ラ・ロシュフコー 『箴言集』 全ては自己愛? La Rochefoucauld Meximes De l’amour-propre

ラ・ロシュフコーの『箴言集』のエピグラフには、こんな言葉が上げられている。

Nos vertus ne sont, le plus souvent, que des vices déguisés.

我々の美徳は、ほとんどの場合、偽装された悪徳にすぎない。

ラ・ロシュフコーの箴言は、こんな風に、物事を斜に構えて眺める皮肉な態度につらぬかれている。

この17世紀のモラリストに対して、太宰治は、「ラロシフコーなど讀まずとも、所謂、「人生裏面觀」は先刻すでに御承知である。眞理は、裏面にあると思つてゐる。」と書き、物事には裏表があることなどわかっていると毒づいたことがある。
https://bohemegalante.com/2019/06/27/datai-la-rochefoucauld/

太宰が言う「人生裏面觀」は現在でも通用するが、17世紀のフランスにおいては、とりわけ必要とされるものだった。

17世紀の思想家デカルトやパスカルは、「考えること(penser)」を人間の中心に置いたが、その前提には神の存在があった。神の世界は絶対的な真実。それに対して、人間が五感によって捉える現実世界は、不確かで不安定。だからこそ、全てを疑い、人間の弱さや不十分さを自覚した上で、「考えること」が重要であると、二人の思想家は説いたのだった。

Abraham Bosse, Le bal, tiré de la série Le Mariage à la ville

そうした思想は、現実の世界を生きていく上でも意味を持つ。
17世紀のフランスは、貴族の女性たちが主催するサロンや、王を中心とした宮廷社会が、文化の中心だった。
そこでは、サロンや宮廷の作法に合わせて礼儀正しく行動する(bienséance)ことが、最も重要なことだった。
地位に相応しい服装をし、場に合った行動をすること。
心で何を思っていようと、外観を繕うことが、サロンや宮廷社会に受け入れられるための技術だった。
そこはまさに、外観の文化(la culture de l’apparence)だった。

そうした社会の中で、外観の下に隠された本当の思いを読み取る術は、生き抜いていく上で必要不可欠のものだった。

サロンや宮廷に渦巻いていたであろう嫉妬に関して、ラ・ロシュフコーは、こんな風に言う。

Il y a dans la jalousie plus d’amour-propre que d’amour. (324)

嫉妬の中には、愛よりも、自己愛の方が多くある。

思わず頷いてしまうのではないだろうか。
嫉妬は、他の人間よりも自分の方が愛されたい、上に立ちたいという願望に他ならない。しかも、自分ではそれを自覚したくない。
ラ・ロシュフコーは、そんな隠れた側面を、次々に暴いていく。

12世紀フランスの恋愛論の中では、嫉妬は恋愛の用件とされていた。しかし、相手に対する愛以上に、自分に対する愛の方が嫉妬の要因かもしれないと言われれば、そうかもしれないと思う。

La jalousie naît toujours avec l’amour, mais elle ne meurt pas toujours avec lui. (361)

嫉妬はいつでも愛と共に生まれるが、いつも愛と共に死ぬわけではない。

確かに無関心なものに嫉妬心は湧かないから、愛の印かもしれない。しかし、愛が消え去った後でも、嫉妬だけが残ることはある。
長々と説明されるわけではなく、こんな風に断言されると、かえって説得力がある。

恋愛については、こんな言葉がある。

Si on juge de l’amour par la plupart de ses effets, il ressemble plus à la haine qu’à l’amitié. (72)

恋愛を、相手に及ぼす大部分の効果から見ると、友情よりも、憎しみに似ている。

L’amour aussi bien que le feu ne peut subsister sans un mouvement continuel ; et il cesse de vivre dès qu’il cesse d’espérer ou de craindre. (75)

恋愛は、火と同じで、ずっと動いていないと続かない。希望とか恐れがなくなると、恋愛も生きるのを止める。

Il n’y a que d’une sorte d’amour, mais il y en a mille différentes copies. (74)

恋愛には一つの種類しかない。しかし、様々なコピーが数多くある。

恋愛をすれば、相手の振る舞いを通して、心の中を知りたいと思うだろう。
外見だけでは決して信用はできない。恋愛を装うことも数多くある。

恋愛に限らず、人間が集まる場所では、意識的にしろ、意識しないにしろ、様々な駆け引きが行われる。

Il est aussi facile de se tromper soi-même sans s’en apercevoir qu’il est difficile de tromper les autres sans qu’ils s’en aperçoivent. (115)

Georges de la Tour, Le Tricheur à l’as de carreau

自分でも気づかずに自分を騙す(間違える)のは簡単。他人を騙して、それに気づかれないのは難しい。

しばしば自己愛は自分のことを見えなくしてしまう。そこで、自分が間違っていても、それに気づかない。
しかし、自己愛は他人には作用しないので、他人を容易に騙すことはできない。

他人に対して何かをしているつもりでも、実は自分の満足を得るためだということもあったりする。ラ・ロシュフコーは、そんな自己のあり方を、鋭く指摘する。
しかし、そうしたことは気づくことは少ない。なぜなら、

L’amour-propre est plus habile que le plus habile homme du monde. (4)

自己愛は、世界で最も巧妙な人間よりもさらに巧妙だ。

ラ・ロシュフコーの世界観では、至る所に自己愛が潜んでいる。

「自己愛とは、自分自身と、自分のためになる全てのものに対する愛である。( L’amour-propre est l’amour de soi-même et de toutes choses pour soi.(563)」と、ラ・ロシュフコーは定義する。

ラ・ロシュフコーがサロンや宮廷社会を支配する外見の文化の中で、偽りのイメージを通して真実に達しようと思考(pensée)を巡らせた時、自己愛を行動の源泉とする人間の姿が見えてきたのだろう。
そこで彼は、『箴言集』の読者に、自己を映し出す鏡を差し出した。

読者はその鏡に自分の姿を見ることもできるし、他の人の姿を見ることもできる。
その見方が、読者の姿なのだ。

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