
太宰治が『風の便り』という小説の中で、次のように書いている。
あいつは厭な奴だと、たいへんに好きな癖に、わざとさう言い変へているような場合が多いので、やり切れません。思惟と言葉との間に、小さな歯車が、三つも四つもあるのです。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/283_15064.html
言葉と気持ちの間にズレ(歯車)があるために、言葉の表面的な意味だけでは相手の本当の気持ちを知ることができない。
自分でも言いたいことがうまく言えないことがあるし、相手が嘘をついていることもある。だから、言葉だけでは信じられない。
本心を知りたいけれど、言葉を通して読み取った気持ちが本心かどうかはわからない。
こんな現代人の気持ちを、太宰治はとても上手に汲み取っているので、『斜陽』が今でも一番売れている小説なのだろう。
フランスで、人の振る舞いや言葉から本当の姿を読み取ることが最も盛んに行われたのは、17世紀。ルイ14世が支配するヴェルサイユ宮殿の中の宮廷社会は、行動や衣服が明確に決められ、外見が全てともいっていい世界だった。
「外見の文化」を最もよくわからせてくれるのが、シャルル・ペローの書いた「長靴をはいた猫」。
粉屋の息子でも、貴族の服を着れば、猫のエスプリの手助けのおかげで、貴族として扱われ、王の娘と結婚に至ることができる。
その一方で、外見と中身、言葉と心の中の思いのズレも意識されていた。
「巻き毛のリケ」で描かれるのは、巻き毛で外見が醜いリケと賢い王女の話。王女がリケを愛するようになると、外見は同じままでも、リケのことを美しいと思うようになる。心の思いが外見を違ってみせるという物語は、外見と中身のズレを証明している。

外見の文化そのものである宮廷社会では、見かけから中身を読み取る必要があった。ラ・ロシュフコーの『箴言集』は、そうした裏読みの集大成といえるだろう。
われわれの徳行は、往々にして偽装した不徳にすぎない。
われわれは、あまりにも他人の前に自分を偽装するのに慣れているので、しまいには自分の前にまで自分を偽装するようになる。
恋を定義するのは難しい。強いて言えば、恋は心においては支配の情熱、知においては共感であり、そして肉体においては、大いにもったいをつけて愛する人を所有しようとする、隠微な欲望にほかならない。
慎ましさとは、妬みや軽蔑の的になることへの恐れである。幸福に酔いしれれば必ずそういう目にあうからだ。それはわれわれの精神のくだらない虚勢である。さらにまた、栄達を極めた人びとの慎ましさは、その栄位をものともしないほど偉い人間に自分を見せようとする欲望なのである。
太宰治は、ラ・ロシュフコーについての短文を書き、こうした考え方を「人生裏面觀」と名付けて批判している。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/52379_42101.html
ラロシフコーなど讀まずとも、所謂、「人生裏面觀」は先刻すでに御承知である。眞理は、裏面にあると思つてゐる。
「人をして一切の善徳と惡徳とを働かしむるものは利害の念なり。」など喝破して、すまして居られなくなつたであらう。浪曼派哲學が、少しづつ現實の生活に根を下し、行爲の源泉になりかけて來たことを指摘したい。ラロシフコーは、すでに古いのである。
太宰的に言わせれば、人には裏表があり、表を見ながら裏を読み取ることなど、日本人にとって当たり前のことなのだろう。歯車は一つだけではなく、三つも四つもある。
太宰はラ・ロシュフコーを古いと言い放ったが、彼自身、言葉の裏を読まないとけないのはやりきれないと言っている。としたら、言葉の裏を読むのは、古い新しいではなく、永遠の課題だといえるだろう。
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