自己愛 ラ・ロシュフコー 箴言 La Rochefoucauld  Maxime 2/2

(5)自己愛の捉えがたさ

Il est tous les contraires : il est impérieux et obéissant, sincère et dissimulé, miséricordieux et cruel, timide et audacieux. Il a de différentes inclinations selon la diversité des tempéraments qui le tournent, et le dévouent tantôt à la gloire, tantôt aux richesses, et tantôt aux plaisirs ; il en change selon le changement de nos âges, de nos fortunes et de nos expériences, mais il lui est indifférent d’en avoir plusieurs ou de n’en avoir qu’une, parce qu’il se partage en plusieurs et se ramasse en une quand il le faut, et comme il lui plaît. 

自己愛は、対立するもの全てである。高圧的であり、従順。誠実であり、感情を偽る。慈悲深く、残酷。内気であり、大胆。自己愛は、多様な気質に従って、異なる傾向を持つ。それらの気質が自己愛を方向付け、自己愛をある時には栄光に、別の時には財産に、さらに別の時には快楽に捧げる。自己愛は、私たちの年齢、富、経験に応じて、向かう先を変化させる。しかし、複数の傾向を持とうと、一つだけの傾向だろうと、そうしたことには無関心だ。なぜなら、必要な時に、好きなように、複数に分かれたり、一つに集まったりするからだ。

もし自己愛が明確な形をしていれば、私たちはすぐにそれとわかる。しかし、自己愛は変幻自在に姿を変え、しかも、正反対の感情を通して現れることがある。
それが、tous les contraires(全ての対立するもの)の意味することだ。

différentes(異なる)、diversité(多様性)という言葉も、自己愛の変幻自在さを示す。
人々の多様なtempéraments(気質)に応じて、自己愛のinclinations(傾向)も様々に変化する。そのために、ある時の自己愛はla gloire(栄光)に向かい、別の時はles richesses(財産)やles plaisirs(快楽)に向かったりする。

nos âges(私たちの年齢)、nos fortunes(富み)、nos expériences(人生経験)の違いによっても、自己愛の向かう先は変化する。
しかし、それらが複数だろうと、一つだろうと、自己愛にとってはどうでもいい。なぜなら、全ては自己愛の思いのままなのだから。

要するに、私たちが何を望み、どんなことを行うにしても、どこかに自己愛が潜んでいる。例えば、相手に対してimpérieux(高圧的)な態度を取る場合も、相手にobéissant(従順)な時も、どちらにしても、相手を通して自分を愛するという自己愛に源を発していると、ラ・ロシュフコーは考える。

続きを読む

自己愛 ラ・ロシュフコー 箴言 La Rochefoucauld Maxime 1/2

17世紀フランスの宮廷では外見が全てだった。
そのことは、ルイ14世の時代に活躍したシャルル・ペローが語る「長靴をはいた猫」を思い出すとすぐに推測がつく。
主人公は貧しい粉屋の息子だが、猫の知恵によって貴族の服を手にいれ、それを着ることで、王女と結婚することが可能になる。
宮廷社会では、服という外見が身分の保証となった。

そうした外見の文化を生き抜いていくためには、外見の裏に隠された内心を読み取ることが必要になる。
ラ・ロシュフコーは1665年に上梓した『箴言集(Maximes)』のエピグラフとして、「我々の美徳は、大部分の場合、偽装された悪徳である。」という一文を掲げた。
そして、美徳と見える振る舞いを促す原動力として、自己愛(l’amour-propre)を置いた。

次のような箴言は、私たちの心にもすっと入ってくる。
「自己愛は、この上もなく巧みに人をおだてる。」(L’amour-propre est le plus grand de tous les flatteurs.)
「私たちの自己愛にとって耐えられないのは、意見を否定されることよりも、趣味を否定されることだ。」(Notre amour-propre souffre plus impatiemment de la condamnation de nos goûts que de nos opinions.)
こうした箴言は現代のキャッチコピーと似たところがあり、何も考えなくてもすっと理解でき、時には誰かに伝えたくなる。とても魅力的な言葉だ。

ただし、時間をかけて考えた上で納得するではなく、反射的に好き嫌い、納得するしないが決まる。そのために、前提となる思考が見えてこないという問題がある。

ここでは、1659年に発表された比較的長い考察を取り上げ、ラ・ロシュフコーが自己愛についてどのように語っていたのかを、少し時間をかけて読み、考えていきたい。

続きを読む

ラ・ロシュフコー 『箴言集』 全ては自己愛? La Rochefoucauld Meximes De l’amour-propre

ラ・ロシュフコーの『箴言集』のエピグラフには、こんな言葉が上げられている。

Nos vertus ne sont, le plus souvent, que des vices déguisés.

我々の美徳は、ほとんどの場合、偽装された悪徳にすぎない。

ラ・ロシュフコーの箴言は、こんな風に、物事を斜に構えて眺める皮肉な態度につらぬかれている。

この17世紀のモラリストに対して、太宰治は、「ラロシフコーなど讀まずとも、所謂、「人生裏面觀」は先刻すでに御承知である。眞理は、裏面にあると思つてゐる。」と書き、物事には裏表があることなどわかっていると毒づいたことがある。
https://bohemegalante.com/2019/06/27/datai-la-rochefoucauld/

太宰が言う「人生裏面觀」は現在でも通用するが、17世紀のフランスにおいては、とりわけ必要とされるものだった。

続きを読む

言葉の裏を読む 太宰治とラ・ロシュフコー

太宰治が『風の便り』という小説の中で、次のように書いている。

あいつは厭な奴だと、たいへんに好きな癖に、わざとさう言い変へているような場合が多いので、やり切れません。思惟と言葉との間に、小さな歯車が、三つも四つもあるのです。

https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/283_15064.html

言葉と気持ちの間にズレ(歯車)があるために、言葉の表面的な意味だけでは相手の本当の気持ちを知ることができない。
自分でも言いたいことがうまく言えないことがあるし、相手が嘘をついていることもある。だから、言葉だけでは信じられない。
本心を知りたいけれど、言葉を通して読み取った気持ちが本心かどうかはわからない。

こんな現代人の気持ちを、太宰治はとても上手に汲み取っているので、『斜陽』が今でも一番売れている小説なのだろう。

続きを読む