ポスト真実を克服するために

現在の最も大きな病理の一つは、ポスト真実と名付けられた状況だろう。

21世紀に入りインターネットでの情報が爆発的に増加した結果、現代の社会はポスト真実(post-truth)の時代に入ったと言われている。
ポスト真実とは、客観的な事実や真実よりも、自分の感情に合った情報、自分にとって都合のいい情報を信じる傾向が強まり、感情的な情報が社会のオピニオンの形成に大きな力を及ぼす現象を指す。
2016年にオックスフォード英語辞典が「2016 Word Of The Year(2016年を象徴する言葉)」と認定したことで、世界的に流通する用語になった。
https://en.wikipedia.org/wiki/Post-truth_politics

アナログとデジタルの違いは、情報の受信法を大きく変化させた。その具体例として、レコードとCDを取り上げてみよう。
レコードの場合、一度最初の曲に針を落としたら、録音されている順番で針が上がるまで聞いていることが多い。それに対して、CDであれば、好きな曲だけ選択して、その順番さえ、自分の思い通りにすることができる。選択権は聞く側にあり、自分の好みでない曲は飛ばしてしまう。

テレビとネットでのニュースに関しても同じことが言える。
テレビでは、編集されたニュースをその順番で受身的に見ている。見たくなければチャンネルを変えることも、スイッチを切ることもできるが、惰性でニュースが終わるまで見てしまうことも多い。
他方、ネットであれば、関心のあるニュースだけ選択して読む。入ってくる情報は、フェイスブック上の知り合い、ツイッターのフォロワー、好みのメディアに限られる。それ以外の情報に触れる機会があったとしても、興味がないこと、自分とは関係ないこととしてスルーしてしまう。

そのような状態を続けていると、情報の真実性は問われなくなる。マスメディアにおいてさえフェイクニュースが流される中で、ネット上では根拠のない情報に溢れている。

そうした中には、悪意や曲解された情報も多い。例えば、パリのノートルダム寺院の火災の時、屋根の上の像を人影だとして、キリスト教に対する悪意を持った人間の仕業だという情報が流され、火災陰謀説を信じる人達がたくさんいた。
さらに、それが偽りの情報だとわかった後でも、陰謀説を唱える人達がいる。失火だと信じたくない人達が、事実を無視して、自分の感情に訴えかける情報を信じることの、一つの例である。

文字情報よりも、視覚情報の方が真実味があるために、映像を加工したり、事件とは別の映像を使うことで、フェイクニュースを信じ込ませようとすることも盛んに行われる。

17世紀の初頭、デカルトは、全てのオピニオンを疑うことから始め、最終的に疑えないことは「考える私」しかないとして、「我思う、故に我在り。」と有名な言葉に至った。

ポスト真実の時代、「疑う私」は完全に忘れられている。
20世紀に入り、絶対的に正しいことはなく、全ては私の視点と対象との相対的な関係の中に成立するという、相対主義的、現象学的な思想が主流になった。誰にでも共通する絶対的で唯一の真実はなく、一人一人の立場によって真実は違う(可能性がある)という考え方。

時間をかけて真実を探ろうとしても、真実にはたどりつけない。であれば、何が真実か混沌とした中で、自分の感情に合致し、根拠がなくても正しいと思えることを信じる傾向が出来上がったとしても、不思議ではない。

しかし、ポスト真実の状況は決して好ましいことではない。
ヨーロッパではポピュリスムの動きが強まり、人種差別が公然と行われ、格差が増大し、社会不安がますます強まっている。
地球の環境問題に関しても、経済優先の政策が続けられ、本質的な対策が練られないまま時間が過ぎている。社会の分断化は21世紀に入り、ますます進んでいる。

真実を求めるのではなく、自分の感情に適合する情報だけを求め、それ以外をスルーする習慣を持った現代人に対して、違う意見を受け入れるように説得することはほぼ不可能である。そうした中で、どうしたら状況をわずかでも改善できるのだろうか。

「三田」
この地名の場所はどこにあるだろう。
関東圏の人間であれば、この漢字を「ミタ」と読むだろう。そして、東京都心の一地区を思い浮かべる。
関西圏の人間にとって、この地名は「サンダ」である。兵庫県の南東部にある田園都市。
どちらかしか知らない場合には、一つの読み方しかしない。その上、誰もが同じ読み方をし、同じ市の名称であると思い、疑うことをしない。
他方、もし二つの文化圏に関する知識があれば、二つの読み方があり、別の市の名称であることを知っているために、一方的な決めつけをすることがなくなる。

「三田」の読みと意味は、それを解釈する人間の持つ内的な「辞書」によることになる。
辞書が充実していれば、読みも豊かになる。

ポスト真実の時代に求められることは、「内的な辞書」を豊かにすることである。
別の視点があると知ることで、一つの真実だけがあるという思い込み、感情的に同一化できる情報だけしか受け付けない傾向、こうした頑な姿勢を和らげることができるはずである。
多様な視点があると知ることで、楽しみが広がる。その体験が、ポスト真実対策として有効に違いない。

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