 liberté et vérité

西欧社会では、人間の「自由」に大きな価値を置いている。基本的な人権は自由を認めることであり、自由を認めないことは主権の抑圧と捉えられる。
社会主義的な国では、個人の自由よりも国家の権限が上に置かれ、社会の安定を維持するためであれば、個人の自由を制限することは、かなりの部分で許容される。
日本はその中間にあり、自由は主張するが、ある程度の制限は仕方がないという傾向が見られる。

自由の問題は、誰もが匿名で非人称のコミュニケーション空間にオピニオンを発信できるSNSの時代になり、真実を認定する困難さをますます増大させている。
何を発言し、何を信じるとしても、個人の自由。そうなれば、真実とは一人一人が真実だと思うものであり、他者と共有される必然性はなくなる。
より現実的なレベルで言えば、限定された数の人間がオピニオンを共有すれば、それが他のオピニオンからどんなにFake Newsと言われようと、彼らにとっての真実であり続ける。
その状況は相互的であり、100人のうち70人がAを、30人がBを真実とした場合、どちらが真実と言えるのか?
映像でさえ容易に加工できる時代、言葉だけではなく、映像もそのまま信じることはできない。

現代社会において大きなテーマであり続ける自由と真実について、歴史的な展望を含め、少しだけ考えてみよう。

自由

西洋社会にとって、自由は人間の基本的な権利であり、自由の侵害は人権の抑圧に直結すると考えられる。

「シャーリー・エブド」がムハンマドを揶揄する風刺画を掲載したことを巡り、テロ事件が起こった。その裁判の過程でも混乱が起こり、暴力事件が発生した。
その際、大統領を始めとする大多数のフランス人は「表現の自由」を支持し、テロが起こる可能性を考えて自己抑制することに否定的である。

その件に関する日本での主な反応は、相手に厭な思いをさせるのであれば、自由を全面的に主張するべきではないというものだった。日本の国民性は、自己規制を表現の自由の上に置く傾向にあると考えていいだろう。

では、なぜフランスでは、自由に絶対的ともいっていい価値を置くのか?
それは、「人間の価値」と「自由」が密接に繋がっているからである。

ルネサンス以前、キリスト教の世界観の中で、神は絶対的な存在であり、全ては神の秩序の下にあった。
その秩序に従うことが人間の正しい行いであり、価値の基準は神にあった。
こう言ってよければ、何が正しいかは予め決まっていて、人間が介入する余地も自由もなかった。

ルネサンスになり、そうした価値観の転換があり、人間の価値を認める世界観が生まれた。
その時代は、全ての存在には上下関係が決まっていた。
(上):神、天使、人間、動物、植物、鉱物:(下)
イタリアの哲学者ピコ・デラ・ミランドラは、『人間の尊厳について』の中で、人間は、元素から動物、植物、理性、神の似姿までを含む小宇宙であり、自由意志によって、神のようにも動物のようにもなることができると主張し、それが「人間の尊厳」だとした。
あらゆる存在の中で、人間だけが、自らの意志で、存在の階段を上昇することも下降することもできる自由な存在。その自由こそが人間の価値だと見なしたのである。

ただし、ルネサンスにおいては、人間の価値という場合の「人間」は人間一般であり、一人一人の個人ではなかった。
個人に価値が置かれるのは、フランス革命を経て、19世紀前半になってからである。
社会的な「私」ではなく、「私の内面」に価値が置かれ、人とは違う「私」こそが人間の価値となる。
その時代に至り、「個人の自由」が自由の本質と見なされるようになった。
そして、その価値観は現在でもそのまま保たれている。

こうした歴史を振り返ってみると、西欧社会において、現在でも自由に絶大な価値が置かれる理由がよくわかる。
ルネサンスの時代に「自由」は「人間」の価値として獲得され、19世紀に「人間」が「個人」へと移行することで、「個人の自由」こそが人間の価値と見なされるようになったのである。
その世界観の中では、自由を放棄したり、制限したりすることは、人間の価値を低めることにつながる。

テロを誘発する可能性があるにもかかわらず、風刺画の自由を許すフランスの世論は、以上のような「自由の考古学」に基づいていると考えてもいいだろう。


しかし、100%の自由が許されるわけでないのは、どんな自由論者でも意識していることである。

まず、暴力によって相手に危害を加える場合。
いくら自由だからと言って、物理的な手段によって相手の肉体を傷つければ、犯罪になる。
100%の自由は許されない。

しかし、様々な条件の下、暴力が許容される場合もある。そして、許容の度合いには文化的な違いがある。
戦争であれば、殺人は正当化される。
テロ集団を抹殺することは、正当な行為と見なされる。
自国の兵士が殺害された場合には悲劇と捉えられるが、テロリスト側からすれば正当な反撃として讃えられる。

フランスでは、デモがしばしば暴動を勃発する。
典型的なのは、黄色いチョッキ(Gillets Jaunes)たちの破壊行為。
日本であれば、暴力的に建物や自動車などを破壊した時点で世論から断罪されるだろうが、フランスでは一年近く続いても、世論の支持が一定程度得られ続けた。
この例は、暴力の許容度が文化によって異なることを示している。

許容度の問題は、「表現の自由」になるとさらに複雑になる。
言い換えれば、言葉はどこまでが許され、どこからが許されないのか?という問題。

フランスでは、「憎しみを煽る表現」は禁じられている。
その場合は、しばしば人種問題にかかわり、反ユダヤ、反イスラムが関係している。

SNSで悪口を浴びせ、相手を自殺に追いやる例は日本にもフランスにもある。

どこまでであれば許され、一線を越えるのはどこからなのか?

今フランスでは、近親相姦的な行為で著名人が断罪されているが、その行為を多少軽く扱うような風刺画が『ル・モンド』に掲載され、批判を浴びた。新聞社は風刺画家との契約を打ち切り、それを支持する声も、表現の自由を守るべきだという声も上がっている。
ムハンマドの風刺ならよく、近親相姦を重視しないように見える風刺がダメだとしたら、その基準は何なのか?

結局、「表現の自由は守るべきだ」という原則を主張しても、基準は曖昧であり、普遍的で絶対的な判断はないというのが現実なのだ。

その曖昧さは、真実の問題とかかわることで、ますます混沌としてくる。

真実

ギリシア哲学以来、西欧社会は常に真実とは何かという問いを投げかけてきた。

プラトンであれば、現実の全ては時間とともに消滅してしまい、永遠の真実は現実を超越したイデア界にあるとした。イデアこそが真実の存在であり、現実はその影でしかない。

デカルトであれば、何一つ信じられるものはないとし、全てのオピニオンを疑った。その結果、疑えないものとは「考えている私」であると思い至り、真実の本質を理性とした。
そこから合理的な思考が発展し、科学的に証明されたものが真実と見なされる時代になった。

というように、真実とは何かという結論に関しての違いあるが、しかし、真実があり、真実を追究するという思いは一貫している。

実は、芸術に関しては、19世紀後半において一大転換があり、現実世界を再現するという芸術観が覆った。
再現とは、現実に存在するものがあり、再現した結果はコピー。常に、本物とコピーの違いが前提にされていた。

そうした芸術観が覆され、言葉、絵具、音等によって作られたもの自体が芸術作品であり、それ自体が意味を持つという新しい芸術観が生まれた。本物とコピーという序列はなくなり、作品はそのものとしての価値を持つ。
その場合には、作品は現実との関係で何かを意味するのではなく、解釈は無限に開かれ、意味を付与するのは作品に接する読者、鑑賞者であるということになる。
さらに言えば、正しい一つの解釈はなく、多様な解釈が自由に行われ、それぞれの意味が共存することで、作品の多様性が生まれ、より豊かな作品になりうる。
こうした芸術観においては、真実とは一つではなく、多様な真実があることになる。

私たちの常識の中では、日常生活において真実は一つであり、現実に起こったことがあれば、検証可能だと思っている。
しかし、SNSのような仮想空間では、多様な真実(?)が拡散している。
その二つの異なった世界像の矛盾に気づかないまま、日常空間と仮想空間を混同するところに、現代社会の難しさが宿っている。
別の言い方をすれば、Aが真実だと思っていることが、Bにとっては真実ではない。真実だと仮定されることが二つあり、AとBはどちらも自分の真実を真実だと信じている。そして、どちらが真実であるかを決める基準が明確にできない。

実は、こうした風潮は、SNSの時代の前に訪れていた。
例えば、ある1枚の絵を見る時、名作を見せても理解できない子供がいるとする。その際、大切なのは子供一人一人の感じ方であり、その子がいいと思わない作品は「その子にとっては」名作ではない。だから、自分がいいと思わない絵を見て、無理に美しいと思う必要はない、と言われることがあった。
文学作品に関しても、個性に合わせた作品を好きなように読めばいいのであり、解釈も自由でいい。
権威として提示される絵画や小説よりも、鑑賞者、読者一人一人の感性に価値が置かれる。

それに対して、これは名作だから、理解できないのであれば、理解できるように努めるべきだという考え方は、傲慢で専制的だとして否定される。
誰が名作だと決めるのか? 名作だと決めた権威があるとしたら、その権威の根拠は何か?
そうした疑問が出され、個人が個人の判断で下される評価が、その個人にとっての価値になるという考え方が正当化される。

ただし、そうした個人の価値判断は、確固たる信念を持っている場合以外、自信を持ちにくい
そのために、逆接的になるのだが、不確かな権威に頼ることも多くなる。
その典型が、様々なサイトで行われる評価のポイント制である。
グルメ、ホテル、ショッピングなど、様々なサイトで個人による評価がポイントで示され、点数が出される。一人の主観的な判断では不確かだが、多数の評価が得られれば、ポイントは信頼できると漠然と信じてしまう。
その結果、誰が書いたのか、本当の評価なのか、業者による操作なのかもわからないまま、数字を見て信じてしまう。
非人称で不特定多数の評価の方が信頼に値するという無意識の心向きが、いつしか出来上がっているのである。

科学に関しては、専門家と考えられる科学者に対する信頼は残っているが、コロナウイルスに関して、フランスでは専門家に対する信頼が揺らぐ事態が起こった。
テレビに数多くの医学関係の専門家が出てくるが、意見のばらつきが数多く見られ、何が本当かわからない、誰を信じていいのかわからない、という現象が起こった。

日本のテレビでは、ワイドショーなどで、何かの機会に名前を知られるようになったコメンテーターが、専門に関係なくオピニオンを表明し、同調する視聴者がその意見を拡散し、世論の一部を形成するという事態が起こっている。オピニオンの根拠は問われず、その影響が引き起こす結果が問われることもない。

ここで起こっているのは、発言者の背景や発言の根拠を問わず、流れてくる情報の中で、自分にとって理解しやすいものや同感できるものを無意識的に選択するという情報の伝達である。

SNSでは、匿名性がさらに高まり、誰の発言かは不透明であり、発言者がその問題について発言する能力や資格があるのかは問われない。
ある固有名詞が使われ、それに対する権威付けが行われれば、その固有名詞が絶対的な権威になる。
その場合には、押しつけられた権威ではく、自発的に依存する権威であるために、依存度は高くなる。

しかも、接する情報は、その権威から発せれるものと同質のものだけになるので、似た者同士の空間に安住していることができ、最も気持ちのいい情報空間ができあがる。
グルメ情報であれば、自分が星5つとしたレストランに常に5つ星の評価が与えられるようなものであり、その評価が絶対的なものになる。つまり、5つ星のレストランという評価が、絶対的な真実になる。
2を入れる人間が出た場合には、その人間は味覚音痴か、誰かに操られてあえて悪い評価をしたのだと確信する。

その時、こう考える人がいるかもしれない。
実際にレストランで食事をすれば、美味しいかまずいかははっきりし、5と2のうちのどちらが正しいかわかるはずだ。
しかし、味の評価は主観的なものであり、5と思っている人には5の味だし、2とした人には2の味という可能性もある。そうなれば、現実さえも、オピニンの根拠にはならない。

2016年には、ポスト真実という用語が提示された。
Wikipediaに記された定義によれば、「ポスト真実(post-truth)」とは、「世論を形成する際に、客観的な事実よりも、むしろ感情や個人的信条へのアピールの方がより影響力があるような状況」を示す言葉。

この定義では、まだ「客観的な事実」があるとされているが、しかし5年後の現在では、客観的な事実さえ真実性が怪しくなっている。
具体的な例を考えてみよう。
2021年1月16日に、アメリカの連邦議会議事堂が暴徒たちによって襲撃された。その事実は事実であるが、しかし、解釈については多様な見解が積み重ねられている。
一部の人の真実が他の人々の真実とぶつかり合い、どちらもが納得する一つの真実に達することはないだろう。
もし両者が将来存続し続けるとしたら、2つの歴史が書かれることになるだろう。

人間の価値は自由にあり、その自由を行使して、事実をどのように解釈するかの自由も認められている。
だからこそ、現代においては、たとえ事実は一つでも、一つの真実を決めるのは不可能なのだ。
それが、現代の様々な問題を引き起こす原因だが、それを解消する術は現代にはない。


今後

人間の生活はこれからますますスマートフォンに依存していく。
現状ではスマートフォンを選択しない自由も残されているが、しかし近い将来、交通機関も料金の支払いも、医療も身分の証明等、あらゆる分野でスマートフォンが不可欠な生活になっていくだろう。
そのことは、SNSの時代が今後も続き、生活だけではなく、人間の思考をも規定していくことを意味している。

そうした中で、人間がスマートフォン化するのではなく、スマートフォンを人間化するためにどのようにすべきか?その方法を模索していくことが、これからの課題になるだろう。


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